〜7月某日〜
「あら、火村さん。ちょうどよかった。これ持ってって」
初夏の日差しの中、汗だくで戻った火村に、下宿のばあちゃんが麦茶とグラスを置いたお盆を渡してくれる。
「客…?」
「そう、有栖川さん。ついさっきに来はって。火村さんがまだなら帰るって言いはったけど、私が引き止めたの。帰したら怒られるからって…」
火村が店子となってから、連れてきた客人はほんの少数。その中で唯一、留守でも顔パス状態のアリスとの親密なつきあいは大家として先刻ご承知のばあちゃんである。店子同様、アリスの事も気に入っているようだ。
「卒業以来かしら。えらく長い間、お会いしてない気がしたけど」
「いや四月の初め頃に一回顔出してるよ。仕事で近くに来たからって」
「あぁ、食事していきはった時ね。それにしてもご無沙汰で。やっぱり社会人は大変ね。疲れた顔してはったし。夕飯、声かけるから。ごゆっくりね」
もう一つ、火村用のグラスを盆に置いて、ばあちゃんは奥へと戻っていく。
階段を目の前にして、火村は深く息をする。
「「「「「ついに、痺れを切らしたかな。
あの日以来、なのだ。アリスと会うのは。
電話はあった。自分からもかけた。が、あの事にはお互い触れないまま。アリスの動揺がわかるから放っておいた。
アリスが悩んでいる間、火村は火村で色々と考えたのだ。
焦りすぎだと自分の未熟さを後悔した。反面、あのまま押しの一手で落してしまったほうがよかったのではとも思った。
でも、結論は今まで通り。全てはアリス次第。本気ととれば万々歳、ジョークと言えばそれなりに…。機が熟すのを待ってもっと好い手を考えればいい。
「「「「「さてさて、どうなりますやら…
扉を開けるとアリスがネコ達とじゃれていた。
「あ。お帰り、火村。邪魔してるで」
拍子抜けするほどあっけらかんとした声。
「おう、久しぶりだな。どうだ、仕事は? 忙しいか」
お盆をテーブルに置いて、本やカバンを定位置に置きに動く火村の跡をネコたちが追っていく。
「まぁな。でも、慣れない分、時間がかかってるだけな気がするわ。先輩の倍くらいもたもたしてる」
「ま、そんなもんだろう。最初は誰でも。こらウリ、ちょっとどいててくれ。この山崩したら本につぶされるだろ。返せコウ。着替えるから」
遊び道具とでも思っているのか周りの物にちょっかいを出す猫達を注意しながらも火村の声は優しい。
「おやおや、寛容なことで。はい、冷たいの」
手が空いたアリスが麦茶をついで渡しにきた。サンキュと一気に飲み干すと身体中の熱気が取れる気がする。
「ふぅ、うまい。で、どうした? 私服って事は今日は休みか?」
空のコップを受け取りアリスがテーブルに戻る。とはいえ、狭い台所と六畳二間しかない部屋だ。どこにいたって話は出来る。顔を洗いながら、ちょっとラフな服に着替えながら、交わす会話は今まで通りの無礼講。
「うん。そうでなかったら昼日中にはここにおれへん」
「そりゃそうだ。サラリーマンだもんな、お前が。でも、黙ってりゃアリスの方が学生に見えるぞ」
「なんやそれ。誉めてる様でけなしてるやろ」
「別に…」
「いいよなぁ。火村。まだ学生なんやもんな」
「相変わらず。赤煉瓦の中で本とレポートと議論とに明け暮れてるよ」
「それが羨ましいって思う気持ち…わからへんやろなぁ。あ、なぁ火村、どっから飲んだ?」
「ん?」
振り向くとアリスが、コップを持ち上げて見ている。
「あかんな。わからん。ちょっと火村、一口飲んで」
差し出されたグラスに近づきながら怪訝そうに聞いてみる。
「何がしたいんだ?」
「間接キス」
真面目に言われてどきっとしたのは火村の方。
「何だ。一体」
茶化そうとした言葉をさえぎって、アリスがすくっと立ち上がる。
「今更、ジョークやなんて言うなよ。あんなん冗談で出来るなんて言うたら、軽蔑するから…」
「アリス」
「考えてんで、あれから。でもよくわからへんかった。だからもう、どうでもいい、無視したろうと思ってた。電話では普通やねんし、今までどおり友達のまま。素知らぬフリでおったらいいわって。でも、あかんねん」
グラスを握ったまま人差し指を火村の目の前に突き付ける。
「この指が憶えてる。火村の熱。触れる度に変やねん。自分の手やのに思い出してまう、君を。だから試してみたいから、飲んで…」
なんだかよくわからない理屈だけれど、それで気が済むのならとグラスに口をつけ、アリスに戻す。無言のまま受け取ったアリスがグラスを回し静かに唇を寄せる。たった一口を飲み込む喉の動きまで。時さえ止めるような緊張の中で、二人はたたずんでいる。厳粛な儀式にのぞむかのように。
「「「「コトン…
沈黙を破るように、アリスがグラスを置いた。
「やっぱ、ドキドキするなぁ…。自覚なかったら、どうってことない事やのに。
火村が触れてたと思うだけでヘンになる」
「どう、ヘンなんだ?」
「冷たい麦茶が冷たくない。火村の熱さが流れこんでくるから…」
そういって無意識に唇で人差し指を噛むアリス。それが迷っている証拠だときっと自分は気づいてないのだろう。その腕ごと火村は引き寄せる。
「本物で試してみたらどうなんだ」
「…ここでか? ギャラリーがおるで」
足元からじゃれつくネコ達の声。
「騒がせておくさ」
「ばあちゃんが、夕食呼ぶって言うてたやん」
「まだ早い。そんなに長い間キスしたら、さすがに酸欠になると思うけど」
イエスともノーとも言わないままに距離だけが近づく。
吐息のかかるこの空間もやっぱり嫌じゃない。
好きってこういうものなのかもしれない。
……ドキドキしていた気持ちが嘘のように静まって、居心地のよい空気に包まれている自分に気づいてアリスはふと笑みをこぼす。
「なんだよ」
「火村…本気やんな?」
「もちろん」
「じゃあ、もう一回口説いてや。俺の好きなその声で…」
アリスに負けない程の笑顔で火村は応じる。
「…愛してるよ、アリス。答えをくれないか」
「キスの後でもいい?」
そう言って目を閉じたアリスの頬を包み込み、唇の上で火村は囁く。
「上等だ」
果たしてその返事がどれだけ後となったのか…それは二人にしかわからないけれど、夕食を食べ損ねた事だけはお伝えしておこう。
END
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「Let’S Kiss」より再録。
この本は1998の夏コミで旧サークルの一周年を記念してのゲスト様満載本でした。
私事であれこれあった時期でよく書けたなぁと今にしてみれば脅威だったりします。
キスがテーマだったので、指先から口説かれるアリスってのを書いてみたくて…
挑戦したのですけど、難しいものでした。
それにしても拙い文章は今も昔も変わりません |
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