1960-1-3:道後駅/この明治洋館風の駅舎は1911年の完成。


飛行機便の広告看板が掲げられている。
看板の表示は、
「益々便利になった松山 60分 大阪航空便 毎日12:55発 
運賃3900円 30人乗大型機*就航中!」
(*30人乗大型機とは、ダグラスDC-3であろう。)
1960年当時の航空事情**がわかる

**参考:1960年当時の国鉄/松山―大阪の運輸事情
準急いよ―連絡船―準急鷲羽で9時間02分(1日1便)、準急瀬戸―連絡船―急行瀬戸で10時間02分(1日1便)
3等運賃は、松山―大阪\840、準急が松山―高松\120、宇野―大阪\120、急行が宇野―大阪\230だった。
飛行機は、たいへん速かったが、運賃が鉄道の3・.6倍で、庶民の乗り物ではなかった。

1962-1-4:道後温泉駅
駅の看板が変わり、「道後温泉駅」になっている。
(1961-4-1 駅名改称/道後→道後温泉)

道後温泉駅(1986-8-12)
木造2階建ての旧駅舎は、1985年に解体され、
明治時代の姿に復元された鉄骨2階建の駅舎が新築された。(1986-5-31完成)

1961-1-3:道後駅
左は松山駅前行きモハ61、右は到着したモハ58。
この頃は、系統番号は無い。
電車正面は当時流行の金太郎塗りである。(後の1966年頃、塗装変更)
1948年頃は、構内踏切の左に集札口があったが、
この写真の当時は、運転士と車掌が集札を行っていた。
(1971-1から1972-10にかけて、ワンマン化された)

1962-1-4:道後温泉駅
到着したモハ62
(折り返しは本町=今は本町四丁目=行き)
後に、この部分に、亘り線が設置された。

1960-1-3:道後駅前
右の「歓迎」の広告塔がある敷地は、放生園で、放生池がある。
この場所は、この後、噴水池、駐車場、坊ちゃん列車展示場などの変遷を経た。
今は、湯釜、からくり時計、足湯などがある。
画面左手に、道後商店街の入口がある。

駅舎復元を記念した電話カード(1986年 発行)

1960-1-3:道後商店街
道後駅前から北に入った所である。北向きに撮影している。
1960年代中頃に、通りを覆う屋根が設けられた。
左の「くしや旅館」や右の「もぐさ―池田タオル店」は現存しない。

ここから約100m進むと、商店街は、右に曲がり、温泉本館前に至る。

1960-1-3:道後商店街
商店街が東に曲がる部分。
1960年代中頃に、通りを覆う屋根が設けられた。
左の「甘美堂」や右の「すし元」は現存しない。

ここから約100m進むと、温泉本館前に至る。

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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城南線  Jonan Line

1950年代は、駅前に、旅館の客引きが沢山いたが、
今は、その姿を見ない。

道後温泉本館
The main building of public bath of Dogo Hot Spa (The building was built in 1894.)
これは1940年代の絵はがきだが、今日でも様子は変わっていない。
温泉本館は、
1894年完成の木造3階建で、屋上に振鷺閣がある。
毎朝、振鷺閣の太鼓の音を合図に、温泉本館が開く。

この建物は、築後100年を経た1994年に、重要文化財に指定された。

道後温泉
道後温泉は、日本最古の温泉の一つである。伝説によると、一羽の鷺が傷を癒した事で発見されたといいう。
「伊予風土記逸文」には、大国主命が、重病に苦しむ少彦名命を、掌に乗せて温泉で温めて、治した、との記事がある。
この他にも、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后来浴の伝説があり、
また、聖徳太子、舒明天皇、斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子、額田王なども入湯した。
国名「伊予(いよ)」は、湯(ゆ)の転訛である、という説がある。
701年の大宝律令で、伊予国府が現在の今治市桜井に置かれた。
都から見て、国府よりも遠い側を、「道後」と称した事から、温泉の名が付いた、とされている。

