回顧 主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線
Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's
本町線 Hom-machi Line
本町線は、松山電気軌道が起源である。
[松山電気軌道の開業経過]
1911-8-31 道後―西堀端―札ノ辻4.4km、及び本町―住吉4.7km開業(1435mm軌間の電化線)
(住吉は三津にある地名)
1911-9-19 札ノ辻―本町0.3km開業
1912-2- 7 住吉―江ノ口0.5km開業
路線は伊予鉄道と平行しており、 松電と伊予鉄との間に、激烈な乗客獲得競争が、繰り広げられた。
結局、体力に勝る伊予鉄が勝利を収め、1921-4-1、松電は伊予鉄に合併された。
伊予鉄は、1923-6、道後―江ノ口を改軌(1435mm→1067mm)。これが、今日の城南線と本町線の基となった。
そして、1926-5-2には、その内の道後―一番町を複線化すると共に、重複する道後―一番町の自社線(旧道後鉄道線)を廃止した。
省線・讃予線(1930年に予讃線と改称)の松山延長に合わせて、伊予鉄は、とりあえず、古町―松山駅前を開業し、省線との連絡を取った。
続いて1929-3-30に、萱町―古町が開業し、西堀端―萱町―古町―松山駅前の市内線が完成した。
この時に、萱町―江ノ口は廃止された。
西堀端―松山駅前の短絡線は、途中に高浜線との平面交差が生じる事から、認可が遅れ、開業したのは、1936-5-1である。
1945-7-26の空襲で、本町線は被災し、不通になった。
その復興は遅れ、1948-7-1、漸く西堀端―本町が、一部経路変更の上、復活した(全線単線)。
当初の運転系統は、西堀端―本町だったが、1953-2-14に一番町―本町となり、更に1953-4-11に道後―本町に延長された。
1962-2-1に本町―本町七丁目の新線が開業した。本町―萱町―古町は復活しなかった。
(1957-7-29 本町―古町0.3km廃止)
©T.O.
1961-1-3:西堀端/北向き(野球場前方向)
本町線は西堀端沿いに、北に直進する。道路は国道196号線である。
城南線は左に曲がっている。左の電車は、城南線の道後行きモハ61である。
その向こうの角には、平和屋(クリーニング)がある。右手、遠くに、御幸寺山につながる山が見える。
本町線・城南線 西堀端
Nishi Horibata (West Moatside), Hom-machi Line and Jonan Line
本町線 野球場前→本町一丁目→廃止
Homーmachi It'chome, former The Baseball Stadium, Homーmachi Line
(closed in 1970)
1948-7-4、堀之内に市営球場が出来た。観覧席は、当初は、草斜面だったが、1952-7にコンクリート造りのスタンドが完成した。
1958-6-2、野球所前停留所が開設された。
この停留所は、1967-1-1に、本町一丁目と改称されたが、利用者が少なく、1970-12-15に廃止された。
戦災復興に際して、道路が左(西)側に拡幅され、軌道が道路中央よりも堀側に偏った状態が生じた。
この状態を改善して、軌道を道路中央に移設する工事が行われ、1957年に完成した。
左:1962-1-4:野球場前/北向き(札の辻方向)
電車は道後温泉行きモハ19(4輪電車)である。1960-9に、ブレーキが、手動式から空気式に改造されている。
この車両は、4輪電車の最後を飾り、1965-2に廃車となった。
(この頃は、勿論、運転士と車掌の2人乗務である。本町線のワンマン化は、1970-9-8だった。)
遠くに見えるビルは、堀内ビル(5階建)である。
右:1967-1-2:本町一丁目/北向き(本町三丁目方向)
線路の右(東)側に安全地帯が設けられている。(自動車の向こう)
遠くに見えるビルは、マツダビル(6階建)と堀内ビル(5階建)である。
©T.O.
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左:1966-1-3:野球場前/南向き(西堀端方向)
右前方、手前で相原ビル(4階建)が、向こうで第二中央ビル(5階建)が、それぞれ建設中である。
右:1967-1-2:本町一丁目/南向き(西堀端方向)
線路の左(東)側に安全地帯が設けられている。電車は本町六丁目行きモハ53である。
撮影前日に、本町七丁目が本町六丁目と改称されたのだ、方向幕は「本町七丁目」のままである。
©T.O.
