前泊のManchesterからの移動は朝タクシーに手間取り、次の列車が乗り換えだったので乗り換え無しの次の列車に乗ったために、Newcastle-Upon-Tyneへの到着は午後になってしまいました。約3時間かかります。そして、中心街にあるホテルへタクシーで直行しました。このホテルが玄関から受付まで階段と長い廊下を通らなければいけないので、駐車場から入ってくれました。タクシーは駐車場から出る時にトークンをもらわないと出ることが出来ないで、運転手が受付に戻ってきていました。また、玄関が繁華街にあるのですが、これが分かりにくくて、街に出て戻る時に通り過ぎていました。迷子?地図を確かめて戻ると見つかったのですが、このホテルはこれが難点でした。朝食は上の階にあるレストランでしたので、そこからの眺めはとても良かったのですが。
同伴のJさんが調子が悪くてホテルで休息されたので、私一人で出かけました。1回の滞在と1回の日帰りの乗り継ぎでの訪問で見逃していたCastle
Keepを目標に歩いていました。運良くその途中にツーリスト・インフォメーションがあり、街や近辺の情報を手に入れることが出来ました。過去2回の訪問ではこの街中のツーリスト・インフォメーションは入っていないので、どこにあるか知らなかったのです。前回の乗り継ぎではCentral
Station構内にツーリスト・インフォメーションがあり、Hadrian's
Wallへの行き方などを聞いたものですが、今回そこにはありませんでした。Tyne川沿いの施設などに移転したようです。
Castle Keep&Black Gate | ||
街は”New”とは付いていますが、歴史はかなり古いのです。そして、街中には歴史的建造物もあちこちに点在しています。現地で手に入れた資料では街をいくつかに区切ってそれらの建造物を説明しています。その中で今回時間的な制限もあったので”Heart of the City”という地区のCastle Keepを中心に訪れました。 | ||
<Castle Garth> 街の名前の由来となった新しいお城は、William the Conqueror(ウィリアム征服王、WilliamⅠ世の通称)の長男のRobert Curthoseによって1080年に建てられました。12世紀後半に同じ場所に石造りで再建されました。 お城の場所は先史時代から使われていました。ローマ帝国時代にはPons Aeliusという砦が川を渡るのを見張るようにそこに建っていました。その砦の建物からKeep城の北と東への舗道が造られていました。 最初の城が建てられるまで、8世紀頃から、ここにはサクソン人の広大な墓地がありました。新しい城が建てられた後もいくつかの墓はその防衛設備に囲まれた区域の中にありました。この囲いは後にGarth城として知られるようになりました。 城には囲いがあり、14世紀の初期には町の囲いの中に隔離されていました。その結果として、防衛の役目が王室のための供給基地程度に落ちてしまいました。カーテンウォールとその他の建物は荒廃し、排水溝は町の人々の廃棄物のために開けられるようになりました。17世紀初期頃にはかなりたくさんの廃棄物がたまりました。その重さのために120フィート(約36.5m)の西側のカーテンウォールは崩壊しました! 市民戦争後、建物は再建され、18世紀の終わりまでに新しい部分が増築されました。中世の城はおおかたが借家人によって隠れてしまいました。立ち退きが1810年に始まり、新しいMoot Hall(公会堂)が作られ、最初の鉄道橋がGarth城を横切って造られた1847-9年には殆どが完成しました。 12世紀の石造りの城は南と東のカーテンウォールの一部、そしてKeep城(1168-78年)に残っています。楼門は現在the Black Gateと呼ばれていて、1247-50年に増築されました。 1400年にNewcastleが独立した州になった時、Garth城はNorthumberland州の一部として残りました。Keep城は州刑務所になり、南の通用口の上に看守が住んでいました。13世紀の大ホールは、現在の公会堂の中庭として知られていますが、巡回裁判の法廷として使われていました。 城はKeep城、公会堂、そして看守の住居を除いて、1619年にJamesⅠ世によって廷臣の一人Alexander Stephensonに貸し出されていました。他の多くの王室の城が同様の方法で王のお気に入りに処分されていました。StephensonはGarth城の一部を住居と作業場として又貸ししていました。それはすぐさま過密になり、独立した共同体に発展しました。 市民戦争では、1644年にNewcastleの包囲が最高潮になっていて、城は稜堡(リョウホ)と呼ばれる大砲設備で再要塞化されました。Keep城の北側への考古学的発掘作業でその一部が発見されました。Garth城の内外の多くの家が火災を利用して取り壊され、Keep城は1644年10月22日に包囲した王室駐屯部隊の最後の盛り場の役目をしていました。 <Castle Keepの部屋割>
