回顧 主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線
Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's
城北線 Johoku Line
(宮田町は、1960年代の写真が無いので、1976年の写真を示す。)
左:1976-1-4:宮田町/松山駅前方向
電車は、環状線木屋町方面行きモハ60である。
右:1976-1-4:宮田町/古町方向
併用軌道は、右に曲がって、専用軌道になる。
古町では、高浜線と城北線とが平面交差している。
また、鉄道線車庫、軌道線車庫、及び古町工場がある。
1888-10-28の松山―三津開業時は、駅名が「三津口」だった。
1889-7-30に「古町」と改称された。この辺りは、江戸時代の中心街で、当時は、古町と総称されていた事によるものであろう。
1962-1-4:古町駅
1945-7-26の戦災で駅舎が焼失した後、1949-12-28、この駅舎が完成した。
出札口、改札口、集札口があり、城北線を利用する時も、改集札口を通る。
右向こうに、高浜線のプラットフォームが見える。
後に、城北線は、集改札が廃止され、下車時払いとなった。
また、1970年代中頃に、新駅舎(3階建)が完成した。1977-7-18には、右隣に伊予鉄古町ビル(6階建)が完成した。
1966-1-3:古町駅/三津口方向
右は1番線(城北線・松山駅前行き)である。3・4・5番線(高浜線プラットフォーム)に行くための地下道がある。
左の低床プラットフォームは 2番線(城北線・道後行き)である。
これは、高床のプラットフォーム(反対側の3番線は高浜線・松山市行き)につながっている。
前方に軌道線の車庫が見える。
1966-1-3:古町駅/松山駅前方向
右に高浜線(複線)と側線がある。前方で、城北線が高浜線を斜めに横断している。
向こうのビルは、愛光学園(私立男子中・高)である。
かつては、そこに、城西高校(私立女子)があったが、1952-3に、閉校となった。愛光学園は、その跡地を利用したものである。
(後の1972-7に、愛光学園は衣山五丁目に移転した。)
1976-1-4:古町駅/南側の宮西町踏切から―平面交差の状況
左に城北線(単線)、右に高浜線(複線)がある。
電車は、環状系統・松山駅前経由松山市駅前行きモハ54である。
前方の相対式プラットフォーム(5・4 3番線)は高浜線用で、
城北線は、高浜線を右斜めに横断して、右手の2・1番線に入る。
1960-8-17:古町駅北方/古町北踏切から
左に高浜線(複線)、右に城北線(単線;三津口方向)がある。
電車は、松山市行き2連(モハ601+モハ602)である。(1958年入線の全金属車)
以前は、この辺りで、松山電気軌道が伊予鉄道を跨ぎ越していたそうだが、
今は、その痕跡は無い。
(後に、高浜線は、この先が高架化された―1995-7-18複線分の高架化完成)
都落ち? vehecles from Kyoto Municipal Tramcar Lines
1978-7-16:古町駅/京都市電から転入した軌道線車両
左:軌道線車庫で:手前は2006。軌間が違う(京都市電は1435mm、伊予鉄は1067mm)ので台車が外されている。
塗装、方向幕(上段はワンマンカー、下段は下鴨京都駅と表示)、系統板支持枠等は、京都時代のままである。
右:鉄道線車庫で:2003が仮台車の上に乗っている。左は、高浜行き3連(先頭車はモハ122)である。
昔の名前で出ています It appears with the former vehecle number.
1979-10-27:松山駅前/京都市電から転入したモハ2003
車体は、伊予鉄形に改装されていますが、車両番号は京都市電時代のままである。
方向幕(1段化)には、「2 市駅前」とある。この頃から系統番号が用いられるようになった。
尚、背後(宮田町4番)の「ホームラン」(パチンコ)は閉鎖されている。
京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの
神戸じゃ 渚と名乗ったの
横浜の酒場に 戻ったその日から
あなたがさがしてくれるの 待つわ
昔の名前で 出ています
(唄・小林 旭 1977年)
1966-1-3:三津口/本町六丁目方向
踏切には、警報機がありますが、遮断機は未だ設置されていない。
当時は、ここから100mぐらい先の右側に、牛舎があった。
(後の1980年秋に、牛舎は移転した。)
城北線は、道後鉄道が起源である。
1985-9-22 道後鉄道/古町―道後の鉄道開業(木屋町、千秋寺前経由)
(単線、762mm軌間、蒸気機関車使用)
1900-5- 1 伊予鉄道が道後鉄道を合併
1911-8-11 古町―道後を改軌(1067mm)、電化
省線/讃予線(1930年に予讃線と改称)の松山延長に合わせて、
1927-4- 3 古町―松山駅前の鉄道開業(単線、後に軌道)
1927-4- 3 木屋町―上一万の鉄道開業(単線、清水町経由)
1927-4- 3 木屋町―道後の鉄道廃止(千秋寺前経由)
千秋寺前を通る経路は、木屋町―道後間の往来には便利だが、城北の住宅地(城山北麓)から離れており、
また、広い城北練兵場が間に挟まるなど、城北住民にとっては恩恵が少ない、という問題点があった。
それで、清水町経由の経路に変更されたものである。
1953-12-11 (宮田町*)―松山駅前が、線路付け替えで、併用軌道となった。
これは、松山駅前広場の整備に合わせたものである。
*但し、宮田町停留所の開設は、1967-5-16である。
停留場は、三津街道の踏切際にありますので、三津口と称されたのだろう。
1967-1-1 町名に合わせて、萱町六丁目と改称された。