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1960-8-15:一番町〜県庁前間の街路(三越百貨店屋上の展望台から)
右手前の木立は、裁判所の前庭である
裁判所は煉瓦造り2 階建て(1918年完成)。
その向こうの方、丸屋根がある建物が愛媛県庁本館(1929年完成)である。


一番町〜県庁前間は、城南線で最後に残った単線区間だった。(閉塞方式は不詳)
裁判所の前は道幅が特に狭く、軌道が裁判所敷地に接近していた。
戦災後の復興に際して、道幅が広げられ、軌道が道路中央に移設されると共に、複線化された。
複線化の完成は、1949-3-31である。

©T.O.
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1971-6-6:建設中の裁判所(新築の三越7階から)
風格のある煉瓦造りの建物は解体された。
平凡なビルに変わりそうである。

1962-11-3:三越百貨店屋上展望台から西向き
右に県庁本館(4階建)、県庁別館(4階建)(1951年完成)、自治会館(3階建)(1951年頃完成)、松山地方検察庁(3階建)(1951年頃完成)などが
並んでいる。

©T.O.
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1966-12-31:三越百貨店屋上展望台から西向き
中央の高いビル(7階建)は、松山市外電話局(1966年完成)。
県庁別館(4階建)の裏に、県庁第二別館(7階建)(1966年完成)がある。

1963-12-31:一番町〜県庁前間の街路(一番町電車停留所から)
亘り線があるが、これは、後に撤去された。
中央のビル(5階建)は、四国電電ビル(日本電電公社四国電気通信局)(1962年完成)である。
その右に堀之内の木立が見える。
左の「パレス」の表示は、キャバレーである。これは、1967年頃に南町に移った。
今はこの辺りに全日空ホテルや第一生命館がある。

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左:1961-1-3:県庁前/西向き
  電車は、市駅前発道後行きモハ64である。
  右に県庁別館と、県庁本館がある。
  突き当たりには、愛媛県警察本部がある。(白色3階建;1951年頃完成)
右:1967-1-2:県庁前/西向き
  左に松山市外電話局(7階建;1966年完成)がある。


松山の電話の自動化は、県庁所在都市では最も遅く、1959-11-29だった。
自動化される前は、共電式(受話器をとると、交換手が応答する)だった。
尤も、農村部では磁石式(受話器をとってから、発電ハンドルを数回まわすと、交換手が応答する)だったから、それよりは、ましだけど…

©T.O.
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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城南線 県庁前
Ehime Prefectural Ofiice, Jonan Line

1960-8-17:愛媛県庁
1929年完成、石張り4階建ての立派な建物である。
1951年に、東隣に県庁別館(4階建)が出来る前は、松山で唯一の4階建(最も階数が多い)ビルだった。

左:1956-10-19:県庁前。
電車は市駅前行きモハ2 (4輪電車)
↑堀之内東入口から↓
右:1959-12-29:県庁前。
電車は市駅前行きモハ53 (ボギー電車)

左:1960-1-3:県庁前/東向き(一番町方向)
  左に県庁本館、県庁別館などがある。
  右側、県庁の向かいには木造建築が並んでいる。
右:1962-1-4:県庁前/東西向き(一番町方向)
  左に県庁本館、県庁別館、自治会館、検察庁が並んでいる。

1966-1-3:県庁前/東西向き(一番町方向)
  左に県庁本館、県庁別館、自治会館、検察庁が並んでいる。
  右手前は四国電電ビル(日本電電公社四国通信局本館)(1962年完成)である。
  その向こうで松山市外電話局が建設中である。

©T.O.
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1967-1-2:県庁前/東西向き(一番町方向)
  左に県庁本館、県庁別館、自治会館、検察庁が並んでいる。
  四国電電ビルの向こうに松山市外電話局がある。

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文豪・夏目漱石は、1895-4〜1896-3の間、愛媛県立尋常中学校の英語教師を勤めた。
その当時の中学校は、今の四国電電ビルの位置にあった。
松山を去るに際して漱石が詠んだ句 : わかるるや 一鳥啼いて 雲に入る