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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城南線 南堀端
Minami Horibata  (South Moatside),  Jonan Line

松山市内線の電車は、東、南、西の堀端を通る。
かつては、東京、大阪、福岡、秋田などで、堀端を行く路面電車が見られたのだが、
1975ー11月以降は、堀端の路面電車は、ここだけとなっている。
左:1967-1-2:市役所前から
右:1969-6-15;市役所前交差点の歩道橋から
  東側から見た南堀端通り。右(北)が松山城の内堀である。
  左側のビル(8階建)は農協会館(1966年完成)である。
  戦災復興に際して、道路が左(南)側に拡幅され、軌道が道路中央よりも堀側に偏った状態が生じた。
  この状態を改善して、軌道を道路中央に移設する工事が行われ、1951-3-26に完成した。
©T.O.
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左:1956-8-7購入の絵葉書から
右:1960-1-3;西堀端から
  西側から見た南堀端通り。
  突き当たりに市役所(3階建)がある。その右手前は伊予銀行本店(4階建;1952年完成)である。
  更に右手前は家庭裁判所(3階建)である。
1967-1-2:西堀端から
  西側から見た南堀端通。
  突き当たりに市役所(3階建)がある。
  右側の高いビルは農協会館(8階建)(1966年完成)である。
  堀の中の立て札には、「魚つられません」とある。
  これは松山方言であり、 「魚をつってはいけません」 という意味である。
©T.O.
©T.O.
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1974-10-9:西堀端から
  西側から見た南堀端通りである。突き当たりで、市役所が建設中である。




































[花園町] 南堀端から南へ、松山市駅前まで伸びている電車通りが、花園町である。
第二次大戦中に、幅の狭かった花園町の西側の家を壊して、幅の広い防火帯を作った。
戦災復興に際し、防火帯を利用したこの広い道が造られ、軌道が開通した。(1947-3-25南堀端―松山市駅前開業)
所が、軌道の両側に、不法占拠の粗末な小屋列が出来て、花園市場という商店街となった。
1953年の四国国体の開会式が、松山で行われるのに際し、このような醜景を続ける事は不可、という事になり、花園市場は強制撤去された。

1952-12-5撮影の、愛媛新聞社の写真を引用した。
軌道の両側に、撤去直後の花園市場の跡がある。
向こうに、南堀端の木立が見える。
この後、道路の整備工事が進められ、今日見るような立派な道になった。
そして、南堀端での線路の分岐方式も、右図のように変わった。
(1953-6-30 分岐方式変更)
1967-1-2:南堀端/南向き(市駅前方向)
突き当たりは、伊予鉄西ビル(6階建)(1966年完成)である。
市駅前から来た線路は、ここで左右に分岐して、南堀端通に入る。
以前は、東方向(画面で左方向)だけに進行できたが、
花園町の改良工事の完成と共に、西方向(画面で右方向)にも進行出来るようになった。(1953-6-30 改良工事完成)


市駅前←→西堀端分岐線:
完成後も、長らく使われなかったが、
1963年頃、当時の城北線系統(道後温泉―城北―松山駅前)が、松山市駅前まで延長され、ようやく使われるようになった。
これは、1969-11-30以降は、環状系統(現在の1・2系統)に引き継がれている。
©T.O.
左:1961-1-3:南堀端/西向き(西堀端方向)
  右に堀がある。堀之内への入口に、枠形の構造物が見える。
右:1967-1-2:南堀端/西向き(西堀場方向)
  1966年に、左に、農協会館(8階建)が完成した。
©T.O.
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左:1962-1-4:南堀端/東向き(市役所前方向)
  突き当たりに市役所、その右に伊予銀行がある。
  南堀端交差点の右向こう(東南角)の木造2階建は、農協会館である。
  電車は、市駅前行き4輪電車モハ16である。
右:1966-1-3:南堀端/西向き(西堀場方向)
  交差点東南角で、農協会館が建設中である。電車は、市駅前行きモハ74である。
  この車両は、1964年暮れに、灰色と朱色の塗り分けで登場した。(切り抜き参照)
左:1967-1-2:南堀端/東向き(市役所前方向)
  突き当たりに市役所、その右に伊予銀行がある。
  南堀端交差点の東南角に農協会館(8階建)が完成している。
  これは、完成当時、松山で最も高いビルだった。
©T.O.
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左:1960-1-3:南堀端/北向き
  向こう側に松山城の堀がある。右に農協会館(木造2階建)がある。
1967-1-2:南堀端/北向き
  右に農協会館(8階建;1966年完成)がある。

堀之内  The Inside of the Moats

堀に囲まれた平坦部は、松山城三の丸跡である。
明治以降は、陸軍歩兵第22聯隊を始めとする、軍関係の施設が置かれていた。
(松山第22聯隊は、1945年の沖縄戦で全滅した。)
敗戦後は、競輪場、野球場等の運動施設、文化施設が置かれた。
21世紀に入り、史跡としての整備が進行中である。
:1960-1-3:県民館
四国国体の競技会場として建てられた。(1953-10-11 落成式挙行)
その後は、各種催しもの会場としても、利用された。
今は、解体されて、無い。
:1960-1-3:NHK松山中央放送局(JOZK)
最初の放送局(JOVG)は、1941-3-9に、市南部の小栗町に開局した。
1956-12-18に、スタディオは、堀之内に移転した。
(この後、1967年に、4階建てになった。)
©T.O.
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左:1956-10-19
松山城天守閣から見た堀之内。
競輪場(1950年1月開業)が見える。その隣(画面左上)に県民館がある。
県民館の西方(画面右)には、NHKやACC(アメリカ文化センター)がある。
右:1965- 8-10
松山城天守閣から見た堀之内。
県民館の西方(画面右)には、NHKや松山市民会館(1965-7-10完成)がある。
©T.O.
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1954-12-8:城山/天守閣下の広場。
広場には桜の木が多く、花が咲くと、春爛漫の風景になる。

かつては、索道(ロープウェイ、リフト)はなく、みんな歩いて登った。
東雲神社口、県庁口、本町口、の3つの登山路がある。
最も多く利用されたのは、東雲神社口だった。

 ・1955-8- 7 普通索道(東雲登山口―長者ヶ平330m)開業
 ・1966-7-13 甲種特殊索道(東雲登山口―長者ヶ平323m)開業

勝山(城山)  Katsuyama, the mountain crowned with Matsuyama Castle

松山城   Matsuyama Castle

松山城は、1603年、賎ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明が築城した。
1635年以降は、将軍家の連枝・松平(久松)氏15万石の、居城だった。
勝山(標高132m)の頂上に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸(堀之内)を置いた、広大な規模を持ち、
姫路城、和歌山城と並ぶ、三大連立平山城である。
左:1967-8-22:松山城天守閣(重要文化財)
  先代の天守閣は、1784年の落雷で焼失した。
  この天守閣は、1854年の再建で、江戸時代に完成した天守閣としては、最も新しいものである。
  左側で、小天守閣の再建工事が行われている。小天守閣は、天守閣と同じく 1854年に再建されましたが、1933年に放火で焼失していた。
右:1969-6-15:松山城/小天守閣(左)と天守閣(右)
  1968年5月に、小天守閣の復元が完成した。
©T.O.
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1964-12-11 愛媛新聞