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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城北線 本町七丁目→本町六丁目
Hom-machi Roku-chome, former Hom-machi Nana-chome, Johoku Line

本町六丁目停留場は、城北線が国道196号線を横断する所にある。
元は、停留場が無かったが、本町線が、国道上を、踏切南側の本町七丁目まで延長されて来たのに伴い、城北線にも停留場が開設された。
但し、城北線と本町線とは、レールは繋がっていない。
その後、住居表示の実施により、町名が本町六丁目と変更されたので、停留場名も、「本町六丁目」と改められた。(1967-1-1改称)

©T.O.
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左:1966-1-3:本町七丁目/三津口方向
  電車は金太郎塗りである。
  踏切の右に御菓子富士屋がある。
右:1967-1-2:本町六丁目/萱町六丁目方向
  電車の金太郎塗りが1966年に廃止された事が推定できる。
  踏切の右の店に稲田靴店がある。

左:1966-1-3:本町七丁目/木屋町方向
  幅の狭いプラットフォームがある。
右:1967-1-2:本町六丁目/木屋町方向
  プラットフォーム左側の家が大きくなっている。

城北線が15分ごと運転の時代は、古町及び清水町で行き違いが行われていたが、
10分ごと運転に増発されるのに際し、古町、木屋町及び鉄砲町での行き違いに変更された。
木屋町の行き違い線は、1951-6に完成した。

城北線 木屋町(きやちょう)
Kiyacho, Johoku Line

©T.O.
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左:1962-1-4:木屋町/北味酒方向
  電車は、道後温泉行き(方向幕は「道後」)モハ24である。
  この車両は、この直後の1962-2に、廃車になった。モハ24の最後の姿といえる。
  「ひちや」(=質屋)の看板が、時代を物語る。
右:1966-1-3:木屋町/高砂町方向
  景色は、6年前と変わっていない。
  この頃は、閉塞にタブレットが用いられていた。

左:1966-1-3:木屋町/本町七丁目方向
  この頃は、閉塞にタブレットが用いられていた。
  踏切の右に、「かめや主婦の店」、「かめや薬館」がある。
右:1976-1-4:木屋町/本町六丁目方向
  閉塞方式が、2現示2位式の色灯信号機使用に、改善されている。
  踏切の右に、城北寝具センターがある。
  その向こうには、プレジデント松山(11階建マンション)(1975-10定礎)が見える。

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城北地区の展望(松山城から)

a view of north-west region of the city from Matsuyama Castle

1959-12-29:松山城から見た本町、木屋町地区(R1赤フィルター使用)

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木屋町

伊予小富士(興居島)

1959-12-29:松山城から見た清水町、鉄砲町地区
1895-8-22に開業した道後鉄道・木屋町―道後の経路は、概ね点線の通りだった。
1911-8-11には、この線路が電化された。
この経路は、木屋町―道後間の往来には便利だが、城北の住宅地(城山北麓)から離れており、
また、広い城北練兵場が間に挟まるなど、城北住民にとっては恩恵が少ない、という問題点があった。
それで、1927-4-3、清水町・鉄砲町を通る現在の経路(実線)に変更された。
(dotted line=route before 1927; solid line=route since 1927)

←木屋町

道後→

松山北高



松山商大

松田池

旧城北

練兵場

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城北線の経路変更
route modification of Johoku Line between Kiyacho and Dogo

1966-1-3:木屋町―高砂町間の住宅地
この道は、県道六軒家石手線である。
前方(スクーターと三輪車との間)に高砂町北踏切がある。踏切には、警報機があるが、遮断機は未だ無い。
手前に犬がいる。この頃は、犬の繋留は励行されておらず、放し飼いの犬がしばしばいた。
この道の突き当たりは、道後温泉である。

城北線 女学校西→北味酒(きたみさけ)→高砂町
Takasago-cho, former West of the girls' school then Kitaーmisake, Johoku Line

1927-4-3の城北線経路変更の際、「女学校西」停留場が設置された。
これは、停留場の200mぐらい東に、県立松山城北高等女学校(1923年 開校)があった事による。
敗戦後の学制変更により、1949-8-31、松山城北高女は北予中学校と合体して、松山北高校となった(両校舎併用)。
1951-1には、松山北高校の校舎が鉄砲町(旧北予中の校舎)に統合され、旧城北高女の校舎は、市立勝山中学校となった。
「女学校西」が実態と合わなくなったので、1952-8-1、停留場は「北味酒(きたみさけ)」と改められた。
当時、停留場から松山商大北側にかけての地区が、北味酒町だった事による。
住居表示の実施により、北味酒町は消滅し、停留場は高砂町/清水町境になった。
1967-1-1、停留場名が「高砂町」と改められた。
左:1962-1-4:北味酒/清水町方向:踏切南側の松山駅前行き乗り場
  線路を歩いて停留場に来る人々がいる。
  向こうに見える十字架は、コイノニア幼稚園のものである。
右:1966-1-3:北味酒/木屋町方向/踏切北側の道後温泉行き乗り場
  停留場周辺には、田畑が残っており、市内線で最も郊外的な場所である。
  左前方のビルは、婦人会館である。
左:1976-1-4:高砂町/木屋町方向:踏切北側の環状系統上一万方面行き乗り場
  電車は、上一万回り市駅前行きモハ81である。今は無き車両である。
  この車両は、元・南海電鉄和歌山市内線の324号車(1963-9 日立製造)で、
  1971-4-1の和歌山市内線廃止により、伊予鉄に転入した。
  車体幅は2270mmで、他車のそれ(2346〜2430mm)よりも狭幅である。
  使いにくい点があったのか、冷遇され、他の38kw電動機車が50kw電動機車に改造された時、
  モハ81だけは38kwのままだった。そして、1988年頃に廃車になった。
右:1984-8-17:高砂町/清水町方向/踏切北側の乗り場
  左は上一万方行き乗り場。右は松山駅前方面行き乗り場で、 踏切南側から北側に移設されている。
  乗り場には、共に、屋根が設けられた。
  停留場周辺には、猶も田畑があり、郊外的な様子が残っている。
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城北線が15分ごと運転の時代は、古町及び清水町で行き違いが行われていたが、
10分ごと運転に増発されるのに際し、古町、木屋町及び鉄砲町での行き違いに変更された。
清水町の行き違い線は、1954-4-6に撤去された。

城北線 清水町
Shimizu-machi, Johoku Line

左:1962-1-4:清水町/北味酒方向:道後温泉行き乗り場
  幅の広いプラットフォームがあるが、元は右側の部分だけがプラットフォームだった。
  行き違い線の撤去後、その場所を埋めてプラットフォームが拡幅された。
右:1966-1-3:清水町/鉄砲町方向:松山駅前方面行き乗り場
  踏切部分、左にレールが残っているが、これが、かつての行き違い線である。
  その向こうに、勾配標(上り7.7‰)が見える。
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左:1984-8-17:清水町/鉄砲町方向
プラットフォームの位置が変更されている。
踏切のこちら側、右が松山駅前方面行き乗り場、踏切の向こう側、左が上一万方面行き乗り場である。
踏切の向こう側、右にマルミ精肉店がある。前方のビル(5階建)は、清水町レジデンスである。