夏目漱石と道後温泉
文豪・夏目漱石(1867〜1916)は、
1895-41896-3の間、愛媛県立尋常中学校(松山)の英語教師を勤めた。
その間の、
1895-8-22に、道後鉄道*の一番町―道後2.1km(762mm軌間、蒸気機関車使用)が開通した。
(*1900-5-1 伊予鉄道に合併)
上野家(二番町)の離れ(愚陀仏庵と名付けた)に下宿していた漱石は、道後鉄道を利用して、道後温泉に通った。
その模様が、小説「坊ちゃん」に記されている。
この事が基になって、伊予鉄道の蒸気機関車牽引の列車に、「坊ちゃん列車」の愛称がついた。
漱石が入湯した時の温泉本館は、完成直後で、たいへん立派だった、と思われる。
松山を貶してばかりだった漱石も、 温泉についてだけは、次のように、褒めている。
「おれはこゝに来てから、毎日住田(=道後)の温泉に行く事に極めて居る。
ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈は立派なものだ」
漱石は、熊本の第五高等中学校の招聘に応じて、1896-4に、松山を去った。

愚陀仏庵では、一時期、俳人正岡子規が同居人だった。
漱石は、子規から、俳句の手ほどきを受けた。
松山を去るに際して漱石が詠んだ句は、「 わかるるや 一鳥啼いて 雲に入る」である。

後記
二番町にあった愚陀仏庵は、1945年の米軍の空襲で焼失した。
1982年、一番町三丁目に愚陀仏庵が復元されたが、2010年の土砂崩れで、この建物は全壊した。
二番町の旧地は、ある不動産会社が所有している。

城南線 道後駅→道後温泉駅
Dogo Hot Spa Stn. former Dogo Stn., Jonan Line

城南線(道後―一番町―松山駅前 ・ 南堀端―松山市駅前)は、道後鉄道に起源がある。
但し、現在の路線の大部分は、その後に開業した松山電気軌道の経路を踏襲している。

1995-8-22 道後鉄道:道後―一番町2.1km開業(762mm軌間、蒸気機関車使用)
1900-5-1  伊予鉄道が道後鉄道を合併

        伊予鉄道が、松山の外港を三津港から高浜港に移した事に反発した三津町民は、
        対抗策として、松山電気軌道(道後―一番町―三津)を起業した。
1911-8-8  伊予鉄道は、これに先制して、道後―一番町を改軌(1067mm)、電化
        これにわずかに遅れて、松山電気軌道(1435mm軌間、電化線)が、次の通り開業した。
1911-8-31 松電/道後―一番町―西堀端―札ノ辻4.4km、及び本町―住吉4.7km開業
1911-9-19 松電/札ノ辻―本町0.3km開業
1912-2- 7  松電/住吉―江ノ口0.5km開業
        伊予鉄道と松山電気軌道の路線は平行しており、 両社の間に、激烈な乗客獲得競争が、繰り広げられた。
        結局、体力に勝る伊予鉄道が勝利を収め、
1921-4-1  松山電気軌道は伊予鉄道に合併された。

1923-6   旧松電線/道後―江ノ口 改軌(1435mm→1067mm)
1926-5-2  旧松電線/道後―一番町 複線化(御宝町付近は経路変更)
1926-5-2  旧道後鉄道線/道後―一番町 廃止
        (結局、旧松電線が、城南線、本町線として残る事になった。)

        省線・讃予線(1930年に予讃線と改称)の松山延長に合わせて、とりあえず、
1927-4-3  古町―松山駅前開業(城北線経由で連絡)(城南側からは、萱町―古町徒歩連絡)
        (西堀端―松山駅前の短絡線は、高浜線との平面交差が生じるので、認可が遅れた)
1929-3-30  萱町―古町開業(西堀端―本町―萱町―古町―松山駅前の経路で連絡)
1929-3-30  旧松電線/萱町―江ノ口 廃止

1936-5-1   西堀端―松山駅前開業(単線)
1936-5-1   裁判所前―西堀端 複線化
1941-11-11 西堀端―松山駅前 複線化

1947-3-25  南堀端―松山市駅前開業(複線)