火村先生のイライラ
「もういい。……終わりだ」
 冷たい言葉と共に助教授が席を立った。
 とっさの出来事に討論をしていたゼミの学生たちが反応できたのは、らしからぬ苛立ちを隠しもせずに乱暴にドアを閉めて彼が姿を消してから。
「どうしたんやろ、先生?」
「さぁ…?」
「お前らが、あんまり低いレベルで討論するから嫌になったんじゃないか」
「そうかなぁ?やばいかなぁ…」
「違うんじゃない。なんとなくだけど、このところ、先生ちょっと不機嫌だったような気がする」
「えー?俺、わからへんかったけど…。あの先生自分の機嫌とか、あんまり表にだせへんもんなぁ」
「うーん…。でも、なんか普通じゃなかったよな、特に……ここ2週間程ぐらい?」
「そうかなぁ、そういや、ここんとこ珍しく休講が全然ないな、とは思ってたけど…」
「っていっても休講の時って、遊んでるわけじゃないんでしょ。先生は」
「大概、警察に関わって仕事してるんだろ」
「とは聞いてるけど…。このゼミに入って三ヵ月 になるけど、先生ってようわからんわ」
「私なんか先生が講師の頃から知ってるけど、謎だらけだわよ」
「…はぁ。まぁともかく来週までにもう一回、このテーマ煮詰めとこう。今度の時には卒論のテーマもやらなあかんし」
「そやな……」
 なーんて会話が残された扉の向こうで行われているとは知る由もなく、謎だらけで、わけがわからないと話題の先生こと、英都大学社会学部助教授、我らが火村英生氏はすでにぼろぼろのベンツを走らせていた。

「京都を走る車じゃねぇぞ、バカがっ!」
 ここでも助教授は悪態をついている。
 ま、でもこれは、交差点でしっかりマナーよく止まった自分をむりやり右折ラインから追い抜いた派手な外車にだったから、許せる気もする。
「全く、どいつもこいつも…くそっ!」
 が、そういって見込み発車してる自分もかなり危ないと思うぞ。私は…。
 それはさておき……。

 この助教授のイライラの原因。
 そんなもの、このページをお読みのあなたなら、もう言わずとしれたこと。

 珍しく一ヵ月以上にもなろうかというのに警察からのお呼びがかからない。
 といっても、普通の人間はそうなのだが。
 犯罪が研究対象の火村先生としては捜査に呼んでいただくことが大事なお勉強なのである。『なんにもない毎日などつまらなーい!』とすねてしまって機嫌が悪くなっても当たり前。
 って、いわれても、世の中平和が一番。そんなにごろごろとあちこちに殺人事件がころがってられちゃあ、困る。そりゃ、火村先生、ワガママだわ!
 え?違う。そうじゃない。
 冗談だってば…。
 失礼!

 もとい。
 助教授のイライラの原因。
 それは、もちろん、スイートハニーアリスのせいに決まってる。
 そう。世渡り上手な割りには(だって、この歳で助教授だもん)屈折してて、女嫌いで、つかみどころのないこの先生が、十年近くも傍において離さない唯一の存在。それがアリス。といっても、不思議な国に住んでるわけではない。みなさま御存じ推理小説作家、有栖川有栖その人である。
 その溺愛ぶりといっちゃ…。
 講義があろうが、教授との懇親会があろうが、アリスが一言「火村、来てくれ」と言えば「風のように」現地へ。
 親友の頼みだとかなんとか言い訳かましたところで、わかる人には丸分かり。
 いや、助教授の方はわざとばらしてる所もあるようなんだけど、のほほーんとしてるアリスは、至って真面目に親友を強調してみせるから余計に怪しい。
 捜査現場でのツーショットだって助教授と助手とか言ってるけど、ただ目の届く範囲にアリスを置いておきたいだけ…わからいでか!
 真冬でも二人で居たら暖房なんて必要ないくらい、はたで見てたら汗かきそうっていう程のあつあつぶりに夏なんて見てて焦げそう。
 なんて関係を、この二人もう十年も続けているわけなのである。
 といっても、いつもいつも一緒に居られるわけではない。知り合った学生時代から時と共に二人の情況も変化した。
 サラリーマンと大学院生だった頃は、火村にはまだ時間があったが、一歩先に社会にでたアリスが人に揉まれて、時間に追われて、休日にはくたびれていて。それでも、ようやく夢がかなってアリスが作家としての道を歩きだした頃は、火村が助手だ、講師だと肩書きを持ちつつも結局は教授たちにこきつかわれて時間がない始末で。
 ようやく、助教授と作家。なんとなくお互いに時間の融通が聞くような立場になったなぁ、と四月に双方の誕生日を祝いながら話したのも束の間。
その後すぐにアリスは新しい出版社から依頼をうけた書下ろしの長編を抱え、火村も教授の御供で海外への通訳に出てしまい…まったくしてのすれ違い状態でゆっくり会う時間などとれなかったのだ。
 
