in the night



 例のごとく『火村先生向きの事件』を一件片付けたその後。
 現場から、夕陽丘のアリスのマンションに戻った時にはもう深夜2時になろうかとしていた。


         ☆★☆


「一杯だけ、いいやろ」
 ジャケットを無造作に脱ぎ捨てて、さっさとソファに座り込んだ火村の前にグラスがおかれる。
「ワインか?」
「うん。白の方な‥なんか事件の後って赤は苦手や‥」
 言いながら二人分のグラスを満たすその横で、火村がキャメルの火をつけた。
 言葉もなく漂う煙を見つめてグラスを傾ける。
 昔見たモノクロ映画の一シーンのような光景が、この男にはやけに似合う。
 ただそこに居るだけなのに充たされてしまう空間。
 沈黙さえもが暖かい。

 こんな時、アリスはわけもなく感謝したくなる。
 火村と出会えた偶然に。
 他の誰でもないこの自分が火村とこうして寄り添って居られる事に。
 そして何より自分にこれ程の穏やかな時間を与えてくれる大切なこの男に。
 いつからこんなに好きになったかなんて思い出せない位に、自然に二人寄り添ってきた気がする。
時の流れの中で、それは当たり前になっているけれど、数字にしたらものすごい単位になっているはず…。
 積み重ねた時間の分だけ幸福がある。
 火村以外ではありえない充足。
 悔しいから口にした事はないけど。
────幸せすぎて涙が出る程、愛しい…

 そんなことを想いながら、静穏に酔っていたアリスを呼び戻す声。
「おい、アリス。目を開けたまま寝るな。寝るならちゃんとベッドで寝ろよ。風邪引くぞ」
「あ、悪い」
 気がつけばテーブルには空のグラス。灰皿には吸い殻が3本‥。
「‥ごめんな。火村、疲れてるのにつきあわせて」
「いや。俺もちょっと考え事してたから」
 きっと、それは優しい嘘。
 一服にはちょっと長い時間。おそらく自分の時間を尊重してくれてた火村の思いやりなのだろうとアリスは思う。
 でも、実の所、火村はアリスに浸っていたのだ。
 自分をこの世につなぎ止めていてくれる唯一の存在、有栖川有栖。彼との出会いがなければ今の自分はありえない。
 その存在にどれだけ救われてきたことか…。
 アリスだけが持つ不可思議なパワー。それは、犯罪と関る毎に狂気に引き摺られそうになる負のエネルギーを浄化してしまう癒しの力。
 傍にいてくれるだけでいい。
 他は何も望まない。
 その唯一無二のアリスへの絶対的な想いが自分を人として生かしている。
 火村もまた、決して口には出さないけれど‥。
 その視線は語り続ける。
────お前がいなければ生きてはいない。


