‡二回生・冬U…つづき
クリスマスが終わると町は途端にせわしない。
大掃除に、買い出しに、門松にしめ飾り…。挙げ句の果ては、おせち料理の手伝いも仰せ使っての大活躍を終えた火村の部屋に来て、ばあちゃんはポチ袋を手渡した。
「何? これ」
「大事な孫に一足先にお年玉。遠慮無く受け取りなさい。…そして、ごめんなさい。今年はあちらで正月させてもらいます。何かの時にはおせちはあるし、お雑煮の作り方ももう大丈夫。篠宮家直伝の味、自信を持ってお客さまに出してね」
「ばあちゃん…」
本当は火村にも一緒に娘の家に来るかとまで言ってくれたのだ。この暖かい人は。
「それとこれは初詣用の着物。うちの人のお古やけど綺麗なままやし。よかったら着てちょうだい。二枚置いておくから有栖川さんにも着せてあげてね」
それはない…と思いながら、火村はうなづいた。
「ありがとう。ばあちゃんも。気をつけて行くんだよ。ウリとしっかり留守番してるから」
日めくりのカレンダーがあと二枚になっていた。
翌日。さすがに何日かの肉体労働の疲れが出たのか、目が覚めてからも布団を出る気にもならずにいた。昼頃、ウリにご飯をやって、誰もいないことを幸いとばかりに再び布団に潜り込む。そのままうとうととしてしまったのだろう。
どこかで何かが鳴っていると意識を呼び起こせば家の呼び鈴の音。慌てて階段を降りる。『今開けます』と大慌てでねじ鍵をはずし玄関を開けると、そこには。
「‥は‥初詣行くって約束やったやろ」
白い息を吐き出すアリスがいる。
「ちょっと早すぎたわ。‥上るよ。いいか?」
返す言葉もなくたたずんでいる火村の脇を擦り抜けるようにアリスは家のなかに入って来た。
「こんにちわ〜」
大きな声で言うのは多分ばあちゃんへのあいさつなのだろうが。
「ばあちゃんだったらいないよ。娘さんの家で正月しに出掛けた」
「そう‥なんか」
後ろからでもアリスの迷いがわかる。ばあちゃんがいれば、俺も何もしないとでも思ってここまできたのだろう。
「あぁ。だから、帰るんだったら今のうちだ」と、決断を求めたその時。開いたままの玄関に駆け込んできた小さな影。どこからか外に出てたやんちゃ坊主の御帰還だ。
「おっと‥こら、ウリ」
泥だらけの足では飼い主を怒らせるとわかっているのか、客人の下にミャウ‥とすりよる。
「あぁ、ウリ。元気だったか。こら、そんな足であがったら叱られるやんか。足ふいてっと‥」
アリスはそばにあったボロ布で手早く子猫の足の汚れをふきとり、そっと抱きしめる。
「これでよし。じゃ‥一緒に‥‥部屋まで行こな」
明らかにそれは、火村に向けられた言葉。
「アリス?」
呼び掛ける声には答えずにさっさと靴を脱ぐと
「火村。何かあったかいもん欲しい。冷えたわ」
振り向きもせずに階段を上がりながら、アリスはそういった。二、三秒後。ようやく我に返った火村は玄関を閉め、鍵をかけながら毒突く。
「知らねぇぞ‥。俺の気持ちを知って避けてたくせして。全く…」
内容とは裏腹に、安堵のため息がこぼれた。
ココアを片手に部屋にいくと、こたつで一人と一匹がくつろいでいた。
「ストーブとこたつつけたで。ようこんな寒いとこで寝てるわ。もう夕方やのに」
起きてた、と否定しようにも寝乱れた布団と温まっていないこたつでは説得力がない。
「目は開いてたさ。ほれ。暖まるぞ」
マグカップにおずおずと手を差し出す。
「ありがと」
それきり沈黙。心臓の音まで聞こえそうな静けさにお互いが妙に緊張しているのがわかる。それを隠すように火村はキャメルをアリスはココアを口にする。先に底をついたのはココアの方。
ゴクン…と飲み干して、カップをおくと、アリスが話しだす。