 そして、ようやく。
 帰国してすぐに電話をかけると、愛しの恋人は、
「俺も逢いたいよぉ。でもな、でも…あと5日は無理やな」なんて電話口で泣きごとを言っていた。
 どうにも納得がいかないと延ばし延ばしになった締め切りの最終期限がその日らしい。
「手伝いに行こうか?」と切り出しても。
「…いい。火村が居るとつい甘えてまうから…ごめんな」とさらりと交わされた。
 確かに。
 一緒に居て仕事の邪魔をしないという保証は出来ない身。
 前科だってあるわけだから、そこはぐっと大人の余裕で『頑張れよ』と言ったものの会いたい気持ちだけは膨らむ一方。
 思わず大人気なく指折り数えたりしてみる。
 それだけでは足りなくてカレンダーには得体の知れない×印が並ぶ。
 ようやく解禁!
 と思った矢先。今度は火村自身が急遽またしても京都から離れる羽目になった。
「火村君。君しか頼めないんだ」なんて言葉でピンチヒッターで伝統と格式に満ちた学会での発表をまかされた。そんなのは他の人に…と反論しようにも発表者であった先輩には義理もある。じきじきに頼まれたとあっては断りきれない。…なんせ相手は盲腸をこじらせて早く手術しないと危ないと言われてまでいるのに病院に行く前に、この手をとって頭をを下げているのだから。
 急なことで夕方には出発という事態に、慌てて連絡した電話先でかの恋人どのは「そりゃー大変やな。でも、大丈夫やって火村なら。頑張ってきてな」なんて可愛い声で応援してくれた。そればかりか「実は俺も後一週間ほど余裕もらえたから。今度こそなんとかするように頑張るわ!」なんて相変わらず進んでいない原稿にもあっけらかんとしている始末。
 さらに更に!
「とにかく終わったら電話するから。うちにかけてもつながらんでも心配せんといてな」なんて追いうちをかける言葉もついてくる。どういうことだと聞き返すと「ちょっと缶詰になってくる。いやー、なんかすごい作家さんになった気分や」とからから笑って電話を切ってしまったのだった。
 そしてまじに…飛行機を降りてすぐに入れた電話には応答もなく。
 その後、京都に戻ってから…二週間。
 未だ音沙汰がない…という最悪パターンだったりしたのだ。
 