         ☆★☆


「中途半端な時間やなぁ」
 カラスの行水も真っ青のスピードでシャワーを浴びた後、サイドボードに腕時計を置きながらアリスが呟くと、既にベッドの先客となっていた火村の声がした。
「何が?」
「あ、まだ起きとったんか」
「お前じゃあるまいし瞬間睡眠の芸はもってないよ」
「悪かったね」
 軽口を叩きながらもタオルケットを挙げて場所を開けられたスペースへと滑り込む。
「で、何が中途半端って?」
「うん。今3時ちょっと前やねん」
「作家先生にはざらだろう。夜中の方が筆がのるんじゃなかったか」
「それはそうやけど。俺やのうて火村がやん」
「俺?」
「明日、一限から講義ある日やろ」
「そうだったかな」
「そうや。君、休講ばっかりして、自分の予定全然わかってないんちゃうか?」
 大の男が二人で寝るには狭いベッドで、ちょこっと身を起こしてのぞき込むその仕草の愛らしい事。
「俺が憶えてもいないスケジュールを把握してる奴がいるって事の方が不思議だけど…。お前のメモ帳には俺の予定ばっかり書いてあるのか」
「まさか。偶然や。こないだ、君んとこ行った時、朝一あるからって枕元にコーヒー置いて学校行ったやん」
 むきになって言い返してくれるから、ついからかいたくなるのも道理。
「‥あぁ。アリスがいつになく積極的に迫ったくせに次の日起きれなくなったあの朝か」
 さっきまでのムードなんてどこへやら。
「へ?」
「もう無理だって言ってもせがんできて、最後は意識も飛ばして。お互い何回いったかも憶えてない程。あまりに凄かったんで一週間もたったなんて思ってなかったけど」
「な、なに言って…」
「事実だろう?」
 確かに、ちょっと脚色入っている気はするが、大筋は嘘ではない。
「ハードだったな、アノ日は…」
 迫ってくるにやついた笑顔にようやくからかわれたことに気付いたアリスが怒り出す直前に、火村はしっかりとアリスを抱きしめている。
「な…ア、アホか!放せ!この変態、性欲魔神めがぁ‥ん!‥…」
 その上、うるさい口は塞いでしまうというおまけつき。それも開けてた口に舌まで忍び込ませる飛びっきり深く絡めとるディープキス。アリスの方も濃厚なキスにも負けずにあがいてはみるものの腕力の差は歴然としてて逃れられるわけなどない。
「ひ…むら…」
 息をつく間に零れた自分を呼ぶ声にアリスのギブアップはわかっていたけれど。
「あまりに印象的で忘れられない夜だったんじゃないのか」
 まだからかい足りないとばかりに続けるものだから、アリスの負けん気にもまたまた火がついてしまう。
「ちゃうわ!あの後、桃ちゃんがコーヒーに突撃して、俺もシーツもコーヒーだらけになってしもたから憶えてるんや!」
「あぁ、それで布団までしっかり干してあったのか。俺はまた、あまりに愛が深すぎたせいかと思ってたけど‥」
 火村のからかいが自分が怒るのを見て喜ぶ天の邪鬼のせいだってこともわかってしまうから悔しい。
「もう、ええ!」
 押さえられてるこの力だって、完全本気じゃないってわかるから余計に腹が立つ。だから精一杯、抵抗してみせる。
「重たいわ、火村! どっか行けや! そんな事しか頭にないんか? エロ助教授!」等など。
 思いつく悪態を並べつつ、その手を払い除けようと力任せにもがくこと数分。
─────────パン!
「あ…」
 偶然自由になったアリスの手が火村の頬にヒットした。

 一瞬、二人の動きが止まる。
 痺れるほどの右手の感覚に火村の痛みも想像出来たけど。沈黙を破って出てきた言葉は憎まれ口。
「…火村なんか嫌いや」
 どれだの罵声の中にもなかった言葉に、途端に変わる火村のトーン。
「俺は好きだよ。アリス」
(ずるい…。その声)
 包み込むようなバリトンがどれだけゾクゾクさせるのか計算し尽くしたようなその囁き。
「知らん。放しいや。俺ソファーで寝てくるんやから」
 強ばっていた力が抜けていくのがわかる。
(でもすぐに折れてなんてやるもんか…!) とは思うけど‥。
「ダメだ」
 力をゆるめてあやすかのように素肌を掠めていく火村の優しい手を、アリスは既に認めている。
「……!」
 はだけたシャツの隙間から忍び込んだ指に、胸の飾りを軽くつままれると電気が走る。
「放すかよ。アリス。どんなお前でも、全部好きだ…。こんな聞き分けのよくないお前も、乱れるお前も」
 真剣な瞳に映る自分が大きくなってくる。近づいてくる美しい面差し。
 普段ならそれだけでうっとり目を閉じてしまうけど…。やっぱり悔しい。だから…。
「真実味がない」
 唇の間に掌の遮断機。
「え?」
「人のこと、さんざんからかっといて、そんなん言うても冗談にしか聞こえへん」
 見つめ合って数秒。
「悪かった…」
 まるで貴婦人に与えるような恭しい手の甲へのキスを火村はアリスに捧げる。
「‥なんや。君にしては素直やな」
 つまらなそうに呟きながら、アリスの目がふと柔らぐ。
 その目が罪作り‥。言うとまた怒らせるとわかっていながら火村の口から飛び出た言葉ときたら。
「全く‥アリスは可愛すぎる」
「アホ、まだ言うか‥。三十路過ぎてんねんで、お互い。可愛いなんて言われてもうれしないわ」
「悪い。でも、誉めてるんだぜ?」
 会話の合間に、一本、また一本と指を甘く噛んでいく火村の唇が熱い。
「それで機嫌とってるつもりなん?」
「さぁな…自分でもわからない。ただお前に触れてればそれでいい」
「なんや。すねるだけ損やな」
 濡れた手を火村の頬にそえ、自分からキスを送る。
「痛かったか?」
「いや…音だけだろ」
「でも、熱いで」
「お前といるからな」
「めっちゃキザ…でも、同じやな。俺も熱いわ」
 重なる唇の熱さだけじゃない。
 互いに脱がせる服の下。触れ合う素肌の全てが燃えそうだ。
「欲しい。アリス…」
 耳元にかかる吐息に混じる自分を呼ぶ囁きに持っ
ていかれそうな意識をつなぎ止める。
「寝なくて…ええんか」
「今更止まるかよ」
「俺との時間なんかまだいくらでもあるやん」
「それでも、今のお前がいい」
 一週間前の自らの軌跡を追い始めた火村の指。
「……ん……」
 追われる方も追うほうも、もう知り尽くしたはずなのに。

