
メッセージ
「ただいま…」
呟いてみたところで答えが無いのはわかりきっているけれど、やはり今日も言ってしまった自分にアリスは苦笑した。
火村の所にいたから、ついそうなっていたようだ。あそこでは声にすれば、誰かが返事を返してくれる。火村だったり、ばあちゃんだったり…声にはならなくても猫達の手荒な歓迎だったり。昨晩はそのせいでコウちゃんが偶然つけてしまった手の甲のひっかき傷に火村が気付いてかなり説教してたっけ。
思わず含み笑いをこぼしながら、風呂の用意をする。
あと三時間の間にあれこれ準備して空港まで行かなければならなかったけれど、出がけのどさくさで…まだ火村の名残がたくさん残っているから。取りあえずは洗い流したい…いや、本心はそのまま身にまとったまま出かけたいのだけど。そう言うわけにもいかないのが現実だ。
「急がなくちゃ」
思い出に浸っている場合ではないと手を動かしては見たものの、やはり心はそう簡単に戻れなくて。
「…ちゃんと仕事してるんかなぁ…」
さっき離れたばかりの火村に逆戻りしてしまう。
本当は、火村を仕事へと送りだしてもう少しあっちに居たかった。火村の薫りの残る布団で身体を休めてから動きたかった。でも、そうすると寝過ごしそうだったから、一緒に家を出た。
『悪いな。送っていけなくて…』
ついつい加減を忘れてぶっ飛ばしたという自覚があるのか、火村は先にブルーバードまで着いて来てそんな事を言ってた。
『ううん。そんなん火村のせいだけやないから』
出発まで全く会う予定がなかったから押しかけたのは自分の方だ。昨晩の電話を切った後、声を聞くだけじゃ足りない気がして気がついたら車に乗っていた。
突然の来訪に驚きつつ『俺も逢いたかったよ』と抱きしめてくれた火村の腕の中で、夜はあっというまに過ぎた。いや、夜だけじゃなかったというか何というか…。
自分は移動中に寝てればいいけれど、火村はそうはいかない。
『ほら、火村の方こそ、急いで行って。試験監督なんやろ? 遅刻したら洒落にならへんで』
『大丈夫だって。受験生が来るのはまだ三時間も先だ』
確かに、準備だの何だので用意する側の集合時間の方が遥かに早いだけあって、まだあたりは真っ暗だ。
『大変やな、先生も』
『まぁ、まだ見習いみたいなもんだから仕方ないよ』
『そうやなぁ。…頑張ってな』
『あぁ。ありがとう。お前こそ頑張って取材してこいよ』
『うん』
昨晩、いや…初めての海外取材が決まって以来何度も繰り返した会話をまた繰り返している。この次の言葉は。
『片桐さんに面倒かけるんじゃねーぞ』
ほら、やっぱり…。
『わかってるって。もう…何度も聞いたって…ん…』
突然、近付いた火村の唇に言葉が止まる。
『…誰にも誘惑されんじゃねぇぞ』
次の返事は言葉に出来なくて、絡めた舌と背中に回した腕で答えた。外だなんて意識は既になくて、やっぱり離れたくないなんて思ってしまうから、かなりの重症。でも。
『きりがないな…』
『ほんまやな』
ようやく離れた唇からそんな言葉を漏らした後、どうにか観念して互いの車に乗り込んだのだ。
「と…あかんってば」
ぼーっと回想している間に、かなりお湯がたまっている。
「時間ないんやって」
自らに言い聞かせるように頬をパンと叩いて、ばたばたとバスルームを出る。寝室で慌しく着替えを用意してから、ようやくリビングへ。
粗方の用意はそこに置いてある。後、確認するのは…パスポートとトラベラーズチェックと…それから…。
くるっと視線を巡らすと、電話が目に付いた。
「あれ? 誰からやろう」
留守録が点滅している。そういえば、かなり着信を溜めたままにしていたから出かける前に消去しておかないと一週間も不在なんだからと、押した再生ボタン。
『用件は一件です…』
お決まりの無機質な声に続いて。
『もしもし、アリス?』
ずっと考えてた相手の声がする。
『無事に戻ったか? 運転中だとどうせ取れないと思ってこっちにかけといた。…と言うより、声聞いたらまた長々と喋って、お前の荷造りの邪魔しそうだったからさ…。しっかり取材して…あ………』
今、行きます、とくぐもった声が聞こえたのは、火村が受話器に手を当てて誰かと話をしたからなんだろう。
『気をつけて行って来いよな。土産はいいからな。お前が無事に旅してこれたらそれで。じゃあな』
ちょっとトーンダウンした口調で火村の声が途切れた。
「…火村…」
何だか、すごく切なくなった。別にどうってことない言葉なのに。火村が言うと違って聞こえるから不思議だ。愛しさが募る。
続いて流れ出した以前聞いた片桐からの伝言を消去する。その前の知人の伝言も…田舎からの母の声も…次から次へと消し去って…。たった一つ残した火村からのメッセージをアリスは何度も聞き返していた。
やがて、火村の部屋の留守番電話が録音を始めた。
『もしもし…火村。おかえり。今、空港。ってこれ聴いてくれてる時は俺、もう、マレーシアやろうけど…。あのさ…電話ありがとう。ちゃんとお土産もってくから、帰ったらすぐに! 返品不可で受け取ってな。じゃ、行ってきます…』
勿論、たわいないその伝言も本物が飛び込むまで何度も何度も再生される貴重なメッセージになったのだった。