1960-1-3:道後公園前/松山駅前行きモハ56が停まってる。
その左、道後方面行きには、安全地帯が無い。(2004年まで無かった。)

右に道後公園がある。この頃は、公園の入口に、ロケット状の標識(道後公園・動物園)があった。
県立動物園の開園は1953-10-1である。
1954-7-12に、松山に、初めて、象が来た。電車通りを歩いて来るのを目撃した。
県立動物園は、1988-4-1に、伊予郡砥部町に移転した。
松山にとって初めてだったあの象は、半世紀以上経った今は、どうしているだろう。

右に宇和島自動車の貸切バスが停まっている。

1966-12-31:公園前/上一万方向。
突き当たり左に、宇和島自動車のバス車庫がある。

城南線 南町 Minami-machi  (Southern Part of Dogo),  Jonan Line

1962-1-4:南町/東向き(公園前方向)。
道幅が狭いので、安全地帯が無く、路面にペンキで乗降場が示されている。
左に畑があるが、これは、県立農事試験場の実験場である。
右の「ポンジュース」の表示がある建物(2階建)は、県農業会館である。

農事試験場は、その後、北条市(2005年 松山市に合併)に移転し、今は、跡地に県民文化会館(1986年頃完成)がある。
また、農業会館の場所には、 1967年頃にナイトシアター・パレスが出来たが、1989年頃に廃業した。

左:1962-1-4:南町/西向き(上一万方向)。
  道幅が狭いので、安全地帯は無い。右に畑があるが、これは、県立農事試験場の実験場である。
  電車は道後行きモハ53である。
  電車の右の2階建の建物は、中国四国農政局愛媛統計調査事務所である。
右:1966-12-31:南町/西向き(上一万方向)。
  「イケダ産業」の看板のこちら側にあった県農業会館は、解体されて、空き地になっている。

城南線・城北線 上一万 Kami-ichiman, Jonan & Johoku Line

上一万では、城南線から城北線が分岐する。
1960年代に、分岐の方式が2回変わった。

1962-1-4:上一万/東向き(道後温泉方向)。
この頃は、道後温泉方面から城北線に入る電車は、一旦、道後温泉行きの線路に入ってから、城北線に入った。

1961-1-3:上一万/正面右にあるのが、城北線上一万駅舎で、出札口や手荷物受付所がある。
このページの末尾に、上一万駅発行の乗車券を例示する。
駅舎の右側には、相対式プラットフォームと専用軌道がある。
駅舎の屋上に、ポイント切換え室がある。
手前の路面軌道は城南線である。

1966-1-3:城北線・上一万駅舎/城北線は、城南線からの複線分岐に変わってる。配線変更の正確な時期は不詳である。

1966-12-31:上一万/東向き(道後温泉方向)。
城北線は、城南線からの複線分岐に、変わっている。
城北線用の信号機が新設されてる。

1969-12-1に、右図のように配線が変更された。
これは、輸送需要の変化に対応するものである。
(城北―道後よりも、城北―城南の方が多くなった)
これにより、城南線と城北線の乗り場が統合された。
城北線は、平和通を併用軌道で進んでから、専用軌道にる。
上一万駅舎は、解体された。
跡地は、住宅展示場を経て、伊予鉄経営の駐車場になった。

             ワンルーム
1999年に、駅舎跡地に、一 室制 マンションが建った。
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左:1962-1-4:上一万/南向き(警察署前方向)。
  道後温泉行きモハ52が停まっている。
右:1966-12-31:上一万/南向き(警察署前方向)。
  手前に、城南線からの複線分岐になった城北線がある。

1971-6-6:上一万/南向き(警察署前方向)。
松山駅前行きモハ52が見える。
その右に安全地帯が見える。ここが、城南線、城北線両方の乗り場になった。
城北線が手前で右に曲がっている。
交差点に信号機が設置されている。
左:1966-12-31:上一万から見た平和通。
  中央分離帯の向こうに城北線の踏切がある。
  尚、中央分離帯の銀杏は、1951年頃の植樹である。
右:1971-6-6:上一万から見た平和通り。
  城北線は併用軌道で平和通に入り、右に曲がって、専用軌道になる。
1973-8-26:上一万/北向きで、直進するのが城北線である。
安全地帯と歩道とは地下道(1972-5-26完成)で結ばれている。
地下道は、安全確保の点で意義があったのだが、
高齢化社会を迎えた今日、バリア・フリーの点では、問題がある。
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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城南線 道後公園前
Dogo Park, Jonan Line

1340年頃、伊予国の豪族・河野通盛は、道後温泉の傍の丘に湯築城を築き、伊予国支配の本拠とした。
しかし、戦国時代の 1585年、湯築城は、小早川隆景に攻められて落城し、河野氏は滅亡した。
湯築城は、小早川隆景、次いで、福島正則が一時居城したが、1588年に廃城となった。
1888年、湯築城址が、県立道後公園となった。今も、外堀と内堀が残っている。
伊予鉄城北線上一万駅は、国鉄との連帯乗車券を発売していた。
また、国鉄手荷物*の取り扱いも行っていた。


*国鉄手荷物:乗車券を提示すると、1人につき3個までの手荷物を託送できる制度である。
 手荷物は 「チッキ」とも呼ばれていた。(チッキ=checkの転訛とされている。)
 1960年当時は、総重量が30kg以内であれば、運送距離の遠近にかかわらず、運賃は115円だった。
 (配達を頼む場合は、30円加算)
 この制度は、1986年に廃止された。


例1は、1958-9-12 上一万駅発行の、松山市内線の硬券である。
券面は10円だが、実際は13円なので、運賃変更印が捺されている。
この乗車券は、上一万→上野の、手荷物託送用に購入したものである。
(松山→上野の乗車券は、別途、学生割引利用で購入してある。)

伊予鉄での手荷物の運搬は、電車で行った。車内では、それを、車掌の傍に置いた。

例2は、1960-1-6 上一万駅発行の、国鉄連帯乗車券[上一万―(伊予鉄)―松山―(予讃本線)―堀江
―(仁堀連絡船)―仁方―(呉線・山陽本線・鹿児島本線)―小倉]である。
門司で下車したので(途中下車印あり)、手元に残った。
723円という中途半端な金額は、伊予鉄市内線の13円が加算されているからである。

例3は、1960-1-6 上一万駅発行の手荷物切符[上一万→小倉]である。

実寸は、乗車券が42mm×31mm、
手荷物切符が82mm×127mmである。

荷物には、荷受人の住所、氏名を記入した荷札を、3枚以上、付ける。

発 送 人

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例1

例2

例3

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実物は発送人の姓名が手書きで記載されている→