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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

左:1961- 1-3:一番町/西向き(県庁前方向)
  右は伊予鉄会館(5階建)(1960年4月完成)。その向こうのビル(4階建)は愛媛相互銀行である。
右:1962-11-3:一番町/西向き(県庁前方向)
  手前に亘り線が見える。
  戦災罹災で休止中だった本町線西堀端―本町(四丁目)が、1948-7-1一部経路変更の上で、復活した。
  当初の運転系統は、西堀端―本町だったが、1953-2-11に一番町―本町となった。電車はこの亘り線を通って折り返した。
  (1953-4-11に、運転系統は、道後―本町となった。)
左:1959-11-2:一番町/南向き(大街道商店街方向)
 伊予鉄の保線係が、シャヴェルを担いで、歩いている。
 この交差点は、松山で初めての交通信号機が、設置された場所である。(1955-12-1設置)
右:1959-11-2:一番町/西向き(県庁前方向)
 2台の4輪電車が停まっている。前の車両は、松山駅前発道後行きモハ15である。
 その背後に、三越百貨店(一見4階建だが、内部は3階建)がある。
 1946年に、三越が、この位置に、木造2階建で、開店した。
 写真の三越ビル(3階建)は、木造店舗の跡に、1656年10月に完成したものである。
 この時に、松山で初めてのエスカレーターが設けられ、評判になった。
1960-8-15:一番町/東向き(御宝町方向)
交差点の西南側、三越百貨店屋上の展望台から、撮影したもの。
電車停留所には、松山駅前行きモハ57が停まっている。
その後ろは本町行きの4輪電車である。
交差点の向こう(東北角)に、伊予鉄会館(5階建)がある。(1960年4月完成)
その右手の白いビル(3階建)は、商工中金松山支店である。
右手、遠く(御宝町)に、建設中の、愛媛相互銀行本店(5階建)が見える。
左:1966-1-3:一番町/西南角
  ビルが建設中である。
  以前は、ここに新栄座(邦画の映画館)があった。
  1955年には、ここにダンスホール「ディアマント」があった。
  それは、新栄座毎日会館やパチンコ屋を経て、1965年に解体された。
右:1967-1-2:大街道/西南角
  ビル(4階建)が完成している。
  垂れ幕に 「12月7日オープン 一番町ボーリングセンター」 の表示がある。
  右隣のビル(3階建)は、三越百貨店である。
1969-6-15:大街道/東南方
ショッピング・センター「いづみ」(6階建)が完成している。
その左のビル(3階建)は大東商事である。
「いづみ」の右は、瀬戸内海汽船の営業所である。
1980年代前期に、ビルが増築され、ラ・フォーレ原宿松山となった。
(耐震性に問題があるという事で、2008年、ラ・フォーレ原宿松山は閉店となった。)
1971-6-6:大街道/西南方
本日完成の三越百貨店である。
松山市駅に、「伊予鉄そごう」百貨店が建設されるのに対抗して、
三越も店舗の大拡張に着手し、一足先に完成した。
7階建で、松山初の本格的百貨店である。

大街道商店街  Okaido Shopping Centre

左:1960-1-3:大街道商店街/南向き
右:1965-12-31:大街道商店街/南向き
一番町電車停留所から南に伸びる大街道商店街は、南部の湊町商店街と共に、松山を代表する商店街である。
左にラジウム温泉(5階建)が完成している。これ迄の松山では、最も高いビルが4階建だった(県庁・県庁別館)。このビルは、初めてそれを越えた。
大街道には、2車線の車道と屋根付の歩道がある。
車道は、かつては、両方向通行で、久万や高知へ行く国鉄バスや、砥部、上林等へ行く伊予鉄バスは、南行き・北行きとも、大街道を通っていた。
1957-2-1に、大型車は南行き一方通行となった。それで、北行きのバスは、八坂公民館の前を通る経路に変更された。
後の1982年11月に、大街道は、歩行者専用になった。
左:1966-1-3:一番町/西向き(県庁前方向)
左のビル(3階建)は三越である。
右の日本生命ビル(4階建)は、1963年頃の完成である。
県庁前で、松山市外電話局が建設中である。
左:1962-1-4:一番町/東向き(御宝町方向)
  中央に愛媛相互銀行(4階建)と伊予鉄会館(5階建)がある。
  その右の電車は、本町行きモハ51(ボギー車第1号・1951年入線)である。
右:1967-1-2:大街道/東向き(勝山町方向)
  愛媛相互銀行のこちら側に、日本生命ビル(4階建)が完成している。
  その左の空間(立ち木がある)は、菅井病院の入口である。
一番町〜県庁前間は、城南線で最後に残った単線区間だった。(閉塞方式は不詳)
裁判所の前は道幅が特に狭く、軌道が裁判所敷地に接近していた。
戦災後の復興に際して、道幅が広げられ、軌道が道路中央に移設されると共に、複線化された。
複線化の完成は、1949-3-31である。
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©T.O.
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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城南線 一番町(いちばんちょう)→大街道(おおかいどう)
Okaido,  former Ichiban-cho, Jonan Line
 


(The Highstreet―Die Hauptstraße―La Grande Rue)