 そんなこんなで、行き追いこんで訪ねたアリスの部屋はも抜けの殻。
 でも、一度は部屋に帰って来ているとわかってのは、エントランスの集合ポスト。民家以上に色々な広告やダイレクトメールが投げ込まれているそのポストの702号室に入っていたのはホンの2、3枚の薄い紙だけ。という事は、今日か昨日かのうちにあいつは一度ここに戻って来たと言う事だ。
 ならば何故連絡をよこさない?
 最近は携帯電話という便利なものだってあるというのに。そういうものでどこまでも仕事の追われるのは御免被りたいが、こういう時の為に利用してこそ価値があるってもんじゃねぇのか!!!
 全く、使い道もしらねぇのか?
 どさっと座りこんだソファで、せわしなくキャメルを蒸かす。
 …一本。
 ……二本。
 ………三本。
 その本数と反比例するかのように、段々と吸いさしのタバコが長くなる。
「無くなったじゃねぇかよ!!」
 ついには空になったキャメルの箱をぐちゃぐちゃに丸め捨て火村は立ち上がった。
 一体あいつはどこへ行ったんだ?
 気がつけばもう日も暮れている。
 お腹の虫も鳴いている。
 何か摘もうと勝手知ったる冷蔵庫を開けてみる。
「…おーおー見事なまでに何もないでやんの…」
 ってことは…買い物にでも行った…にしては、遅すぎる。
 ためしにもう一度と鳴らした携帯は、相変わらず『電源が入ってないか…』と告げるだけ…。
「もう、しらねぇからな!」
結局、イライラを募らせただけの状態で火村は夕陽丘を後にした。

 バタン
 力任せにしめたベンツのドア。
 完璧にいらいらをぶつけられておんぼろが悲鳴をあげているようだ、と思ったところに降って来た声。
「なんや、壊す気か?」
 それは間違えるはずのないそのイライラの原因を作っている奴の声で…。
「アリス?」
 慌てて見回すが姿がない。
 まさか、空耳まで聞こえるようになったのかと、一瞬自分を疑った時、もう一度声がした。
「違うって、こっち、上や、上ー」
「え?」と見上げた先は、自分の部屋の窓だ。
「おかえりー、火村ー」
 ひらひらと手を振りながら、アリスが暢気に笑っている。
「…あいつ…」
 なんて事だ。見事なまでに入れ違ったって事か。
 思わず力が抜けてしゃがみこみたくなる。そんな火村に畳み込むように「早、戻ってこいやー」と脳天気な声が降ってきた。

「おかえり…邪魔してる…うわっ……火村っ…待って…こらっ! ちょっ…」
 ドアを開けるなり猪突猛進状態の火村はあいさつの言葉を遮ってアリスを抱きしめる。…いや、正確には抱きしめようとした勢いのまま、押し倒して、その唇まで奪ってしまったわけだが。
「はぁ……全く、熱烈歓迎をありがとう。何? そんなに切羽詰まってたん?」
 激しいキスからようやく開放されて息を整えながらアリスは尋ねる。
「ばかっ…来るなら来るって連絡いれろよ。無駄足踏んだだろうが」
 上から覗き込む火村の視線はまだ厳しい。
「あ、もしかして、うちに行ってたん?」
「あぁ」
「ごめん。名古屋まで行く用事が出来たから帰りに直行してきたんや」
「なら途中で言えって。せっかく便利なもん持ってんだろ」
「携帯?」
「あぁ」
「実は家に忘れてん。手帳と一緒に…」
 だから電話番号もわからなかったといいたいわけか。
「本当に馬鹿だな…覚えとけよ、俺の番号ぐらい」
「だって数字苦手やもん」
 けろりと言ってのける唇が憎らしくなってきて、噛み付く。
「いたっ! もう、何すんねん!」
「うるさい! どれだけ俺が心配したと思って…」
 何をやっても手につかない。
 気になって仕方ない。
 集中できない。
 全ての原因がアリスなのだ。情けないことに…。
 はぁ…と溜息をついて、火村は身を起こし、髪を掻き乱している。
「ごめんな。もう、ここに居るから…。傍にいるから…」
 その膝から覗き込むようにアリスは手を差し伸べる。
「俺も会いたかってんで…すごーく。ガマンしすぎて、どじばっかして、余計に時間かかって…いらいらしてもうた」
「アリス…」
「火村もおんなじやった?」
「あぁ」
「じゃあ、今思ってる事も同じかな…」
「そうだな」
 伸びてきた指に誘われるように、今度は飛び切り優しいキスをする。
「…ほんまや。次も、同じかな…」
 そんな言葉に誘われて。
 久しぶりの恋人達は、熱く甘い時に埋没していく。

 そして、長い時間をかけて…。
 こうして二人でいることが互いにとっての安定剤だと確かめ合ったのだった。