この佳き日に

「全く…どうしてあいつらときたら、ああも飲み会が好きなのやら…」
 研究室の新刊コンパだと引き止められて渋々と一次会だけは付き合ったものの、それ以後はお後御免とばかりに逃げ出してきた我らが火村助教授である。
 幸いにも下宿まではそう遠くもない…。酔い覚まし〜といってもほとんど飲んではいなかったが〜を兼ねて、少し綻び始めた夜桜を横目にのんびりと歩く道すがら。
「あれ、どうしたん? 遅いやん」
 バス停を通り過ぎたあたりで後ろから呼び止めた声は、もちろん…。
「アリス? お前こそ、どうした? こんなとこで…」
「もちろん、火村に逢いに来たに決まってるやんか」
  にっこり…の笑みと共に差し出されたのはボストンバック。
「ん?何?」
 つい受け取ってしまった火村に『ありがとう』と告げ、アリスはすたすたと歩き出す。
「ちょっ…アリス?」
 それは見慣れた旅行用鞄だ。取材にでも出てたのだろうか?
 おとといの電話ではそんなこと全くいってなかったのに…。
 「ひーむーらー、はよ、帰ろうやぁ!」
 訝しげに立ち止まった火村に、信号で止まったアリスが振り向き手を振っている。
 「ま、いっか…」
 後でゆっくり話は出来るし…。とりあえずは家に戻ることにした。 

 ばあちゃんへのあいさつもそこそこに、二階へあがる。
 部屋に戻ると一服の暇もないうちに、「火村、ちょっとここ座って」と声がかかった。みるとアリスはきちんと正座をしている。
「何だよ、一体…」
 ぶつぶつと呟きながら促されるままに座った火村の前で、突然アリスは三つ指をついて礼をした。
「な、な、何?」
「嫁に来た」
「へっ?」
「ふつつかものですが…どうぞよろしく」
「ってことで、はいっ」と、さっきのバッグから取り出されたのは婚姻届。
「な、何の冗談?」
 戸惑う火村をよそにアリスは平然としている。
「え、まじやで」
 「まじって…」
「いやなん?火村」
「いやとかそういう話じゃなくって、俺たちは男同士だぞ」
「当たり前やん。だから今まで結婚出来へんかったんやろ。あれ? まさか知らんの火村?」
「何を?」
「今日から日本の法律変わってんで。男同士でも結婚できるやん」
「えええっ? うそだろ」
「ほんまやって」
 幾ら世紀末だって、そんなわけあるかよ…と思いつつも、あまりに真剣な目で見つめられてもう一度念をおしてしまう。
「ほんとに本当なのか?」
「もちろん…だから、さっそく荷物まとめてきたんやんか」
 大真面目にうなづくアリス。
「役所にも行って、これもらって…ほらちゃんともう俺の方は書いてあるやろ」
 確かに…。目の前に広げられた紙には既に必要事項が記載されている。
 妻になる人・有栖川有栖と。
「本気で?」
「もちろん…」
 見詰め合うこと数秒…。
 ついにアリスがくすくすと笑い始めた。
「なーんてことになったら面白いやろなぁ…」
 そう言いながらアリスが指差す書類の日付は『4月1日』 。

 悪戯な瞳を向けられて。
「アーリース!」
 ようやくさとった火村は思わずアリスの頭を抱え込んでこずく。
「いてっ…」
「当然だ、全く人をからかいやがって!」
「ごめん、ごめん」
 そのまま腕の中でアリスはしばし笑い続けた後、小さな声で呟いた。
「でも、俺の法律では有効やねんけどなぁ…」
 ぴたり…火村の手も止まる。
「アリス…」         
「日本もそのくらい大らかになったらええやんなぁ。好きな人と生きていけたらそれが一番やねんから。そう思わん?」
「…あぁ、そうだな」
 それは至極まともな言い分だとばかりに和らいだその声に、ふんわりしたくせっ毛の髪が擦り寄るようにもたれかかってくる。
「今日な、うちの親の結婚記念日やってん。面白い日やから覚えてて、ちょっと電話で話してるうちにな、なんか凄く火村に逢いたくなって。で、気づいたら鞄持って、役所行って…ここまできてた…。紙切れなんて関係ないけど…何か残して置けたらいいなって思って…」
 ぽつりぽつり…語られる言葉のけなげな思いに、火村は充たされていく。
「そうだな…よし…書くか」
「え?」
 言うや否や、火村は手を伸ばしペンを取る。
「火村…」
 すらすらすらすら…。
 もたれかかるアリスをそのままに、埋められていく必要事項。
「後は、印鑑だな。なぁ…押しちまうと俺の法律でも有効なんだけどさ。本当にいいのか?」
「いいよ。なんで?」
「…俺の世界ではな…浮気と離婚は認められないんだぜ」
「へぇ、そうなん。奇遇やなぁ、俺のとこもや」
 それはなにより…と紙に判子を押すよりも前に、火村は目の前の唇に印を落とす。
「あっ…」
 一瞬の驚きの後でアリスは、そっとその腕を愛しの旦那様の背に回した。


ははは…。何も考えずに4月1日話をお一つ…。笑い飛ばしてやってくださいませ〜。
月のかけらへ戻る      目次に戻る