もう一つのカレー記念日


「お肉は炒めた。にんじんとジャガイモもOK‥あとは‥たまねぎ‥」
 ぶつぶつと呟きながらアリスは何やら台所で格闘している。
 めったにない光景に興味津々と言った感じの火村だが『絶対に覗かんとって』なんて、鶴の恩返しのようなきついお達しを言い渡されていた。代わりにと押し付けられたテレビゲームなんてものに興じていたりする。
 ただ、見るなと言われれば見たくなるのは人間の道理だったりするわけで。
 何個めかの命をなくした主人公が消え果てて無常にも『GAMEOVER』と点滅する画面に飽きてきた火村は、ちらっと台所を顧みる。
 なんだか不思議な感じだ。
 まるっきりいつもとは逆のポジションだから。
 自分の部屋の台所にたつアリスを見た記憶なんて、片手に足りるほどしかない。それも病気で寝こんだ時とかで、熱にうなされて幻を見たようなふわふわした記憶でしかない。
 大概、下宿にくればばあちゃんのお裾わけにあずかるか火村が作ると相場は決まっていたから。大学に寄って来る時は学食で済ませてきたし。大体、夕陽が丘に行ったって外食で済ませる事の方が多いってのに‥。
 一体全体、どう言う風の吹きまわしなんだろう?

 ×××

「たまには俺が作るから。火村は座っとき」
 夕方、スーパーの袋を抱えたアリスがひょっこり現れたと思うと、息付く暇もなく台所に直行した。
「どうしたんだよ?」
「別に。なんか作りたい気分やったんや。でも、一人分やと張り合いないから、出張にきた」
「ならいいけど。でも、時間いいのか?」
 かけだしの新人作家が、締めきりを破るような事があったらやばい‥と、そればかり気にしてここのところ連絡も控えめにしていた。昨日かかってきた電話ではかなり煮詰まっているみたいだったから、長電話も迷惑かと思って早々に切ったというのに。
「気分転換もしないと出来るものも出来へんって」
「そう言う事なら手伝うよ」
「だめっ! 俺がするんやから」
「じゃ、ここで見てる」と後ろで腕組みをすると包丁を片手にくるりと振り向いて駄目だしをされた。
「やだ。あっち行ってて、気が散るから」
「なんだそりゃ?」
「頼むから、好きにさせて」
 そんな真剣な顔で言わなくったって‥と思うような真剣な眼差しに覗きこまれて思わずうなづくと。
「ありがとう。じゃ、絶対に覗かんとってな」
 再度釘をさしてアリスは料理に取りかかった。きっと火村は憶えていないけど、今日は火村が初めて自分に手料理を作ってくれた日だった。出会いもカレーなら、その時もカレーだったから。これまでは働いていてその日に火村を尋ねるなんて事出来なかったから、今年は奇襲攻撃を狙ったのだ。ここ数日、忙しいと言いながら実は練習した。慣れない包丁に四苦八苦して失敗もあったけど、ま、ぶったぎって鍋に入れたらそれでいいやと開き直った。でも、相変わらず下手くそには変わりないから火村に覗かれたら余計に緊張して何かやらかしそうだ。という事でゲームを持参して来たのは大正解。
 結構熱中しているらしい後ろ姿をちらっと見てアリスはにっこりと微笑んだ。

×××

 スパイシーな匂いが漂ってくる。作る作るというからどんな凄いものが出てくるのかと思っていたが、どうやらアリスの一品はカレーらしい。それなら安心だ。誰だってそこそこのものは作れる代物だから。ほっとした火村の横にご機嫌な様子でアリスは近寄ってきた。
「上手く出来そうか?」
「うん。あとは、じっくり煮こんで待つだけー」
「そりゃ、よかった」
 ようやく触れる事が叶う場所に来たアリスにそっと腕を差し延べる。当然の如くその腕にすっぽりと滑り込んだアリスの体温になんだかとても安心している自分がいる。よそ見した隙にまたまたのゲームは終了画面になる。でも、アリスが来たらもう用はないと火村はゲーム自体を終わらせた。
「結構おもろかったやろ、このゲーム。なかなかサードステージくらいからクリア出来へんと思わん?」
「あぁ。そうだな…ってわりにはアリスのスコアよさそうだけど。まさかお前、気晴らしにこんなことばかりやってるんじゃないだろうな」
「そんなことないって。する事はしてるよ、ちゃんと」
 覗き込むような視線が至近距離にある。その目がなんとなく赤く潤んだ感じで。
「…そうか。俺もすることちゃんとしたいな」
「え? あっ、ちょっ」
「しっ…黙って」
 黙るも何も、その唇を塞いでしまうのは火村じゃないか…なんて抗議は、巧みな舌に絡め取られる。
どうしてこの唇はこんなに甘いのだろう。 
「…そんな意味やないって知ってるくせに」
 たっぷりと息が上がるほどのキスに酔わされて、アリスはようやく言い損ねた言葉を訴えるけれど。その潤んだ瞳では何を言ったところで抗議になんてならない。それどころか。
「わかってるって。ちゃんとするなら、こんなんじゃ足りないよな」なんて囁きを耳元に送りながら、忍び込んで来たその指にぞくりとする。
「…やめっ…ひむっ」
「本当に? 嫌? 俺は触れたい」
 敏感な部分を摘まれてつんと立った胸の先。
「…あっ…」
「言って、アリス。もっと触れていたい」
「…っ…んー…ずるいっ…そんなんっ…」
 会えない時間に募らせた思いは自分も同じだから。
 答えの代わりにアリスはその耳たぶをそっと噛んだ。

 ちなみにその夜。結局二人は外食をするはめになった。
 熱い波に押し流された時間から呼び覚まされて、ふと気付いたのは焦げ臭い匂い。駆け寄った台所の鍋は煮詰まって吹きこぼれていたのだった。 
本当はまだ続きのある話だったというのに…。ペーパーではこの長さが限界でした(笑)
2001.5月の大阪イベントでのペーパーでした。