夏の夜のユメ

 夏のうだるような暑さとはよく言ったものだと思うけれど、今年の暑さ異常としかいいようがない。
「で、こんな時にクーラーが壊れたと…」
「そうやねん。電気屋さんに連絡してもすぐには治らんって言われたし、しゃあないやん。だから…避難させて!」
「そりゃ、いいけど。お前、原稿抱えてるんじゃないのか」
 先週は煮詰まったと言っては電話をかけて来ていたが、ここ数日ぱたっと止まっていたから、余程切羽詰っているのだと思っていたのだ。
こっちは、せっかくの夏休みだってのに…とぶつぶつ言いながらアリスの手が開く日を今か今かと待っていたのに、原稿持ちで来るとは…。
「うん。だからさ…この机だけ貸してくれたらいいから」
「あぁ、まぁ」と渋る様子の火村にアリスは手を合わせる。
「あと、電気をちょっと」
「そりゃそうだな」
「…何か火村、文句あるみたいやなぁ」
「ないよ、ない…。全くない。どうぞゆっくり原稿してくれ」
「ありがとう。そしたら借りるな」
 いそいそとテーブルに陣取ってアリスはワープロを開く。今時ワープロと言うのも何だかな…と思うのだがPCには魔物が住んでいるから原稿が益々遅れるとか…洒落にならない事を言ってのけるミステリー作家殿なので仕方がない。
「ま、頑張れよ。俺、ちょっと出かけてくる」
「あ、そうなん。行ってらっしゃい!」
 ひらひらと手を振る声に見送られて、くそ暑い日中に外に出た。
 玄関を開けただけで歩くのは自殺行為と、ぼろベンツに駆け込んだ。ちょっと効きが悪い事が一応これならクーラーもあるし…と思って乗りこんでは見たものの、元がサウナだから中々冷える気配がない。
「仕方ないなぁ。学校でも行くか」
車が止めれてただで涼めそうな場所といえばそこくらいしか思いつかない。
図書館で本を漁ってもいいがどうせ途中で睡魔に襲われるのがおちだ。
この所眠りが浅いらしいから。あんなところで寝て寝言でも行ったら洒落にならない。
危険だから。何を言いだすかわかったもんじゃない。
 絶対に夢を見る。ここ数日続いているその夢…。
 実はさっき、アリスが訪ねて来た瞬間思いっきり引いた反応をしたのには、わけがある。それはまるで昨日までの夢、そのものだったから。
 クーラーが壊れて仕事が出来ないとアリスがふいに訪ねてくる。
修羅場だとかりかりペンを走らす(…とこの辺りが現実味の無い所だけれど)アリスの傍でぼーっと本を読んだり、じゃれて来た猫たちの相手をしていたのだが、だんだん飽きてしまった自分はちらちらとアリスを見る。うーんと思案に耽る顔も、肩がこったのかくいくいっと首を曲げる仕草も可愛い。でも、普段の自分の前とは違う真面目な横顔は怜悧で。…自分の知らないアリスが居るように思えるのが嫌で、…つい、ちょっかいを出してしまう。
『こら、あかんって。まじにこれ、瀬戸際なんやから…』
 振り払うアリスの腕が邪魔で、その手首を握りとる。
『ちょっ…火村っ!』
 ぺろりと舐めたうなじ。クーラーに冷やされた素肌はひんやりしていて気持ちいい。
『あかんって、そんなんしたら絶交やでーー』
 絶交って…。そんなレベルの付きあいか? 俺たちは。
 思わずおかしくなって笑みはこぼれる。
『嫌なんだよ。俺のこと見ないアリスがいるなんてのは…』
 耳元で囁くと身を捩りながら抵抗している。
『何をあほな事言って…。ちょっ…』
 でも、抵抗されればされるほど相手が燃えるってのがわかってないらしい。長いつき合いだというのに完全な学習不足だ。
 だから、嫌だ、止めてっ…なんて言葉なんて効く耳を持たずに。有無を言わさずに…って感じで最後の最後まで…。思う存分むしゃぶり尽くす。ま、その辺りはいつもの事だといやぁそれまでだが。
 問題はその後だ。その結果の産物として…。
 アリスは熱を出してまる二日寝こんで、大事な原稿を落としてしまった。無論、それはプロの作家としてのアリスにとっては許せない事だったらしくて口も聞いてもらえないと言った状態で。ホテルでも泊まるからと家を出て行ったきり行方が掴めなくなってしまった。
 そして──。
 火村の夢はそこで止まっていたのだ。
 ありがちでやばいな…なんて思っていた矢先のアリスの来訪だ。それも理由が全く同じとなれば正夢ではなかろうか…と火村が思ったとしてもおかしくはない。だから、逃げ出したのだ。
 
