08/03

 オートクチュールについて考えてみようか。これは1882年、イギリスの老紳士オートク(当時68歳)が空を舞うムササビの華麗なる姿を見て「チュール! チュール!」と叫んだことから生まれる。このときオートクは家をごろ寝していたのだが、嫁の泰子さんの掃除機の魔の手によって強制退去され当ても無くぶらついていた。さてムササビと言えば、僕もムササビは好きである。となるとこれは偶然の一致とは思えない。オートクチュールと僕のムササビ好きは何らかの因果性を持つと考えるのが妥当であろう。寧ろもう等符号で結んでも良いだろう。オートクチュール=俺。即ち、オートクチュールは僕であった。僕こそがオートクチュールであったのだ。これは一見意外性を伴ったように見えて、よくよく考えてみると妥当性を大いに含んだ結論である。僕はオートクチュールで、オートクチュールは僕。ムササビは神で、猫も神。君はドアノブの留め金で、ノブを支えている。君がいなければドアノブは落っこちてしまう。君は必要な存在だ。いいかい、これは重要な役目だ。君にしかできない、大切な、大切なポストだ。




08/12

 ああそうか。ベッドじゃなくて布団にすればいいんだな。そうすれば本棚を置き、本棚から溢れ行き場を失っている本に宿を与えることができる。しかし8年間ベッドで過ごしてきた僕が今更布団に戻ることができるだろうか。夜寝るときに布団を敷き、朝起きて布団を畳む。それはとても辛いことのように思える。だが横に積み並べられている本を見るのも同様に辛いことだ。そのような葛藤に心を奪われていると、ベッドのスプリングが飛び出して僕をスプリングマンへと変身させた。僕は超人となった。僕はこの力を使いコンビニで値切り、いつも僕に向かって吼える犬を退治した。




08/21

 今月末に高校の同窓会があるようなんですが、とても行きたいけど行けるわけありません。女子の人数が全体の9割、その女子の知り合いが一人もできなかった僕が一体どの面下げて行けばいいのでしょうか。「何来てんのアイツ?」目で見られることは必須、避けられぬ事態となるでしょう。僕はそんな視線に耐えられそうにない。だが勘違いしないでほしい。僕は女子を恐れているわけではない。何故なら僕は彼女達を蟻と見なしている。実に小さな存在だ。そこで僕が砂糖を撒く。すると彼女らは必死で砂糖に群がって来る。蟻だからだ。僕は人間を賛歌している。それゆえ、人のそんな姿を見たくはないんだ。だから僕は同窓会には行かないし、彼女らの周りに砂糖を撒かない。鳥取県が忍者っぽいことは口には出さないし、ゴスロリはコスプレだなんて言わない。九州はNHKしか映らないという幻想を誰かに伝えたりもしない。




08/25

 道端にダイコンが真っ二つに割れて落ちていました。これは夫婦喧嘩のなれの果てでしょうが、これには残念ながら遺憾の念を表すしかありません。僕ならここに味噌、ネギ、豆腐を置いていきます。この真っ二つのダイコンだけでは夫を殴る嫁の姿しか連想できませんが、ここに更に材料を置くことにより見る者のイマジネーションを深め、可能性は無限に広げることが可能となります。涙により巨大化したハムスターを思い浮かべることすら容易でしょう。これは言わばカオス理論に通じるものがあると言え、そういえばカオス理論への当て字は僕は断然「顔酢理論」を提唱する。美容のための酢水などがある反面、酢を顔にかけて歩けば酢人間と罵られてしまう、この正と負の二面性、二律背反に僕は強く惹かれてしまうのだ。一人の男の話をしよう。彼は顔面のみならず、全身を酢を塗りたくっていた。彼が山道を歩いていると、穴に落ちた。そして誰にも助けてもらえぬまま彼は死んだ。話を戻そう。僕が酢に憧れの気持ちを抱いたのは小学6年の秋、しかし大事なのは秋という季節ではない。小学6年という時期でもない。大切なのはそう、僕が酢を愛するこの気持ちだ。この気持ちこそが真実なんだ。




08/29

 インスピレーションは沸くのだけれど、モチベーションがそれに伴わない。例えば今「博士」と「白痴」が似ていることに気付いてしまい、頭ではこれに関して30行以上に渡り書く自信はあるのだけれど、体がどうしても億劫で動いてくれない。この精神と肉体の乖離状態を俗に「口では嫌がっていても、体は正直だな」と言う。して今このような毒にも薬にもならない言い訳文を仕方なしに打っているわけなのだが、ここにわざわざ足を運んでやって来る貴方がた読者の時間を浪費させることが叶わないことに私は真に残念な限りである。




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