忘れ物 

「…あぁ…しまった!」
 ゆるゆると動き出した新幹線の中声に出さずに呟く。
 行きがけに大慌てしたせいで、すっかり忘れてた。
 きっと着いてから片桐さんと合流したらばたばたして、またどこかに飛んでしまいそうだし。
 気になると本を読むにも気もそぞろ。眠るに眠れないし…。

「…こういうときは…」
 そっと席を立ちデッキで取り出す携帯電話。
「あ、もしもし…火村?」
『どうした? もう新幹線の時間だろ?』
 間髪いれずに帰って来た答えに頬が緩む。
 今日から取材に出かけると話したのは5日ほど前の電話でだったのに、ちゃんと時間まで憶えてくれてる辺り…愛されてるなんて思ってみたりして(笑)
「うん。もう、乗ってんけど。…ちょっと頼みがあって」
『何?』
「ビデオ、予約してくるの忘れてもうてん。悪いけど取っておいてくれへん?」
『そのくらいお安い御用だけど』
「…ほんま? そしたらあさっての七時からのサンテレビ撮っといて」
『サンテレビ?』
 関西ローカルのUHF局の名前を火村は反芻する。
「うん。三十分だけやねんけど、毎回見てるから」
『…そうか。わかった何とかしておくよ』
「ほんま? ありがとう」
『どういたしまして。なら、切るぞ』
「うん」
 言うや否やぶちっと切れた電話。
「…なんや、愛想のない…」とアンテナをひっこめる。
 
 が、しかし……

 席に戻りかけて。
 ふと気付く。
「あああああ!」
 この時間って!
 火村はばりばり仕事中だったんではなかろうか?
「…やばかったかも…」
 
 結局。
 あれこれ思いつつ、本も読めないし寝れないしのまま、アリスの旅は始まったのだった。


忘れ物…その後 

 助手の小川に戸締りをませて、火村は研究室を出た。
「間に合うかな」
 車に乗り込み時計を見て、舌打ちをする。
 あの石頭のせいだ、と先刻やりあった総務課のブルドッグのような親父の顔が浮かんできた。
「けっ…嫌なもの思い出しちまったぜ」
 どうせなら、もっといいものを思い出したいものだ、と取材旅行に出ている恋人へ思いを馳せる。
 おとついの講義中。たまたま小テストを配っていた時にかかって来た電話。
 自由業になってからというもの、独特の生活時間帯に陥りがちだからと勤めて規則正しい生活を目指しているアリスだが、こと自分の事で夢中になると人の都合ってものがすこーんと抜けたりする。
 今回のもそうなんだろう。
 アリスらしいと、そんなところまで可愛いと思うあたり、相変らずいかれてると自分でも思うけど。ま、惚れた弱みだしかたない。
 無論、そのまま何も気付かないってのも困るが、夕方かかってきた謝りの電話での恐縮ぶりが受話器から伝わって来て。
『気にするな。たまたま小テストしてたから取っただけで。熱弁振るってる時にはさすがに気付いてもほっておくし、しつこかったら電源切るからさ』なんて答えてしまったりしている。
 忙しなく煙草を蒸かしながら、苦笑いを浮かべる。
「まじに甘いよなぁ…俺も」
 今だってこうして車を走らせている。
 明日に仕事を残したまま。
 ただアリスの喜ぶ顔が見たいから…っていうだけの理由で、だ。
 いや、もしかすると、喜ぶよりも驚くのかもしれない。
 
 実は最後までアリスが気付いていなかった事がある。
「…うちではサンテレビ、映んねぇんだよなぁ……」
 同じような番組をしているUHFはあるけれど、アリスのお望みの番組の時間は違うプログラムだったから。
 たった30分の為に夕陽丘を目指す自分をけなげだ…なんて自画自賛する火村だった。