 ふぅ…。研究室に駈け込んで一服する。
「…全く。こんなタイミングでくるなよな、あいつも…」
 万が一、こんなものを正夢にしてしまったら…絶対にやばい。現実にあんな事をやらかしたら、一体その先はどうなるんだろう?
 でも、やりかねないとわかっている。アリスが傍にいたら触れたいのは当然だ。確かめたい、欲しいと募る異常な程のこの愛情。醒めない熱とは正にこの事。愛しているなんて言葉が軽く思えてしまうほど。
まいっている。ぞっこんだ。十年以上一緒にいてこれだ。
 最初に見た瞬間からヤバイとは思った。こいつにはまると思った。恋とか愛とかなんて縁のない自分だと思っていたけど完璧に参った。だから、口説き落とした、というよりは半ば強引に押しつけたこの愛情を受け止めて尚余りあるものをくれたアリスを大事にしたいと思うけど。欲望にセーブがきかないのも事実で…。
「…飛んで火に入る何とやらって感じで来るのが悪いよなぁ」
 一体何日アリスに触れてないんだろう。
夢でどんなに美味しい思いをしたところで現実の自分ではない。そんなもんで満足できるわけがないではないか! この俺が!
 ぶつぶつと文句を言っている間にクーラーが効いてきたらしい。
 ここで寝ても続き見るかな…なんて思いながら、火村はソファに座ったまま睡魔の餌食になっていった。

『やっぱり居てたから…。うん、でも寝てるし…。又の機会って事で…』 
ん? 何の声だ?
『え。いいえ。こちらこそ…ありがとう。はーい、また』
「…アリス?」
 それは間違いなくアリスの声で。もしかして、夢の続きか?
 ぼぅっと目覚めていく瞬間。…いつのまにか辺りは真っ暗になっていたらしい。
「あ、火村。起きたん? なんや、タイミング悪かったな」
「どこ行ってたんだ?」
 がばっと起きて月明かりに浮かぶシルエットを引き寄せる。実体だ!
「ちょっ…どうしたん?」
「だって、アリス、急に居なくなるから」
「は? 何言うてんの? 夢でも見てた? 寝ぼけてるんか? 火村の方やんか、昼間出てったきり戻って来いへんから探しに来たのに」
「え? 昼間…あ、お前原稿」
「終わったよ。で、片桐さんが取りに来てくれて、ついでに食事って話で火村も一緒にって待ってくれててんけど。君がいつまでも帰って来いへんから見当つけて見に来たんや」
「…俺を…探して?」
「うん。でも、火村ぐっすり寝てたし…。ま、いっかーと思って、片桐さんには悪いけど食事はキャンセルしてもうたの。でもなぁ…その途端に起きるんやもん。もしかして…狸寝入りやったとか?」
 くすくすと笑いだした唇をそっと塞ぐ。
「…そうかもなぁ。早く二人になりたかったから…」
「実は…俺もやねん…早く自由な時間が欲しくて…火村の顔見た途端に原稿すらすら書けてもうた……」
「嬉しがらせて…。いいのかな? 調子に乗るぞ」
 覗きこむ火村の熱い視線の中でアリスは静かに目を閉じる。
「…鍵かけたもん…」なんて一言を囁きながら───