 求めずにはいられない。
 火村はアリスを。
「アリス」
 アリスは火村を。
「…ひ…む……らぁ…」
 求めるだけでは足りない。
 与えるだけでも足りない。
「‥ぅん…‥あ‥」
 零れ落ちる喘ぎも。
 乱れ流す涙も。
 見つめ合う瞳も。
 搦めとる舌も。
 全部、全部、全部。
 何もかもを奪い合いたい。
 互いが互いを焼きつくしてしまうまで…。
「壊し…たい」
「いい…から…もっ…と…ぁ───」
 自分の中に息づく火村の熱に最後の砦を崩されて、心地よい闇の中へとアリスは溶けていった。


         ★☆★


 カーテンを開ける音。

 気がつくと、しっかりと服を着込んだ火村の視線が注がれている。
「悪い。起こしたか」
「いいや」
 身体を起こそうとして、どうやら先週の二の舞らしい自分に気づいてベッドに沈み込んだ。
「すまん。送ったりたいけど、あかん。事故ってまうわ」
「かまわん。ゆっくり寝てろ」
 軽く触れた唇。
 どう見ても寝不足の火村の顔。いい男が台無しだ。
「火村。少しは寝たんか…」
「少し…な。でも睡眠よりお前の方がエネルギーになったよ。ま、少しは電車で寝るさ」
「…ん。乗り過ごさんようにな」
「あぁ。じゃあな。行ってくる」
 くしゃっと髪に手をおくと火村は部屋を出ていく。

 恋人の遠退く気配を感じつつアリスはまぶたを閉じた。
 自らの研究とは言え、事件に振り回された後、ほとんど寝ないまま仕事に行かねばならない火村には悪いと思いながら現実と夢の間を行き来する。火村の余韻が残るベッドの中での微睡み。5分くらいうとうとしたかなっと思っていると、実は一時間もたっている…そんな寝ているような、起きているような不思議な時間。
 この時間がアリスは好きだった。
 そこに色々なものが重なる。
 例えば、町の音。車の往来の音や子供たちの行き交う声。遠くで何か聞き覚えのある音楽が流れている。
 そして、匂い。
 晴れた日と雨の日とでは微妙に違う空気のそれや、食卓を飾る朝食の匂い。とはいえ、先週は入れ立てのコーヒーの香りに酔っていたら突然それが降り掛かってきて驚いてしまったが…。
 半分眠って、半分起きている気怠い時間がゆるゆると過ぎていく…。

 あぁ、今日もいい匂いがする………。
 火村の匂いも残っている…。
 いや、違うキャメルの匂いか…。
 あぁ、ニュースの声も聞こえるなぁ……って?

 あれ?
 夢じゃない。
 あれはテレビの音声。現実の音。
 なんでテレビなんかついてるんや?