帰宅 
 「邪魔するでー」
 なんて言いながら、土産を片手にアリスがドアを開ける。
「お、おかえり」
 丁度風呂上りで何か飲もうと冷蔵庫をあさっていたところだったので、ついでにとビールを差し出す。
「俺、今いいわ。つーかなんか暖かいものの方が、いいなぁ」
 そんな贅沢な事を言う恋人を後ろから圧し掛かるように抱き込む。
「うわっ…重いって…火村」
 突然の出来事に驚いたようにアリスは荷物を落とした。
「でも、この部屋の中で俺が一番暖かいぞ」
 耳元で囁いてやる。
「…そ、そりゃ…」
 暖かいけど、ぞくっとする…違う意味での震え。
「何? 感じた?」
 わざと直接的な言葉を言うと、アリスはますます頬を熱くする。
「ほーら、あったまったろ」
 くすくす。笑いながら腕を緩める。
「もうっ!」
 くるりっ。
 振り向きざまに意地悪な恋人の頬に両手を伸ばす。
「冷てっ!」
 まじに外は寒かったらしい。その指が火照った頬をひんやりと包み込んでいく。
「だから、そう言ってるやん」
 怒ったように尖らせた唇。

 でも、次の瞬間…それはただいまのキスに変わった。

ささやかなしあわせ 

 甘い吐息をたくさん零した後。
 ようやく繋いだ身が放れる。
「…もう…お腹空いてたのに」
 溜息混じりの呟き。
「俺もだぜ。だから先にアリスを頂いたんだよ。ごちそうさん」
 けろりと言われて、毒気が抜けた。
「…ま、いいわ。…でも何か食べたい」
「了解。今、暖めるよ。っていってもご飯と味噌汁しかないけどいいか?」
「何でもいいよ。火村の料理好きやもん。だから、直行してきたんや、ここに」
「それは光栄!」
 にっこりと微笑む頬に軽いキスを送って火村は足取りも軽やかにキッチンへと向かっていった。

 ほんまは嘘。
 …火村の料理が食べたかったってのも勿論あるけど。
 ただ、会いたかったから。
 チケットは新大阪までだった。でも、京都と聞いた瞬間に荷物を下ろしてしまった。
 条件反射のように。
 そして、火村もまた。
 当然のように「おかえり」と向かえてくれる。
「…やっぱ、好きやなぁ」
 この空間が。
 火村の居る場所が。

 じっと見つめていた背中が、くるりと振り向く。
「出来たぞ。おきてこいよ」
 頷いて起き上がる。
「なんだ、本当にお腹空いてたんだな。そんなに嬉しそうな顔して。小学生か、お前は」
 からかうように告げる恋人に。
「ガキに手出したら、あかんやん。先生」なんて、ちょっと憎まれ口を叩きながらも自然と沸き起こる微笑みは止まらなかった。


風呂あがり 

九時を回ったので風呂に入る。
ばあちゃんとの取り決め事項の一つだったりする。
下宿生がたくさん居た頃はみんな風呂屋通いだったけど、今は火村だけだと言うことで九時以降は母屋の風呂が使用可でちゃんと片付けをする約束なのだ。
 ついでに週に一度の風呂掃除も火村の仕事で定着している。
「お先でしたー。火村も入ってきて早く片付けてもうたほうがいいんやろ」
「そうだな。何か飲みたかったら適当にな」
「うん。あ、そうや、この間のテープ、ありがとう。今のうちみとくわ。ごめんな、無理言って」
「テープ?」
「ほら。サンテレビの」
「あぁ、あれか…。今は見れないな」
「え?」
「いや、ここにはないから」
「もしかして誰かに頼んでくれたん?」
「あ…その手があったか…」
 本当に今気がついたといった風に火村は手を打つ。
 アリスはアリスでさっぱりわからんと小首を傾げてしまう。
「ま、家帰ってゆっくり見ろよ」
「家?」
「お前んちのデッキに入ったままだからさ」
「え!わざわざ行ってくれたんか? こっちでやってへんかったん?」
「あぁ、本当にローカル番組みたいでKBS京都では放送してなかったからな」
「ごめん、俺…こっちでもやってるとばっかり…」
 すっかり恐縮しているアリスの暖かい頬に優しい唇が触れる。
「いいんだって。これしきのことでアリスの笑顔が見れるならお安い御用だ。じゃ、風呂入ってくるな」
 ひらひらと手を振って火村は扉を開ける。

「…俺って…愛されてるなぁ」
 風呂でほこほこ。
 愛でほこほこ。
 見も心も満たされて。
 すっかり気持ちよくなったアリスだった。