〜Overflow〜
こそこそ…と入ってきたその人影に視線を走らせて、一瞬、講義の声が止まった。
ん?と思った学生はホンの数名、それほどにわずかな瞬間の出来事だったとは思うが。
止めた本人は充分承知なようで、気づかれたか…といった顔で軽く手を上げて『すまん』と唇だけを動かし、そっと後ろの席に座り込んだ。
「よって、この場合。加害者の方の背景が……」
淡々と話し続けていることが極めて不思議なほど、思いはその微かにのぞくふわふわした髪の主に注がれている。
ちらりと確認した時計だと残り十分。
昼時でもあるし少々早めに切り上げたところで感謝こそされても、文句はあるまい。
「といったところで、君達の方から何か質問・疑問があれば時間をとるが…どうだ?」
専門の学生ならいざ知らず、一般教養でこの手の質問に手を上げる学生などいまどき貴重…と知っていながら投げかけた言葉だ。挙手の変わりにテキストやノートを畳むものの姿が見られても、ま、ここは寛容に…。もう既に腰を浮かせてる奴ってのは本来要チェックだが…今日は許そう。
俺とて少しでも早く切り上げたい。
「なさそうだな。では、今日はここまで。続きは次週に」
てっとりばやく解散を告げ、卓上のものを集める。
途端に賑やかになる教室。
足早にドアの向こうへと去っていく流れと逆に、とんとんと階段を下りてくる影が一つ。
「お疲れさん」
「そっちこそ。片ついたのか?」
終わらないだのなんだの…煮詰まりまくった電話の向こうの切羽詰った声はまだ記憶に新しい。
「うん。なんとか。さっき京都駅で片桐さんに渡してきたとこ。その足で直行してきてん」
だから手ぶら…とでも言いたげに手をひらひらさせて見せてくれる。
「そりゃよかった。ご苦労さん」
「ありがと…。あれ…今日って昼からもある日やったったっけ?」
黒板を消し始めた後ろでノートをのぞいていたアリスが意外そうに呟くのが聞こえる。
「あぁ、ゼミの方が残ってるな」
「そっか…」
何時もならそのあたり、しっかりと頭に置いて訪ねて来るのだが、どうやら修羅場開けの頭ではそこまで回らなかったらしい。振り向くと実に残念そうな顔で肩を落とす姿がある。
落胆は俺も同じ。
今すぐにでも抱きしめたいのは山々だが、まだちらほら残る学生の姿は幾らなんでも視界に入っている。奴等の面白おかしい噂話にただでおいしい話題を提供してやるほど、お人よしなわけでもないのでここはぐっと堪えて。
「とりあえず、昼にしようぜ。その後先に帰って、昼寝でもしとけよ」
「ん…そうやな…そうしよっかな…」
ごにょごにょ…それでもまだ不満そうになにやらぶつぶつと呟いている。
「…ゼミで待っててくれてもいいけど…退屈だろ」
せっかく会った現物を目の前に、離れがたい思いは痛いほどわかるから黒板消しを終えた手をパンとはたいて妥協案を一つ。
「んー…と、それもいいけど…火村、車?」
「そうだけど」
「そしたら、先送ってもらってもいい? わがまま言うけど…」
「とんでもない。お安い御用だ。その手があったよな…」
英都から下宿まで車なら十分程度、往復なんて容易いことじゃねぇか。なんで思いつかなかったんだろうと考えつつ、教壇を降りる。
「ありがと、火村」
にこり…全開の微笑。
「おっと…」
バサバサッ
思わず手を伸ばそうとして、腕の中のノートや資料が滑り落ちた。
「あーあー、そんなに慌てんでも…」
二人してかがみこむ教壇の前。
慌ててかき集めるあれこれ。最後の一冊に伸ばした手がほとんど同時で。
「あ…」
指先が触れた。
瞬間。
それだけで、全身が痺れる…。
愛しさがこみ上げてきて。
「…アリス」
素早く重ねた掌をぎゅっと強く握り締めて見つめると、こくんと頷く目もまた同じ言葉を返してくれる。
口には出さなくても…この言葉は充分に伝わりあう。
深い想いが互いを充たして……。
キンコンカンコーン…
本来の終了の合図にはっとして見渡せば、いつのまにか無人になっている教室。
「行こうか」
立ち上がりかけてちらりと走らせた視線に閉じたドアを捕らえると、火村は電光石火のキスを送る。
「ちょっ…」
びくりっ…と瞬きをしているアリスに、
「続きは部屋で…」
少し擦れた声で促すと。
アリスは真っ赤な顔で、でも、しっかりと頷いた。
ということでHP立ち上げ一か月無謀企画リクエストデー第一弾『久々に出会った二人…』ってことでした。リクエをいただいたasatoさん、ありがとうございました。いかがなものでしょう?
この後を書かんかいって、怒られそうだけど…。ま、再会した場所が公衆の面前なのでこんなもんかな…って。きっとはじめは会えたことが嬉しくて、そしてちょっとした事で心が充たされて、想いを更に深めるために互いを繋ぎ合うのだと…その本当の最初ってとこってことで読み飛ばしていただければありがたいです。m(__)m
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