梵字の歴史の中の、慈雲の梵字の特色。
一、 インドでの文字の起源
紀元前二千年ごろ中央アジア高原にいたアーリア人が南下してヴェーダ文明を起こしたが文字を持たず高度な宗教哲学は暗誦・記憶として伝承されていた。インドでの文字の起源はその後のマウリア王朝期のアショカ王(B.C266〜232)の碑文に書かれたカローシュティー文字とブラーフミー文字の二系統からはじまるが、一方は消滅しブラーフミー文字から多くの派生文字が生まれた。グプタ王朝時代(西暦4世紀)に文字の形が直線から曲線を用いた優雅なものへと変化しシッダマートリカー型と呼ばれる文字が生まれた。
二、 中国への経典流入と梵字悉曇の展開
仏教の中国伝来は西暦六十七年頃だが当時の翻訳経典にはまだ悉曇の名は見えない。中国の悉曇学の始めは七世紀頃で唐の智広撰が『悉曇字記』を著し、悉曇とは母音の十二種を指し体文(子音)三十五字含めて「悉曇」と呼ぶと定義した。悉曇を字形として捉えるとそれはブラフミー文字を母体とする表音文字であるが、[i]語義として捉えるとそれはサンスクリット文字シッダンの音写で完成する・成就する、の語源シッド(sidh)の過去受動分詞シッダ(shidda)に中性名詞の単数主格mをつけて(shiddam)すなわち完成したもの・成就したものという意味をもたせたものである。かかる解釈のもと後年、善無畏や金剛智などによる密教の完成とともに悉曇はただサンスクリットの字母を意味するだけでなく、それぞれの文字が独特の尊像や概念を表すようになり悉曇は密教を学ぶ者にとって必修のものになり悉曇学が成立していった。
三、 日本への流入と入唐八家
梵字悉曇の伝来は仏教伝来の頃(A.D538)と推定できるが、確認できる資料としては法隆寺に現存する貝葉『般若心経』『佛頂尊勝陀羅尼』末尾の悉曇字母がある。これには悉曇字母全部が記載され六世紀後半から八世紀後半頃のものだが、一方四世紀頃から七世紀後のものと見られる『高貴寺貝葉』なるものも存在し、これは我が国最古のものである。このように入唐八家以前に梵字悉曇は伝来していたが、まだ我が国ではそれらを読み解くだけの基盤・土壌はなかった。我が国において梵字悉曇学が大成するのは、[ii]入唐八家といわれる僧侶が平安時代約六十年間にわたり入唐し生きた文献資料を請来、我が国の悉曇学の基礎確立に貢献し加えて五大院安然(A.D841〜915)が『悉曇蔵』八巻を著述してからである。入唐八家の中でも特筆に値するのは空海(A.D774〜835)である。西暦八〇四年入唐し長安で二年間密教を研鑽し真言宗付法第七祖恵果写瓶の弟子となる。これに先立ち空海は般若三蔵や牟尼室利三蔵に師事して梵語、バラモン教を修得して帰朝後の『請来目録』によると梵字悉曇の資料と曼荼羅等を数多く請来している。また注目されることは入唐中、空海が書写した『三十帖策子』があり、この中に梵字悉曇が数多くあり梵字悉曇資料として貴重である。また空海は文献を研究して我が国初の梵字悉曇書、『梵字悉曇字母并釈義』『大悉曇章』を著す。その中で悉曇を密教的に解釈し「字相として悉曇を用いるときは表音文字世間の文字となり、字義として用いれば世間の陀羅尼の文字となる」と定義し、なお各一字の中に無量の教えを説き、一声の中に無量の功徳を含むと看破して「種字」と認識している。
空海以後、梵字悉曇が大成されるのは五大院安然(A.D841〜915)が『悉曇蔵』を著してからであろう。そして江戸時代に澄禅・浄厳・慈雲など梵字書道の大家が現れ近代悉曇学の先駆者としてあがめられるようになった。澄禅は毛筆書、刷毛書に秀でて刷毛書による澄禅の書は「澄禅流」といわれている。一方浄厳は密教の学識面において業績を残した。慈雲は現代梵字悉曇学において特筆すべき学匠ゆえ、以下その人物像並びに梵字の特徴について述べる。
四、 慈雲の梵字の特色
慈雲尊者(A.D1718〜1804)は、名を飲光(おんこう)といい、江戸時代末期の学僧。十二歳で出家し密教、禅、神道、サンスクリット(梵字)を修得し当時の混迷した仏教界にあって十善戒を説き、釈迦の説いた仏道の原点への回帰を目指すべき正法律(しょうぼうりつ)を提唱した。その教えは人のあるべき姿を端的に示したので多くの人々の共感を呼び尊敬を集めた。
慈雲の悉曇筆法の特色は刷毛を用いず短穂でやや硬い筆で命点を打った後、筆毛を広げて命点を隠すように一気に筆を運ぶ。特に縦画の終筆は長く引かずそのままにしておくことが多い。その筆跡は渇筆で、かすれを伴い豪胆・素朴でありながらも重厚さに満ちている。またその墨跡からは崇高な精神性に裏打ちされた深い人間性がにじみ出ている。この書法は『高貴寺貝葉』を研究して独特の筆法を生み出したもので慈雲流ともいわれている。刷毛の作はない。慈雲は筆法のみならず梵字の手引書といわれる『梵字津梁』一千巻の編者でもあり、[iii]慈雲以降の悉曇学はことごとく慈雲尊者から出発するといわれるほどである。 了