小川君の憂鬱
「おはよう、小川君」
年明けの初出勤。
つかの間の休みを旅行に費やした火村先生はとても不機嫌そうに姿を現した。
「おはようございます。今年もよろしくお願いします」
その様子にどきどきしながら返事を返すと、ソファにどさっと腰を下ろして鷹揚に先生は頷いた。
「あぁ、よろしく」
おざなりにそう言うと、しゅっとライターの火を灯し、むすっとしたまま先生は明後日の方向を向いてしまっている。
おかしい…。
いや、違う。怖い、だ。
年末はあんなにご機嫌に研究室を出て行った先生だったのに?
火村先生の助手になって、既に3年。その前の三島研究室に居た頃から合わせて、かれこれ五年ほどのつきあいにはなるわけだが、これ程感情を顕わにする火村などあまり見かけない。…いや、見せない…というのか…。火村先生といえば、沈着冷静。ジョークが通じないような堅物というのとは違うけれど、何事においても冷静で自分を見せない人だと小川は思っていた。体調が悪くても教壇に立てば淡々と講義をこなす。意見の合わないものには辛らつな言葉も言うけれど声を荒げるような事はない。大学という世界の中の摩訶不思議な権力闘争の中にいて、好き嫌いははっきりしているくせに表には出さない。
いや、待て。違う…。
先生の機嫌を左右する事がただ一つある。
それは『有栖川有栖』さんという存在。
学生時代からの親友だという二人は今でも変わらない友情を育んでいる。
ふいに有栖川さんが訪ねて来た時の先生はポーカーフェイスを気取り『何だ、アリス? こんな時間に…。そんなに暇なのか?』とかなんとか言いながらも口調が違っている。
『いいや、おかげさまで忙しいんやけどちょっと出来た貴重な時間を割いてわざわざ来てやったのに…友達がいのない奴やなぁ』なんて平然と返す有栖川さんはそんな先生のをよくわかっているようで、気にもかけずに優しい笑みを向けるのだ。
ケンカしたのかな…?
だとしたら…珍しいこともあるもんだ。少なくとも小川の知る限り二人が仲たがいした事などない。…というか、例えあったとしても火村がそれを職場に持ち込むことなんてなかったのに…。
よほどの大喧嘩でもしたのだろうか?
うーん。
自分が悩んだ所で仕方ないけれど。
「先生、まだ時間あるようでしたら、コーヒーでも入れましょうか?」
その場の何とも重い空気~逃げ出したくて、席を立つ。その後、形式だけの新年のあいさつをと入試関連の打ち合わせがあるから火村が長くはここにいないと知っていても、その半時間ばかりすら耐えがたい雰囲気だったのだ。
「あぁ、そうだな…」
どこかしら上の空で応える火村は少し落ち着きを取り戻してはいるようだが…。
「じゃ、急いでいれます」と窓際のコーヒーカップに手を伸ばし、小川は『あ』と小さく声をあげた。
「どうかしたか?」
「いえあの…先生、すいません。年末に粉、切らしてたの思い出しました。ちょっとコンビニに行ってきます」
「え、いいよ。お茶でも」
「いえ、すぐですから…」
引き止める返事も聞かずに小川は部屋を出る。
だって…。
きっと自分がいたら邪魔だろう。
あれだけまっしぐらに有栖川さんが走ってくるんだから。きっと何かあったに違いないんだから。
階段を下りると出会ってしまうだろうから…一旦上に上がって回避しておこう…と階段を上る。
案の定、そんな自分に気づく事なく有栖川さんは部屋に飛び込んでいく。
「火村! ごめん! でも、誤解やで!」
「アリス…」
バタンと締まったドアの向こうでどんな会話がなされているかわからないけれど。
しばらくは買出しに行ってこよう。会議に遅れないくらいに…戻ってくればいいよな。コーヒーはあるから、有栖 さんにクッキーでも買ってこようかな…。
火村先生の助手はとっても優秀なのであった(笑)
Moon Notesの話では度々登場する小川君(笑) 火村の研究室で助手をしてる人ってことでオリキャラさんなんだけど。実は私のお気に入りです。多分、片桐さんあたりと気が合う性格なんじゃないかなーと密かに思ってます(爆) |