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回顧  主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線

Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's


城北線 鉄砲町
Teppo-cho (Gunsmith Street), Johoku Line

城北線が15分ごと運転の時代は、古町及び清水町で行き違いが行われていたが、
10分ごと運転に増発されるのに際し、古町、木屋町及び鉄砲町での行き違いに変更された。
鉄砲町の行き違い線は、1951-6に完成した。

左:1956-10-19:松山城から見た城北地区(from Matsuyama Castel)
  運動場が2つ見えるが、左は松山北高校、右は愛媛大学教育学部である。
  いすれも、練兵場の跡地である。
  それらの向こうに御幸寺山(164m)がある。
右:1956-10-19:御幸寺山から見た城北地区(from Mt. Miyukiji)
  運動場が3つ見えるが、左から、愛媛大学教育学部、松山北高校、松山商科大学である。
  それらの向こうに勝山(城山)(132m)がある。

城北地区の展望(松山城及び御幸寺山から)
views of northern region of the city from Matsuyama Castle and Mt. Miyukiji

©T.O.
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1954年:清水町―鉄砲町間/愛媛県立松山北高等学校(鉄砲町78番地)
  手前に庭球場がある。その向こうに、木造、モルタル張り、2階建の校舎が3棟並んでいる。
  それらの左に戦災復興仮設校舎(平屋)が見える。
  左手、向こうに御幸寺山(164m)がある。

ここには旧制・北予中学校 *があった。
(* 1893年 開校の私立北予英学校が起源、1938年 県立に移管)
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公、陸軍大将・秋山好古は、退役後の晩年、北予中学校の校長を勤めた。
敗戦後の学制変更により、1949-8-31、北予中学校は松山城北高等女学校(1923年、北味酒町に開校)と合体して、
松山北高校となった。 (鉄砲町・北味酒町 両校舎併用)
1951-1に、校舎が鉄砲町に集約された。

鉄砲町停車場  Teppo-cho Stn.

左:1962-1-4:鉄砲町/清水町方向
  前方の二軒家の前で右折し、踏切を過ぎると、松山北高や松山商大に行く道に入る。
右:1966-1-3:鉄砲町/清水町方向
  道後温泉行きモハ57が、行き違い電車の到着を待っている。この頃は、タブレット閉塞である。

1966-1-3:鉄砲町/赤十字病院前方向
左は道後温泉行き;右は市駅前行きモハ51(1951年入線のボギー車第1号)

城北線 赤十字病院前)
The Red Cross Hospital, Johoku Line
鉄砲町〜赤十字病院前の間は、陸軍練兵場跡地の南側に沿っている。
敗戦後、練兵場は廃止され、愛媛大学を始めとする
文教地区になった。
住居表示実施時に、
文京町 (文教町ではない、東京の文京区の真似?) の町名がついた。


この停留場は、1927-4-3、「練兵場前」として開設されたが、1944-3-6に廃止された。
1947-8-1に、「赤十字病院前」として、復活した。
©T.O.
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左:1962-1-4:赤十字病院前/上一万方向
  松山駅前方面行き乗り場。線路の左側は、松山赤十字病院である。
右:1966-1-3:赤十字病院前/上一万方向
  松山駅前・市駅前方面行き乗り場。左で松山赤十字病院の病棟が建設中である。

1966-1-3:赤十字病院前/鉄砲町方向
左手前は松山駅前・市駅前方面行き乗り場、踏切の向こう側は道後温泉行き乗り場である。
鉄砲町まで一直線である。
線路の右側は練兵場の跡地で、今は愛媛大学(1949-5-31発足)になっている。
この敷地は、松山大博覧会(1949-3-20〜5-22)の会場となった後、まず、愛媛大学教育学部
(前身は愛媛師範及び愛媛青年師範)が置かれた。
1963-4に、文理学部(前身は旧制松山高校)が、市内持田町から、ここに移転して来た。
1963-9には、工学部(前身は新居浜工業専門学校)が、新居浜市から、ここに移転して来た。

左:1966-12-31:赤十字病院前/上一万方向
  手前左は、道後温泉行き乗り場、踏切の向こうは松山駅前・市駅前方面行き乗り場。
  線路の左側に、松山赤十字病院の新病棟が完成している。
右:1969-9-21:赤十字病院前/上一万方向
  松山駅前・市駅前方面行き乗り場。
  電車は、道後温泉行きモハ53(1951年入線の第1次ボギー電車)である。

1984-8-17:赤十字病院前/上一万方向
乗り場の位置が変わっていっる。(1978年頃、変更)
右手前は松山駅前・市駅前方面行き乗り場、踏切の向こう、左側が大街道・市駅前方面行き乗り場である。
左の塀と木立は愛媛大学である。

護国神社参道   the approach to The War Dead Commemoratory Shrine

赤十字病院前停留場から北に、護国神社参道が伸びている。

1960-1-3:護国神社参道/赤十字病院前停留場北方から
  1959年の夏頃に、車道だけが、舗装された。
  左は、愛媛大学教育学部で、左前方に城北講堂が見える。山は、御幸寺山(164m)である。
  右は、手前から、東雲小学校、御幸中学校、附属中学校が並んでいる。
  1950年代前半は、両側とも、塀の代わりに鉄条網があった。
1969-9-21:護国神社参道/赤十字病院前停留場北方から
  歩道も舗装され、並木が植えられている。
  左は、愛媛大学である。今は、法文学部*、理学部*、教育学部、工学部がある。
  *1968-4に、文理学部が改組され、法文学部と理学部になった。

1958-1-3:炎上する御幸中学校
御幸中学校は不審火により焼失した。
出火は23時過ぎである。
偶々、正月休みで帰省しており、撮影したものである。

御幸中学校は、1983年に、東中学校になった。

1960-1-3:護国神社一の鳥居と県道三軒家石手線
自動車は右側に停車している!
左に一の鳥居がある。向こう側、県道の左に、附属小学校がある。
県道の突き当たりは道後温泉である。
尚、附属小学校は、1969-5に、持田町(旧制松山高校→愛媛大学文理学部の跡地)に移転した。
1972年に、附属小学校の跡地に、愛媛大学事務局が完成した。

1960-1-3:護国神社参道/一の鳥居内側から
参道は舗装されておらす、手前に水溜まりが作ったくぼみがある。
二の鳥居の向こうが境内である。
山は、御幸寺山(164m)である。

城北線 平和通一丁目)
Heiwa-dori It'chome, Johoku Line

平和通り一丁目停留場は、1969-11-30の開設です。

1971-6-6:平和通一丁目
これは、平和通側から見たものである。
突き当たりに赤十字病院がある。
(平和通一丁目は、1969〜1970年の写真が無いので、
1971年の写真を示した。)

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