風邪を引き込んだ所為で押してしまった締切のために延び延びになっていた今年の花見を実現しようとアリスが京都に出向いたのはうららかな春の日のこと。
 大学で落ち合って散歩がてら歩く道筋。満開の桜が連なる加茂川の畔に二人は腰を下ろした。
「よかった。満開のうちに来れて」
「がんばったな。かなり無理したんじゃないのか」
「まぁなぁ。風邪さえひかなきゃ順調なはずやったんやけど。火村にもたくさん迷惑かけてごめんな」
 その風邪のせいで、火村の春休みはほとんどアリスの看病に潰れてしまっている。
「何言ってんだ、お互い様だろ。ま、とにかく元気になったし、原稿もあがったし、万事順調で何よりだ」
「ありがとう。全くしつこい風邪やった…わぁっ…」
 話しだしたアリスを遮るように吹いた風に見事な花吹雪が舞う。
「すごいなぁ…」
 思わず話を忘れて感嘆の声を上げたアリスに火村はくくっと笑う。
「何? 何か変?」
「いや、別に」と言いながらもなおも笑っている火村をアリスは軽く肘でつついた。
「何やねん。にやにやして…いやらしいなぁ」
 ちょっと口を尖らせて見せるそんな仕草に更に込み上げる笑いを懸命に圧し殺して火村は答える。
「だってお前、毎年毎年同じリアクション繰り返してるからさぁ」
「そうやった? え、でも、去年は来てへんやんか」
「ここにはな。でもほら。六甲に夜桜見に行っただろう。あの時もそういってぽかんと口開けて見てたぞ」
「そうやったっけ? 憶えてないわ、そんなん」
「ふーん。そりゃ、残念だな。俺はよく憶えてるけど」
「それは、よっぽど火村の記憶力がいいって事やん。普通は自分がどんな事言うたかなんて全部憶えてられへんもんやで」
「わかってないなぁ」
「はぁ?」 
 脈略のない会話にけげんそうな面持ちで隣を見ると、その視線に急に真面目な顔で火村は答えた。
「俺だって自分の事なら絶対に忘れてるよ。ただ、アリスの事だから忘れられないのさ」
「俺の事?」
「そう、桜を見上げるお前がすごく綺麗だったって事」
「な、何言ってんねん」
 ふいっと視線を逸らしつつも色付く頬に追い打ちをかけるように火村は囁く。
「桜よりアリスに見惚れてた」
「…アホな事、言わんときって」
「本当だって。その唇を奪いたいって想いながらじっと見てたんだぜ、あの時」
 更に耳元に囁かれて思わず抗議する。内容も内容だけどそれ以上にこんな明るい中で男が二人ひそひそしているのなんて尋常じゃない。遠い異国ならまだしも、ここは京都、いわば火村のテリトリーではないか!
「ちょっ…火村! 離れてっ」
 そんな思いすら遮って、火村はお構いなしに言葉を続ける。
「桜を見上げた顎のラインがすごく艶やかでさ。月明かりに映える首筋に跡を残したくってうずうずしてた」
「いいかげんに…うわっ!」
 そればかりか、つつっと寄ってきた指が太ももに微かに触れる。
「やめっ…」
 それだけで電流が走ったような衝撃にアリスは思わず立ち上がった。
「どうした?」
 思い出した!
 去年はそれで終わらなかったって事。うずうずしたその思いを火村はしっかりちゃっかり昇華させたじゃないか! 無論、あの時は車だったから。帰り道の路肩での出来事だったけど。外からは見えないとわかっていてもたまに通り過ぎるヘッドライトにどれだけ怯え、懸命に火村に解放をねだった事か…!
「か、帰る!」
「何で? まだ来たばっかりじゃないか」
 まるでさっきまでのセクハラ親父ぶりはどこへやらといった感じで火村は問い返す。
「火村が悪いんやんか!」
「…何かしたっけ?」
「知らん!」
 ぷりぷりと怒りのオーラを発散させながらすたすたと歩きだしたアリスに火村は悠然と追い付く。
「何だよ、せっかく人が楽しんでるのに」
「楽しくない!」
「そうか? 綺麗なものに触れて…いい感じだったんだけどなぁ」
 ぴたっ。突然に立ち止まったアリスはくるりと振り向いた。
「来年は絶対花見なんてせえへんからな!」
「ほぉ…」
 実はそのセリフは去年も聞いた。
 だから今年は何も言わなかったのに『恒例の花見に行けない』と言い続けていたのはアリスだ。
「ってことは…今年で見納めか。残念だなぁ」
 わざとらしく呟く言葉も実は去年と一緒なのだけど。
「…す、少なくとも近場は絶対に!」
 吐き捨てるように言い残したアリスに火村は大いに爆笑する。
「何やねん!」
「思い出したんだ、去年の事」
「うるさいっ!」
「大丈夫だって今年はちゃんと帰ってからするからさ」
 またまた真っ赤になる恋人に火村は宣言した。
「そんな問題か!」なんてアリスの抗議は、当然その後実力行使で却下されたのだった。