Spring  白澤雪乃さま

「さむ…。けど、もう春やなぁ…」
 ガタガタと軋む今となっては珍しい木製の窓から顔を覗かせているのは、火村の下宿に遊びにきているアリスだ。
「おい、寒いから閉めろ」
 火村は読んでいた資料からアリスに視線を移し、ブルッと身震いした。
 アリスの頬は冷たい風をうけて、赤くなっている。

 3月…。
 暦の上ではとっくに「春」を迎え、梅の花も終わりかけたと言ってもまだまだ寒い。その証拠に庭の水の溜まった所には氷がはっているし、吐く息も白い。
 ここ京都でなくても、本当の春は「お水取り」が終わってからと言われている。その「お水取り」はもう少し先だ。
「おい、アリス。閉めろよ。ウリも寒がってる」 
 窓から吹き込んでくる風を避けるように、窓際の日溜りから火村の腰元へ避難してきた瓜太郎の頭を撫でてやる。
「なぁ、ウリ」
 火村が同意を求めると、ウリは飼い主の言う事を理解したかのように、ニャンと小さく鳴いた。しかし、アリスは窓を閉めようとはせず、さして広くもない庭をキョロキョロと見まわしている。
「何も、珍しいものなんかないだろ。閉めろって」
 アリスは、三度、火村がそう言うとようやく振り向いた。
「もう、春やで。ほら、あそこ…見てみ」
 何やら嬉しそうに庭の隅を指差す。あのあたりには何もなかったはず…と思いながらも、火村は立ちあがりアリスの後ろから指差された方を見た。
「……なにもないじゃないか」
 火村の記憶通り、そこには大家の孫が遊びにきた時に置いていったおもちゃのスコップがあるだけだった。
「ほら、あそこあそこ。塀の下のところや」
 アリスが指差した、昔ながらの木の塀の下には小さなつくしが顔を覗かせていた。3〜4本が肩を寄せ合うように生えてきていた。
「へえ…もう、そんな時期か……」
「こんな風は冷たいのに、つくしはもうすぐ春やって、ちゃんと知ってるんやなぁ」
 すごいなぁ、さすがやなぁ、と小さなつくしに賞賛をおくっている。
「ここへ来る時にもな、車の窓を開けてたら春の匂いがしたんや」
「春の匂い? なんだそれは」
 作家のくせにアリスは時々よくわからない事を言う…いや、作家だからなのか…?
「火村は匂わへんの? 春がそこまで来てたら緑の匂いがするやんか」
「緑の匂い?」
「そうや。生えてきたばっかりの草の匂い。あと、土の匂いとか」
 草の匂い…青臭い、草の汁の匂いだろうか?
 なんとなくわかったような気がする。今まであまりいい匂いだと思った事はなかっけれど、言われてみれば、そうかも知れない。
「で、よーくあたりを見てみたら、道路のアスファルトの隙間からよもぎの芽が出てきたりしててん。そしたら、なんや嬉しいなってきた。やっと春なんやなぁって」
 本当に嬉しそうにアリスはニコニコしている。
「夏も秋も冬も、それぞれに楽しみはあるし嫌いやないけど、春って特別な気がするねん」
 春は特別。それは火村にもよく理解できた。
 一年の計は元旦にありなんて言うけれど、何につけ「始まり」は「春」だと思う。
 季節を数えるのも春が一番始めだし、火村自身4月が1年の始まりだと認識している。
「世界が急に息をし始めるみたいで、キラキラしてる…」
 別に火村に聞かせるつもりでもなかったらしく、窓枠に頬杖をついて風に柔らかな髪をなぶらせている。
 アリスの言葉通り、日差しはもう冬のそれとは明らかに異なっていた。地面に落ちている影もずいぶん短くなったように思う。
 なにより、自分たちの始まりは春だった。
 あれから、何回目の春だろう。

 火村は、外に向かって大きく深呼吸をしてみた。
 肺いっぱいに空気を吸い込むと、確かに春の匂いがした。


三月になったから…と、オープニングを彩る一作をいただきました。
ああ、なんて爽やかなんだろう。ありがとう、ゆっきー。



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