「どこ、行こう?」
「え?」
「初詣。…ちゃんと除夜の鐘聞きながら、年越しそば食べて行こうな。あの角のとこのおそば屋さんでもいいし。その後、どこ行きたい?」
「別にどこでも…任せる」
「ちゃんと希望言いや。平安神宮でもええんか?火村の苦手なお決まりパターンになるで」
会話が出来ることで、なんとなく落ち着きが戻ってくる。
「いいよ。どこでも。でもどうせお決まりにするんだったらまず服から変えたらどうだ」
「服?」
「あぁ、これ。ばあちゃんが初詣用にって着物を置いていってくれてるんだ。二人分な」と、こたつの脇に置いてあった包みを開けると和服独特の匂いがする。覗き込んだアリスに「着てみるか?」と尋ねるとコクンとうなづく。
「あ、でも俺。着物の着方なんて知らんわ」
「日本人のくせして」
「火村かて、そうちゃうん」
「俺は一年間。この家でみっちり修業したからな」
「ホンマに?」
「ばあちゃんの趣味でね。ほら、着せてやるよ。さっさとボタンはずして…」
言葉に出してようやく気づく。そうか。着がえるって事はつまり一度は脱ぐって事で…。
「最初にこっちの肌じゅばん、上からこれな」と慌てて着物を押しつける。
「…えぇ? わからへんって」などといいながらもシャツを脱ぎ去る音が。ベルトを外す音が。視てない分、逆に艶かしいと思ってしまう感覚の不思議。たかが数分の異様な長さ。
「…火村。こんなんでいいんか?」
近寄ってきたアリスのルーズな着方がなんとも目の毒で、答える声が震える。
「…残念ながら、合わせが逆だな」
「そうやったっけ?」と小首をかしげ、右前、左前と襟元をいじったかと思うと最後にはまるで幼子がするように両手を広げて言ってのけてくれる。
「だから知らんねんから、ちゃんと着せてや」
どこまで男心を試す気なのか‥。
深い溜息をこぼして、火村は立ちあがった。
「すごいなぁ。ホンマに出来るんやな‥」
帯を絞めるために後に回った火村にアリスが感心したように言う。
「男ものだけはな。女のはわからん。ばあちゃんに何度言われても憶えられない」
「難しそうやもんな」
「というより必要性がないだろ。女の着付なんか」
「そうやな。‥…そういえば、こないだ読んだ本に書いてた。男が服を送るのは脱がせる楽しみがあるからやねんて。なんとなくわかると思わん?」
「そうか?」
一体何を読んだんだか‥。アリスの乱読は今に始まったことじゃない。活字中毒とでもいうのか‥それは火村も同類だが。
唐突な話題を右から左に流して、うまく形にならない帯をひっぱろうと力を入れた途端、アリスがポツンと呟いた。
「着せるのもそうかな?」
手が止まる。
「…何…?」
「…自分の手でこの着物を解きたいって思う?」
それは明らかに火村への言葉。
「…アリス?」
「火村の愛してるって…そういう意味なん?」
振り向いたはずみに締め切れていない帯がゆるりとたわむ。そんなつもりはない‥と言うにはあまりに魅惑的な光景。
「‥そう…だといったら、どうするんだ」
「わからへん」
聞いておいて何だ‥と責める気にもならない。それはアリスの本心からの言葉。見つめる瞳がそう物語る。悩んだのだと。考えてみたのだと。でも答えが出せないままここまで来てしまった‥と。
「わからへんねん。自分の答え…」
訴えかけるようにすがる瞳を向けられて火村はそっと手をのばす。紅潮した頬が熱い。
「わからへんねん‥。あかんことやのに」
迷いごと引き寄せ、思いを込めてその名を呼ぶ。
「アリス‥アリス‥」
何度も何度も‥繰り返される声にあやされて、アリスが目を閉じる。
「わからへん。けど、逃げへんと思う。俺はズルいから火村のせいやって‥責任全部押しつけて‥」
