シュラバなふたり

「2時…か」
 吐き出す煙と共に呟いたその声だけが、奇妙に響く真夜中。
 そういえば時折聞こえていたキータッチの音も止まっている。
「終わったかな…」
 読みかけの本を伏せ立ち上がると、勝手知ったる人様の家の台所で2杯分のコーヒーを用意する。

 ノックもせずにそっと扉を開けてみる。
 突っ伏した後ろ姿は、どうみても夢の世界の住人。
「アリス?」
 スクリーンセーバーが働いているワープロを見ると、睡魔に捕われてからそれなりの時が経っているのだろう。
「おやおや…。終わったらちゃんと寝ないと風邪ひいちまうぞ…」
 資料や何やで雑然とした周辺に隙間を作りトレイを置いてから、火村はそっと呼び掛ける。
「アリス…」
 ぴくりともしない背中に近付いて、耳元でもう一度。
「アリス?」
「え…」
 肩越しの気配にびっくりしたように目を開けて、瞬きを数回。
「あ…れ? 火村? もう、朝ぁ?」
「いや、日付は変わったけどまだ夜だよ」
「まだ…よる……」
 夢と現実を行きつ戻りつのトロンとした瞳。誘っているとしか思えないその顔にそっと唇を寄せる。
「ん…寝てた、俺」
 掠めるだけのキスでも現実感はあったらしい。ようやく言葉が出てきた。
「あぁ、すやすやと。コーヒー入れたけどどうする? 寝るなら飲まない方がいいし、終わったならちゃんと」
「あかんねん! まだやもん!」
 突然、大声で遮られて驚いたのは今度は火村の方。「何だよ、急に」と耳を押さえながら唇を寄せていた頬から撤退する。
 そんな非難に耳も貸さず、慌ててワープロのキーを押すアリス。
「コーヒー欲しい。起こしてくれて助かったわ。うわぁ、何分ロスしたんやろ…。もうちょっとやねんで…」
 どうやら愛しの推理小説家は、まだまだお仕事らしい。 
「…ほれ」
 溜息混じりに差し出したカップを片手に視線は既に液晶画面に釘づけになっている。
「ありがとう」
 コトン。空になったカップを置く音が合図だったように、カチャカチャとせわしなく動きだした指をしばらくは見つめていた火村だったがやがて静かに立ち上がる。
「無理するなよ」
 呟くようにかけた声に、一瞬音がとまった。
「火村」
「ん? なんだ?」
 振り向いた瞳がいたずらっぽく笑っている。
「もうちょっとエネルギー足してってくれへん? コーヒーだけじゃ足りへんみたいや」
 言いながら指差す先は、唇。
「お望みのままに…」
 そっと目を閉じたアリスの唇を火村はそっと塞ぐ。アリスの創作の泉に注ぎ込めるよう、やさしく。満足のいくものが生み出せるよう激励の気持ちを込めて。
「ありがと…」
 やわらかい微笑みを交わしながら離れる二人。名残りは惜しいが。
「はいはい、残りは終わってからたっぷりと…な」
「期待してるわ、センセイ。じゃ」
「あぁ、がんばれ」
 さて、残り少し…。想像の世界へ戻ったアリスを扉の向こうに残し、火村もまた本の世界へと戻っていった。

このお話はずっと以前に友達の修羅場中に激励FAXとして送ったものでした。
今回、書きかけや未発表ってファイルから発掘してみました。


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