ある夏の日
 真夏の炎天下。
 あまりの暑さに子どもたちの姿も見えない。嫌でも聞こえてくるセミの声だけが異様に元気で、なんだか腹が立ってくる。
 そんな中、火村は相変わらずの黒いシャツで歩いている。さすがにジャケットは着ていられずに手持ちだったが。でも、実際は黒で日光を吸収するよりもジャケットを着たほうがまだましなのかもしれない。それはさておき‥。

 今、火村は夕陽が丘の有栖川宅に行く所だった。
 目的は納涼。
 実はこのスイッチひとつで何でも出来ようか…という世の中で過ごしながら、なんと助教授の部屋にはクーラーがない。扇風機と団扇が夏の友である。けちっているわけではなく、家にいる時間が限られているからだ(と本人は主張する)。夏休みになってもたいがいは冷暖房完備の大学で生活しているので、それで十分だと。
 だがさすがにお盆になると大学も閉鎖状態になる。その間だけでも大家のばあちゃんの部屋に逃げ込もうとしたところ、明日から孫が遊びに来ると言われては行き先は一つしかない。

 とはいえ時期が時期だ。
 居るのだろうか。
 8月は珍しく東京と大阪を三往復もするのだ、と聞いている。それでなくても自分と違って帰省先もある身だ。多忙な有栖の予定を確認するため電話を入れたのが朝十時。
『もしもし、有栖川ですが』
 眠そうな声。
「起こしたか?」
『…なんや、火村か。ちゃんと起きてるで。昨日の夜からずーっと』
 そっけない恋人の言葉はいつものこと。
 でも、なんとなくいつもと違う。機嫌がよくないようだ。寝てないせいか?締切り前でいらついているのかもしれない。
「‥大変そうだな」
『そうでもないけど。いろいろと‥な』
 言葉を濁すように呟くと、思い直したように明るい声が聞こえる。
『で、なんやねん。こんな早くに君から電話言うたらなんか事件か?』
「そんなに世の中犯罪者だらけでもないようだが」と件の用件を切り出す。
 最も最初は「ゴージャスに避暑にでも行くか」と言ってみたが『あほらし。今からで行けるとこなんか無いやろ』と冷たく一笑された。
 冗談だ、と告げるにはあまりに素っ気ない言い分に腹が立ったからへりくつで切り返す。
「わざわざ出かけなくても冷房の入ったとこならどこでも避暑だろうが…」と。
 すると『そんなん…涼みたかったらうちに来たらいいやんか』とありがたい言葉が戻ってきたので渡りに船とばかりに出向いて来た訳だ。

 勝手知ったる有栖の家。
 呼び鈴など鳴らさない。カギが閉まっていても合鍵は持っている。
「じゃましにきたぞ」
 一声かけて靴を脱ぐが、応答がない。
 仕事に没頭しているのかと部屋を覗いても気配がない。くしゃくしゃのメモが散乱しているだけ。
 どうやらかなり煮詰まっているらしい…。
 気分転換でもしに行ったか、としばらくは、ソファーの定位置でくつろいでいたが、さすがに一時間を過ぎるとなんだか落ち着かない。
 時間が経つのが遅い。時計の音だけが大きい。

 大体、おかしいじゃないか…。
 自分が来るとわかっていてアリスが部屋を開けるなんて。うぬぼれでも過信でもなくそれは歴然たるこれまでの事実。
 突然ならいざ知らず、例え真夜中であろうと『君が来るって言うたから…』と起きている奴だ。
 ましてや昼時。今朝の電話でもわざわざ確認していた。
『今から電車で出るんやな。そしたら、ちょうど昼ごろやな、こっちに着くのは‥』
 それは昼の催促か、と笑うとコンビニのざるそばが待ってるからいらん、と言われた。
 思い立って冷蔵庫をのぞくと、それも残ったまま。
 昼も食べずにこの炎天下の中、どこへいくだろう?
 朝の電話に感じたちょっとした違和感。
 前に会ったのは三週間も前。それも現場でたくさんの警察のお歴々と共に事件を論じ合った時だ。以来、都合があわずにもっぱら電話の応酬になっていた。が、今日ほどの不機嫌は一度もなかった。
 気になり出すと、あれもこれもと気になる。
 もう一度、仕事部屋に立ち戻る。
 散らばった紙くずを拾い集める。くしゃくしゃのそれらを丁寧に開いてみる。殴り書きのプロットらしきもの。トリックを考えていたような図面の跡。断片的な言葉の数々…。
 読み終わった紙くずをごみ箱に入れていく。
 ふと、その中の別の紙切れを火村は拾い上げた。
 アリスの字じゃないそれは有栖川有栖宛ての葉書き。読み終えた火村はそれにくわえていたキャメルの火を近付ける。
「アリス…」
 灰皿の中で黒焦げになっていく紙を見届けて、火村は部屋を出た。