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本町線 札の辻→本町三丁目
Hom-machi San-chome,
former Official Notification Corner, Hom-machi Line
江戸時代には、本町が、松山随一の繁華街だった。
そして、本町通りと、紙屋町通り(松山城と藩主の墓所・大林寺とを結んでいる)との交差点に、藩の制札場(高札場ともいう)があった。
札の辻はその別称である。。
現代の松山市の道路元標は、市役所前にあるが、江戸時代は、札の辻が松山藩五街道*の起点だった。
*金毘羅街道、土佐街道、大洲街道、今治街道、高浜街道
札の辻停留所は、1967-1-1に、本町三丁目と改称された。城下町時代の地名が、一つ、消えてしまった。
左:1962-1-4:札の辻/北向き(本町方向)
北への短い登り坂がある。
左に堀内ビル(5階建)がある。その前、軌道の右(東)側に安全地帯がある。
(後の1974年に、軌道の左(西)側にも、安全地帯が設けられた。)
右:1967-1-2:本町三丁目/北向き(本町方向)
左で松山銘木センター(5階建)が建設中である。その右にマツダビル(6階建、次いで堀内ビル(5階建)がある。
1948-7-1の本町線運輸再開に際して、経路の変更が行われた。
戦災被災前の札ノ辻―本町間の軌道は、左図のように、クランク状に
曲がっていたが、復興の際に、直線の軌道が新設された。
左図の旧松電経路は、1929-3-30の廃止である。
1952年には、本町―古町の軌条が残っていたが、今は、勿論、その痕跡も無い。
左:1966-1-3:札の辻/南向き(野球場前方向)
南への短い降り坂がある。軌道の左(東)側だけに安全地帯がある。
(後の1974年に、軌道の右(西)側にも、安全地帯が設けられた。)
右:1967-1-2:本町三丁目/南向き(本町一丁目方向)
右に堀内ビル(5階建)、次いでマツダビル(6階建)がある。その先で松山銘木センター(5階建)が建設中である。
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本町線 本町→本町四丁目
Hom-machi Yon-chome, former Hom-machi, Hom-machi Line
1962-2-1に、本町―本町七丁目が開業した時、本町には、行き違い線が設けられた。
1967-1-1、本町は本町四丁目と改称された。
1970年頃に、行き違い線は使用廃止となった。
左:1962-1-4:本町/南側から
線路、架線とも、2線ある。現在はここが終点だが、北に延長工事が行われている。
電車は道後温泉行きモハ19(4輪電車)である。1960-9に、ブレーキが、手動式から空気式に改造されている。
この車両は、4輪電車の最後を飾り、1965-2に廃車となった。
右:1967-1-2:本町四丁目/北向き(本町五丁目方向)
1962-2-1に本町線が延長された。両線分岐転轍器を有する行き違い線がある。
停留所には、安全地帯が無い。
©T.O.
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左:1965-1-2:本町/南向き(札ノ辻方向)
1962-2-1に本町線が延長された。両線分岐転轍器を有する行き違い線がある。
停留所には、安全地帯が無い。
右:1967-1-2:本町四丁目/南向き(本町三丁目方向)
両線分岐転轍器を有する行き違い線がある。安全地帯は無い。
右:1976-1-4:本町四丁目/北向き(本町五丁目方向)
行き違い線が使用止めになっている(軌条は残っているが、転轍器が撤去されている)。
片側に安全地帯が設置されている。
1970年頃に、転轍器の撤去と安全地帯の設置が行われた。
電車は、道後温泉行き1000形である。これは、呉市電(1967-12-18廃止)から転入した車両である。
伊予鉄の電車の色は、蜜柑色系だが、この車両は、珍しく緑色系の塗装である。
平和通 Heiwadori
(Peace Avenue―Ruheavenue―Avenue de la Paix)
本町四丁目停留所の南隣に、平和通との交差点がある。平和通は、戦災復興時に拡幅された通りである。
©T.O.
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左:1965-1-2:平和通/本町から東向き
ここから上一万まで約1.6km、一直線の道である。中央分離帯の銀杏は1951年頃の植樹である。
戦災被災前は、ここから200mぐらい先迄が、電車通りだった。
右:1965-1-2:平和通/本町から西向き
300mぐらい先の突き当たりが、古町駅構内である。
かつては電車通りで、200mぐらい先の萱町で、江ノ口に至る旧松電線が右に曲がっていた。
1929-3-30には、萱町―古町が開業し、西堀端―本町―萱町―古町―松山駅前の市内線が完成した。(この時に、萱町―江ノ口は廃止)
戦災で軌道は休止となった。1952年頃は、この通りに軌条が残っていたのだが、復活することは無かった。(1957-7-29 本町―古町廃止)