乾杯



夜半。ふと、目が覚めた。

…呼ばれた気がして…

勿論、その主は居るわけはない。

遥か南の空の下だ。

 

「…ん? なんだ、お前達か? ウリ…コジ…」

 いつの間にか、やけに肩越しがほこほこしていると思ったら、階下で眠っていたはずのネコ達が仲良く潜り込んでいる。そっと撫でてやっても、起きる気配もない。

「安眠中ってとこか…」

 俺も眠ろうと目を閉じてみたものの、時計の音がやけに耳につく。

 カチカチ カチカチ…。

 どれだけの間、その音を聞いたことか。

「こりゃ、駄目だ」と観念して、目を開ける。

 何気なく手を伸ばした先にはキャメルの箱。

「火がないか…」

 布団を抜け出した途端に包み込む冷気。

 慌てて手繰り寄せたはんてんを羽織ながら、近付く窓辺。カーテンの隙間から覗き見ると、案の定。街頭にちらりと煌めくものがある。

「やっぱり…積もるかもな…」

 ふぅ、と燻らせる煙。

 少し早起きをせねば車への移動は無理かもしれない。いや、出来たとしても時間はかかるかもしれない。ま、夜には溶けているだろうから夕陽ガ丘に出向く時間には何の支障もないだろうけれど。等など…思い巡らしているうちに、本格的に目が冴えてきてしまった。

「2時半か…」 

 このまま朝まで待機するには、いくら何でも早すぎる。といってすんなり眠りの世界に戻れるわけではないから。

 一杯飲むか、と取り出したブランデーには数ヶ所のマジックの線。

 俺のキープや、と飲むたびに書き替えていく奴の跡。

 もっとも次に来る度に減っていると怒っているけれど。ほんの数センチの話だからか、『飲みたい夜もあるもんな』と自分で勝手に納得しているようだ。

 

「許せよ」

 コクコクと注ぐ琥珀の液体。

 口にしようとして、ふと、止めた。

「そうだな、待ってろ」と、取り出したもう一つのグラスに同じだけの液体を注ぐ。

「乾杯!」

 それは幻の恋人への祝杯。

 でも、きっと相手も同じ事をしている。  

 なんとなく、そんな気がした。

 夢の中まで追い掛けてきた恋人は、きっと眠れない夜を過ごしているだろうから。

 

 見つめた視線の先には電話。

 自信はあるが、やはり真夜中。 

 ためらいもある。

 でも、眠っていても留守電だ‥。

 だから・・・・

 ピッとボタンを一つ。

 短縮ダイヤルが動きだす。

 受話器から聞こえる音が呼び出し音に変わる。

 出るか出ないか、コールは五回まで。

 一回

 二回

「…寝てた…かな?…」と思った矢先『もしもし』と訝しげな声がした。

 ほら。

「やっぱり起きてたな…」

 誰とは告げなくてもその一言を聞いてアリスの声が変わる。

『火村…どうしたん、なんで?』

 嬉しさと驚きが微妙に交じり合った、そんな顔をしているはずだ。

「ん、お前が呼んだから」

『え? 俺…』  

「あぁ、夢の中まで起こしにきただろ…」

 ひむら…と小さく呟いて、ようやくくすりと笑い声。

『…聞こえたか? 何しようって言ってた? 俺』

「早く祝杯あげよって。ほら、お前の分も入れたぜ」

 チャプチャプっとグラスを振る。

『すごいな…全く。こっちにもあるよ。火村の分』

 カチャーンと触れ合ったのは、多分…。

「ワインか?」

『うん。ブランデー切れたから…』

「おいおい、飲みすぎるなよ。本当の祝杯は明日あってからだぜ」

『祝杯…かぁ…』

 少し気弱なその響き。

「アリス…何、恐がってるんだよ?」

 アリスにとっての明日(厳密にはもう今日だが)それがどれだけ待遠しく、そして不安に思っている日かは、火村もよく知っているけれど、努めて明るく切り返す。

『ん、何だかすごく不安やもん』

「でも、期待も大きいだろ」 

『…そりゃ、な…』

「おめでとう。一生に一度の日じゃないか。お前の初めての本が店頭に並ぶんだぜ。わくわくするだろ」

『うん。そうやけけど、最初で最後になったりして…』

「全く、気弱だな。ならないさ」

『…でも…誰も読んでくれへんかったら…とか思ってさ』

「それはないな」

『なんで?』

「俺は読むぞ、ばあちゃんも買いに行くって言ってたしな。うちの職場の連中も…」

『なんや…それって内輪ばっかりやんか…。それに火村、もう読んだやろ』

「あぁ、でもな。読んだからこそ、確信を持って言ってやる。きっとお前の本を誰とも知らない人が手にとって喜んでくれるって」

『…ありがとう』

 ひいき目ではなく、火村は断言する。作品に対して火村の厳しい目を向けてくれる事はよくわかっているから、ほっとした言葉が零れた。

「ん…明日、本屋行くんだろ」

『うん。恐いものみたさ…ってやつやけど』

「じゃ、もう寝ろよ。眠れそうなら」

『そうやな…。眠れると思う。ありがとう、火村。起こしてごめんな…』

 いいや、とおやすみを言い残し、素早く受話器をおろす。

 ずっと繋がっていたいけど、それではきっときりがなくなるから。

「俺も寝とかないとな」 

 単なる機械へと戻った電話に呟くと火村はブランデーを飲み干した。

 

 明日の今頃は、きっと二人、幸せな気分で過ごせているはず。

 アリスのデビュー作出版を祝った二人だけのパーティ。

 その大切な時間のために。 

「…おやすみ…いい夢を」

 火村はアリスに。

 アリスは火村に。

 遠く離れた二人は同じ言葉を呟いて、目蓋を閉じた。





「雪うさぎ」さんにお世話になっていた作品です。
若い二人のほんわか話。結構、こういうの好きなんですよ、私。