  ▼▲★◆

 こちらも真夏の炎天下。
 ペンギンがうだっている。白くまがぴくりともしない。そんな中でも元気いっぱいに動き回るサル達を見つめてアリスは何度目かの溜息をつく。
「いいよなぁ。お前たちは…何の悩みもなさそうやし」
 所は天王寺動物園。サル山の前のベンチ。
 もう2時間ばかりここにいるだろうか。急に家を出たせいで、時計を持ってくるのも忘れた。
 多分、火村は今頃部屋に来てるだろう。
「このまま帰らんわけにもいかへんし」
 財布は持って出たものの入園料を払うのに崩した千円札しか入っていなかったのだから、どこかで一晩というわけにもいかない。この辺でよく見かけるそこらで野宿…という人々と一緒になるのはちょっと身の危険を感じる。
「どないしょう‥」
 逢いたくないわけじゃない。
 むしろ、逢いたくてたまらない。
 もし昨日までに連絡があったらいつもと同じで火村を待って、何か作ってくれ…と甘えたい放題でいるだろう。でも今は、逢ったら泣いてしまう。情けない程に取り乱してすがってしまう。

『早く孫の顔を見せなさい』
 昨日届いた葉書。今年も帰らないと送った手紙の返信に添えられた両親の言葉。悪意がないのがわかっているからこそ余計にその一言が棘になる。
「でもなぁ。俺は子供なんて産めへんねんし‥」
 別に火村と違って女嫌いでもないし、恋愛観からすると極めて常識的である自分だけれど、結婚の文字が実感出来ないのは火村との時間のためだ。
 火村といる時間はものすごく充たされている。
その幸福に浸っていると全て忘れられる。幸せを実感できる。この幸福に比べられるものなどない、と胸を張って言える。
 無論、世間の常識では自分達の関係はおかしいのだろう。偏見が無くなってきた時代といってもまだまだ男同士の恋愛を諸手を挙げて歓迎してくれるような社会じゃない。いや、別に社会なんてどうでもいいけれど親が相手だから苦しい。
「でも仕方ないやんなぁ。火村がええんやから」
 どうにも出来ない。思えば思うほど火村が恋しくなる。
 それでええやんか。
 割り切ったつもりで、仕事に立ち向かおうとしてもいつのまにか火村が浮かんで‥。一睡も出来ないままに一晩が過ぎていた。
 見透かしたようにかかってきた今朝の電話。
 おかしくなかったろうか。普段の自分通りに振る舞ったつもりやったけど‥。
 大丈夫‥ちゃんと言えてる。火村に会ってもいつもの自分で居てられる。そう思いながらも昼が近付くにつれて恐くなった。こんなに混乱した自分を曝け出したくない。だから、逃げ出してきた。
「怒ってるやろか‥火村」
 逢いたい、けど‥逢うのが恐い。でもやっぱり。
「あいたいなぁ‥」

「アリス」
 呟きに答えるように火村の声がした。
「火‥村…」
 一瞬、幻かとも思ったが隣に腰を下ろした重量感は確かに実体。
「なんでわかったん?」
「有栖川先生の行動パターンぐらいよめてるさ。行き詰まったらここにきて、サルを見るんだろ」
 声もなくうなづくアリスの頭に触れる手も本物。
「このくそ暑いのに、余計に頭焼けるだろう」
「でも、ここ木の影やから結構涼しいんやで。それに夏でも黒のシャツ着てる君に言われたないわ」
 からかうような口調につられてアリスからもいつもの軽口が出た。
「ほっとけ、個人の自由だ…」
「それで‥気はすんだのか?」
 二本目の煙草に火をつけて火村が尋ねる。
「…うん。まぁ、悩んでもしゃあないし。もう、いいわ」
 さっぱりした口調のアリスに火村はようやく安堵する。
「そうか…。あぁそうだ。アリス。ここに来る前に葉書を一枚燃やしてきたぞ」
 さり気ない一言。
「…知ってたんか…」
「悪かったな。おふくろさんのだろ」
「うん。でも…いいわ。君がおったらそれでいい」
 はにかみながらアリスが笑う。つられて火村も静かな笑みをこぼす。
「そうか。じゃあ、そろそろ戻って二人の時間を過ごそうか」
「…あほか!」といいながら、それも悪くないとアリスは思う。
 でもその前に。
「火村。それより、悩んだらお腹すいてん」

 盛大に吹き出した助教授に負けまいとサルが鳴き、蝉も鳴く盛夏の一ページだった。


懐かしい…3年前の原稿です。
丁度今の頃の話だったので、ひっぱり出してみました。