 重い身体を引きずって、居間に向かったアリスが見たのは、ソファーに寝転ぶ人影。
「なんで君がここにおんねん?」
 それは正にさっき見送ったはずの火村英生その人の姿。
 驚いたアリスの声に浅い眠りを覚まされたの火村が細く目を開け、手をあげる。
「よう、起きたか」
「お早よう…って、違うわ。火村、なんでこんなとこでテレビつけたままうたた寝してるんや? 講義はどうした? 講義は? 電車乗り損ねたんか? 今、8時か…今からやったら、新幹線使ったら2限は間に合うかもしれんで」
 慌てふためき、起き抜けのぼおっとした頭に喝を入れるように叩きながら必死で聞いてくるアリスを横目に、火村は平然と寝起きの一服に火をつける。
「落ち着けよ、アリス。そんな必要ないさ」
「でも…」
「あのな、アリス。マンションをちょっと出たあたりで小学生と会ったんで戻ってきたんだよ」
「はぁ? 小学生?」
 なんのことやら…?
「そう。俺は駅に向かおうとしてた。彼はここへ戻ってきた。だから止めたんだ」
 しばしの沈黙の後、火村のキャメルを奪い取り、むっとした声でアリスは言った。
「…火村。朝っぱらから俺をからかいに帰ってきたんか?」
「違う、違う。至って真面目さ。ちょっと考えりゃ
わかるだろう。有栖川先生。朝の7時前に小学生が首にカードぶら下げて帰ってくるんだぜ」
 何かがひっかかる。
 早朝。
 小学生。
 首からのカード。
「……あ! ラジオ体操か〓」
「そういうこと。俺が休みにしなくてもお子様たちは夏休みってことだ。というわけで少し寝かせてくれ」
 半身をおこしてアリスの手首を掴むとその指の間のキャメルを器用に口して、又ソファーに沈もうとする。
「それやったら、ちゃんとベッドで寝ろよ」
「お前はもう起きるのか?」
「え?」
「アリスが起きるならベッドに行くさ」
 その言葉の裏の意味をアリスは気づかない。
「やっぱ…狭いんか?」
「いいや。ただ、お前が隣にいたら眠れないからな」
 別に今さら気づいて欲しいとも思わないけど、それでよく推理小説が書けるものだと、どこまでも純粋な恋人に火村はただただ感服してしまう。
「…そんなん言われても。いっつもそうやんか…。何が気にいらんのか知らんけど、うわっ!」
 突然、腕を引かれてアリスは火村の上に倒れこんだ。
「何すんねん!」
「ナニしようか…」
「何ってなんや?」
 その純粋さをあきれていいのか、嘆けばいいのか…。
 アリスの真剣な目に、溜息を一つ落としながら、助教授は片手を灰皿にのばし煙草をもみ消す。
「ミステリー作家の名が泣くぞ」
 囁きと共に触れてきた唇。
 何千、いや何万回の内の一回目のキスをアリスは静かに受けとめている。
 その唇に教えられる。
 わかっている。
 知っている、と。

 そして、火村は気づくのだ。
(からかわれてるのは俺の方か…)
 そっと離した自分を見つめる瞳は真剣なままで変わらない。
「…わかってるなら、からかうな」
「からかってるのは、火村の方やろ」
「馬鹿言うな。俺はいつでも真剣だぜ。お前には、な」
「俺もそうや、て。火村が本気やったら俺も本気で答える。ホンマに欲しがったら、いくらでもやる」
 日頃は見せないアリスの内の激しさが迸る。
「…ア…リス」
 その美しさに思わず火村は息を飲む。
「でも、冗談やからかいはイヤや。好きやから、火村。他のことはわからん。でも、お前のことはわかるから。いい加減なんは許さへん」
 この強さにも惚れたのだ、と改めて火村は思う。
 何年経っても底知れぬ魅力を持ち続けるアリスだからこそ。
「愛してるよ。アリス」
 しっかりとアリスを抱きしめて火村は宣言する。
「うん。俺も」
 その力強い鼓動を聴きながら、アリスは頷く。
「本気でお前が欲しい…、でも…今は…このままが…」
「火村?」
 目を閉じた火村は瞬く間に軽い寝息を立て始めている。
「誰が瞬間睡眠やねん。人の得意技取るなよ…。全く…せっかく人が、その気になってたのに…。まぁ、いいわ」
 緩んだ腕をくぐり抜けて、アリスはそっと恋人の寝顔につぶやいた。
「おやすみ。火村。起きたらちゃんとベッドで寝よな…」






実はこれが、私にとって初めて書いたひむあり話でした。
そして、同人誌という形で世に送り出したお話でもあります。
なんだかものすごく懐かしい気分。
本当に、なんとも、初々しい二人だなぁ…と今見ても思います。
拙い文章は…変わんないですねぇ。士、進歩かせなし奴しでこと…。
あぁ、ここ…今なら…ってところもあったけれど…そのまんま載せさせていただきました。

「Alice」より再録。

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