「そうだな‥‥俺のせいだから」
「あかんって‥わかってるのに‥火村が呼ぶから」
「あぁ、俺が悪い‥」
「‥逃げ‥なあかんのに‥」
「もう黙れ‥」
お前の中の天使のモラルも全部俺が壊すから。
強くよせた肩から紺の絣がすべり落ちていく‥。
後はもう‥思いのままに。
砂漠のスコールのような激しさで、火村はアリスの全てに触れた。
天使を射抜いた瞬間、なだれ込むあの声。
────そのかわりにね。
天使の翼をもぎとっておしまい。
血に染まった羽を渡してちょうだい。 |
────嫌だね! そんな事するものか! あれは汚してはならない者。
鬼か悪魔か知らないがお前に貸す手など俺にはない。 |
────おやまあ‥なんて面白い魂だろう‥。
皆何でもするから殺すなって言うのにね。 |
────死んだら死んだで、それが俺の命だろ。 |
────面白い。返してあげる。お前の世界に。
天使と逢えばいい。その目の前で天使を壊そう。 |
────させない。 |
────するよ。絶対。 |
────守ってみせる。 |
────出来るわけがない。お前が壊すんだから。
|
クスクス‥クスクス‥ |
そうだ。俺は天使を!
守ろう‥と思ったのに。
だから「天使に会う」と言ったのに。
見守っているだけで良かったはずなのに。
自分で壊した!
なんてひどい裏切りを‥。
「アリス!」
手折られた花の様にぐったりと横たわるその体を抱き起こす。自分でも思っていなかった激情をぶつけてしまった痕跡がそこかしこに見える。今ならばこんなに優しく触れられる…。
「守ろうと思ったのに…」
すがりつく火村の目から零れ落ちる涙がアリスの頬に流れる。
「…ん……どう…し…たん? ひむ…ら?」
ようやく意識がもどったアリスがかすれた声で囁く
けれど《クスクス》と頭の中に響く嘲笑に阻まれてその声が届かない。『守りたかったのに…』と繰り返すだけ。ぼんやりとしていたアリスもやがてその様子に異変を感じて「火村、火村」と揺さ振るが身体に力が入らない。らちがあかないと見て、最後にはありったけの力でひっぱたいた。
「火村! ちゃんと俺を見てや!」
我に返った火村はアリスを見る。
「アリス‥俺は?」
「どうしたん? 悪い夢でも見たん?‥いてっ!」ようやく自分を映し出す火村を見てにほっとしたら、身体に残る痛みが甦ってアリスは顔をしかめた。
「どうした!」と慌てる火村を制して、のそのそと布団に潜り込む。
「言わせるな‥。あほ‥。お前の方こそ何やねん。心配料や。ちゃんと話しいや」
すねたようで実は優しく促すアリスの声ににポツポツと火村は語り始める。幼い頃のあの雪の日や、事故の日の夢。忘れたい現実やあいまいな記憶などなど‥。
「そうかぁ。俺って、天使やったんか…」
青い布団から顔をのぞかしたアリスの第一声。
「でもな、火村。俺、翼なんていらんわ。そんなもん鬼にでも悪魔にでもくれてやる。だって俺‥どうせここに、火村の所に戻ってくるんやもん。この足でちゃんと戻れる」
「アリス…」
「それに…天使なんかで居てたら損やんか。これからは、わがまま言っても火村が責任取ってくれるんやろ。火村が嫌になるほど、いっぱい困らしたるわ。悪魔にでもなって‥」
にやっと笑うアリスを布団ごと抱きしめて火村もようやく笑顔を見せた。
「いいさ。アリスなら…天使でも悪魔でも…」
「…後悔するぞー」
「いいよ。なんでも言ってくれ」
遠くに鐘の音が聞こえ始めた。
「あ。除夜の鐘や…。火村。年越そば作って!」
それが悪魔になったアリスの最初のわがままだった。
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