回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城南線 松山市駅前
Matsuyama Central Station of Iyo Railway,  Jonan Line

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松山市駅
1888-10-28  伊予鉄道・松山駅として開業
1989-7-20  外側と改称(江戸時代の中心街・本町周辺を総称して、古町(こまち)といったのに対して、
         駅のある城南地区を総称して、外側(とがわ)といった)
1902-6-1   外側を松山と改称
1927-3     松山を松山市と改称
         国鉄・讃予線が松山まで延びて来た時、鉄道省は、「松山」の駅名を譲るように伊予鉄に要求。
         伊予鉄はこれを拒否する、という争いになっ。
         結局、伊予鉄が鉄道省に押し切られて、駅名改称となった。
昭和になってから出来た国鉄(JR)松山駅が、中心街から離れているのに対し、明治期に出来た伊予鉄松山市駅は、中心街に近く、
列車の運転本数が多い事とも相俟って、地方交通での中央駅的な役割を果たしている。
JR駅の「まつやまえき」に対し、伊予鉄駅は「しえき」と呼ばれている。

市駅は、長らく、市内線との連絡していなかった。
戦災復興に際し、南堀端から分岐する広い道が新設され、1947-3-25に、 南堀端―市駅前の軌道が開業した。

左:1960-1-3:松山市駅前
  右に松山市駅があります。先代の駅舎は、1919-4-5の完成だったが、 1945-7-26の空襲で焼失した。
  戦後、暫くの間、仮設駅舎だったが、1950-5-5に、木造モルタル張り、2階建の、この駅舎が完成した。
  電車は、道後行きモハ20(4輪電車)である。突き当たりで、ビルが建設中である。
右:1961-1-3:松山市駅前
  電車の乗り場に屋根が出来ている。電車は道後行きモハ54(ボギー電車)である。
  駅舎の前に、ボンネット付の小型バスが停まっている。

©T.O.
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左:1966-12-31:松山市駅前
  右に松山市駅がある。
  突き当たり左に津田音響堂(3階建)、右に伊予銀行(3階建)が完成している。
右:1966-12-31:松山市駅前
  駅舎の前に、バス乗り場の行先別表示がある。

左:1966-12-31:松山市駅前
1966-11-11に、松山市駅の西隣に、伊予鉄西ビル(6階建)が完成した。
尚、このビルが出来る前は、ここに伊予鉄マーケット(1950-5-5完成)があった。

左:1962-1-4:松山市駅前
  東側から見た駅前広場。電車は道後温泉行きモハ54である。
右:1966-12-31:松山市駅前
  東側から見た駅前広場。電車は道後温泉行きモハ67である。
  左に伊予鉄西ビル(1966-11-11完成)がある。
  突き当たりには、越智金物店(3階建)(左)、和田人形店(3階建)(右)が完成済みである。

1969-6-15:松山市駅前
東側から見た駅前広場。
左にバスターミナル(1969-2-1完成)がある。
突き当たりに、電気ビル(8階建)(1966-2完成)がある。

左:1966-1-3:松山市駅前
  東側から見た駅前広場。向こうで松山海産のビルが建設中である。
右:1966-12-31:松山市駅前
  東側から見た駅前広場。左に伊予鉄西ビル(1966-11-11完成)がある。
  向こうに、松山海産のビルがある。

左:1969-6-15:松山市駅前
左に伊予鉄バスターミナル(1969-2-1完成)がある。
1階にプラットフォーム、地下にコンコースがある。2階には駐車場がある。

(後の1999-9-8に、バスターミナルは廃止された。)

1969-6-15:松山市駅前
バスターミナル(1969-2-1完成)の北側(駅前広場側)に、バス進出路が設けられたので、
この部分の歩道は地下に移された。 つまり、市駅の出入口〜広場東の湊町商店街間は、地下歩道経由となった。

左:1971-6-6:建設中の松山市駅ビル(5階建)
  築後20年余を経た松山市駅が、建て直される事になった。
  新しいビルには、「いよてつそごう」百貨店が開店する予定である。(この後の1971-7-15に完成した。)
右:1971-6-6:地下街「まつちかタウン」
  湊町商店街〜松山市駅・市駅前電停との間に、駅ビルよりも一足早く、地下街が完成した。(1971-4-1完成)

©T.O.
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松山市駅構内  premises of the station

左:1964-7-12:松山市駅/1番線
  停車中の高浜行き2連(モハ602+モハ601*)  *=写真
  モハ600形は1958年入線の全金属車である。
  高浜線のプラットフォームは低いので、扉の内側にステップがある。
右:1967-8-22:松山市駅/2番線
  2番線に進入する平井発松山市行き2連(クハ411+モハ111)。
  横河原線は、1893〜1953年の間は蒸気機関車牽引の列車、 1953年以降はディーゼル機関車牽引の列車が運行されていたが、
  1967-6-1に、松山市―平井7.0kmが電化された。 (後の1967-10-1 全線の電化完成)

©T.O.
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朝日新聞 1969-7-10夕刊  「都市建築の時代1 交通施設」から引用
(略)人との同居を拒否
 そんな中で「国際観光温泉都市」松山の伊予鉄バスターミナルは、はじめから人との同居を拒否した
ケースだ。 これは市の一番の繁華地帯「松山市駅」周辺の再開発の一環として計画され、市駅(私鉄)
と隣接して二階建の駐車場(百三十八台収容)つきバスターミナル(乗場十一)をつくり、 すぐ前の商店
街とは地下街で結ぼうと、さる一月完成した。立体式バスターミナルでは、わが国でも名古屋、福岡に
もっと大きなものがある。しかし松山のは、ちょっと移動するにも広いスペースを必要とし、将来どんな
型に変るか知れない車の特性に適合させるため、東西六十五メートル、南北五十メートルの建物内に
柱を一本も立てない長大スパン(けた間隔)構造となっている。これはコンクリートの多層建築では世界
記録とされており、中に事務所とかショッピングとかの「人のための空間」を持たないことともに、他のバ
スターミナルにない特色となっている。
  都市の恐ろしい力
 槙文彦氏(建築家)はこういう建物を 「装備建築」と呼ぶ。「ものに合わせて最も機能的につくられた巨
大な建築」というわけだ。(略) 伊予鉄バスターミナルは、無柱の天井に重い車を乗せる関係上、一階も
二階も天井はプレストレスト・コンクリート製にした。そり返る力をきかすため、あらかじめコンクリートに
弾力を与えてある構造で、長大なスパンの橋など土木工事に使う手法だ。 (略) "エレガント・シティ"の
ニックネームも返上して、「ゲタ箱(駐車場)つき玄関(バスターミナル)」を中心部につくり、それを核として
商業地のポテンシャリティを高めようとする松山。(略)従来の建築ジャンルからはみ出た建物をふみ台
に、自分のカラを破ろうとする都市の恐ろしい力を感じさせる光景である。

*朝日新聞の記事をこのページの末尾に引用する。