恋愛小説

(1)


 じりじりと後ずさりしていた背が、書架に当たった。
 すっと伸びてきた手を反射的に避けて顔をそむける。
「私は何も強制しているわけではないよ。君が選べばいいことだ、有栖川君」
 その首筋に冷たい指が当たった。
 おぞましさにアリスは唇を噛む。
 優しい先生だと思っていた。何かと世話を焼いてくれるいい人だと…。だから、今後の進路の事で話がしたいと言われて、何の疑いもなく研究室までついて来た。
 なのに、まさかこんな…。
「…お、俺は…」
 ヤニ臭い匂いが近づいてくる。
「君は私を嫌っていないはずだよ。…任せなさい。悪いようにはしないから…」
 近づく男の好色な笑みに、脅えが走る。
「い…いや…ですっ!」
「なら、逃げなさい。卒業までの2年間だ。悪い条件ではないと思うがね…」
 善人の仮面を被ったままあくまでも優しく、でも残酷な事を言ってのける父親ほどの年の男。
「ギブアンドテイクを申し出ているだけだよ」
 その条件に,身体をと要求しているのは誰だ?
「…止めてくださいっ!」
 なおも避けようとする身を追ってくる気配。
「本当にいいのかい? 君は。残りたいんだろう、ここに」
 確かに。
 残りたい。
 卒業もしたい。
 でも、引き換えに愛人になれなどと…どうしてそんなことが我が身に起こるのか、アリスには理解できない。

 ただ…。
 自分が追い詰められているのは事実。
 今、この男を跳ね除けて逃げ出せば、もう、二度と大学に来る事は叶わない。
 ここには、戻れない。
 …二度と逢えなくなる人がいる……。
 ふと、よぎる面影が、胸を締め付ける。

 一瞬止まった動きの隙をついて、顎に手がかかる。
「有栖川君…」
 背けた頬に生暖かい感触を感じて、抗う。
 でも…ここを…去りたくはない…。
(……どうすれば…いいんや?)
 もう…わからないっ……。
 崩れ落ちかけた心と同様に、ずるずるとしゃがみこんでしまう身体。
「いいんだね…」
 耳元のおぞましい声に、震えが走ったその瞬間。

 コンコン コンコンコン
 
 突然、忙しないノックの音がして、荒々しくドアが開いた。
「失礼します」
「な、何だね! 失礼だろう、君。アポもなく…」
「お取り込み中、申し訳ありません。学部長が大至急と探してらしたものですから」
 慌てて、身を離した教授に相手は冷ややかな声で告げる。
(火村!)
 その声の主がすぐにわかって、アリスは顔を伏せる。
「学部長が?」
「はい。空き時間にすぐとのことで。内線に連絡を入れたら応対がないから見てこいと言われまして」
「そ、そうか…」
「今度の学会への書類の件で、秋田先生の都合が悪ければ福島先生を…と」
「いや、すぐに行く」
 ライバルの名前が出て、俄然、欲が出たらしい。がさごそと、机の上を漁る音。
「わかりました。では、内線をお借りします」
 つかつかと、中に踏み入れて来た火村は受話器をとると、学部長へのホットラインをコールしたようだ。
「もしもし、火村です。はい、秋田先生は研究室でした。何か熱心に御指導中だったようで…え? はい…もちろん。すぐに…一分? 着くと思いますけど? はい…はい」
 その口調に気難しさに定評のある学部長が、かなり急ぎで呼び出していると察して秋田は慌てて部屋を飛び出していく。
「よく考えておきたまえ」とアリスに一言を残して…。

 バタン…と扉が閉じるのと、ガシャっと荒々しく受話器が置かれるのと…どちらが早かったのか、さだかではないが。
「馬鹿野郎…」
 忌々しげに呟く火村の声が、しんとした部屋に響く。
 つかつか…ちがづいてくる足跡。
「……いい加減に立てよ」 
 不機嫌なままの声が、頭上から降ってくる。
「…どうして…火村……」
 呟いたアリスの声が届いたかどうかはわからない。
 ただ、見上げたアリスの視線を受け止めたそれは、声と同じく冷ややかで…。
 アリスは言葉を失ってしまう。
「…あ……」
 ありがとう…と言いたかったけれど。
 やはり火村を前にすると、こうなってしまう…。言葉が…出ない。
「…邪魔、だったのか?」
 ぶるぶると首を振る。
「…じゃあ、どうして…逃げない? …あいつに何をされた?」
 怒りに満ちた腕に突然引き寄せられる。
「言えよ、アリス! 何されたって?」
「…な…な…」
 何もない。
 何も、されてないっ!
 心の中で精一杯叫んでる。
 でも、どうしても…声にならなくて……。
 震えながら、かぶりを降り続けるアリスの頬に冷たいものが伝う。
「…何…なんで泣くんだよ? アリス…?」
 違う…違う…と思うほど…嗚咽が激しくなってしまうアリスをどう誤解したのか。
「全部…消してやるっ」
「うっ……」
 荒々しく重ねられた口づけは…涙の味がした。
 

 
 
 

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