大ホール Keep城第一の公式な部屋は2階(First Floor)のこの部屋で、外側の階段の最上段から直接入ることが出来ました。外の階段の頂上にある東側の壁の扉は飾り立てられています。 部屋は現在元々よりも高くなっています。現在のアーチ型の屋根はKeep城が1811-12年の最初の修復まで遡ります。 曲線の暖炉は後に付け加えられたもので、恐らく1811-12年の最初の修復時に付け加えられました。 北壁の扉はWell Roomに繋がっていて、北西隅の扉はKeep城の西側から突き出された中央のトイレの換気口へ繋がっているトイレに繋がっています。南壁の扉は小さい個人的な部屋または現在’”King's Chamber”として知られる日光浴室へ繋がっていました。大ホールの南東隅の4番目の扉は内部の中心の階段と建物の残りの部屋へ繋がっています。 礼拝堂 礼拝堂はKeep城の前方の階段の下にあります。南の端には扉によって外から直接入ることが出来ます。礼拝堂は大抵は現在身廊の西の壁の扉を通って控え室から入ります。 内陣には北壁に戸棚があります。そこには正餐式の器が保存されていて、南壁には聖水廃棄盤の面影が残っています。身廊の南壁の別の聖水廃棄盤は元々のものではないでしょう。 礼拝堂は1848年にJohn Dobsonの指揮の下で広範囲に渡って刷新されましたが、元々の後期のルマン人の作成物、とりわけ1166-78年まで遡る窓とアーチ天井の周りのいくつかの山形の飾りを多く残しました。 開館時間も十分にあったのですが、人がいません。本当にやっているのか?と急な階段を上っていくと、ちゃんと受付におじさんがいました。先ず、Museumを見て回り、同じ階のQueen's Chamberを覗きました。次に上に登って、大ホールを眺め、更に螺旋階段を上ることができたので上がってみると屋上に着きました。お天気も良く夕暮れ近かったのですが、町を一望できました。その後、また下へ。城の中の階段があちこちあるので、迷いますが、部屋はそんなに無かったので直ぐ元に戻りました。そうやって今度は下の階へ。1階へはいると私が喜んでしまう展示がありました。十分に時間をかけてみて回りました。小さいお城で部屋数も少ない方ですが、見応えは十分です。 開館は火-日曜日の夏期(4-9月)は9:30-17:30、冬期(10-3月)は9:30-16:30。 |
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<The Black Gate> この建物は1247-50年に増築された城の包囲陣の最後の部分です。城の初期の北門への計画され増築された門、または楼門を形作っています。門番小屋を構成している楼門は、狭くて高い壁に囲まれた背面への通路がある2つの半形の太鼓型の塔が並んでいて、城のカーテンウォールに対して防御者から火をつけられ易くした立場に置かれました。玄関(西)への跳ね橋があり、裏にはもう一つあります。2つもの現在は木製の歩道橋に替えられました。門番小屋の通路吊し門、現在見られる溝と二重の門で閉じられています。 中世の建物の高さは知られていません。現在の上の階、屋根、出入口の上の見せかけのアーチは、門番小屋をAlexander Stephensonが再建した17世紀初期に増築されました。彼は城全体の貸し出しを承諾したJamesⅠ世のお気に入りです。後にLondonの商人Patrick Blackと彼の妻Barbaraに借用されました。門番小屋の現在の名前は彼らからつけられています。 17世紀には家は防護された通路の両側に沿って作られました。公の家はThe Black Gateの一部が公開され、名付けたJohn Pickellsによって運営され、1636年にはまだ南西の壁の上に高く見ることが出来ました。 19世紀初期までにThe Black Gateは貧困層の居住地となり、一時は60人の人達が住んでいました。The Black Gateはthe Society of Antiquariesに借用され、その協会は1883年と1885年の間で大規模に修復し、集会所と図書館として使用して現在に至っています。 写真はKeep城の屋上から見下ろしたものです。間に線路が走っていて邪魔です。中央の通路は通り抜けが可能です。Keep城を見た後で近づきましたが、暗くなってきていたのでゆっくりは見ていません。街中からKeep城へ向かう手前にありますので、時間に余裕あるようならばじっくり見て下さい。 <The Curtain Wall> 南と東のカーテンウォールだけが土の上に残っています。南裏門から西のBridge Hotelの背後の塔の断片的な名残まで壁があります。 東の壁の部分はDog Leap Stairsの頂上で見ることが出来ます。この壁の多くは13世紀初期にJohn王によって作られ、1980年代の考古学的発掘まで埋まっていました。壁のひどいひび割れはいかに両側の上部の斜面が19世紀にがっしりとした残りの壁を再建するには不安定だったかという証拠になっています。 ここには直接近づいていなかったのですが、屋上から南側の壁の写真を撮っていました。その写真を見ながら、思い出したことがありました。最初の滞在でこの壁の中にあるパスをわざわざ通ってTyne川の川沿いに降りたのです。その時のアルバムを確かめると確かにこの壁の中の写真がありました。やっぱり廃墟は今でも興味を引いているのです。 |
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<Cathedral Church of St Nicholas> St Nicholas CathedralはNewcastle upon Tyne、Tyne and Wear、北東EnglandでのEngland聖堂の教会です。その正式名称は”The Cathedral Church of St Nicholas Newcastle upon Tyne”です。Newcastleの司教の座で、Newcastleの司教区、つまりEnglandの英国国教会の殆どの北部の司教区の本山です。司教区はTyne川から北はBerwick-upon-Tweed、西はCumbria州のAlstonに及びます。 The Black Gateの北側にあります。Keep城の屋上からもよく見えます。その塔が印象的でした。塔の真ん中辺りの高さの位置に赤い時計があります。クリスマス時期だけでなく常時あるようです。写真を撮った時他の聖堂と区別しやすい気がしました。 <Tyne Bridges> 町を二分するTyne川には町の名物となっている橋が並んでいます。以前にもご紹介していますが、今回Keep城の屋上から一望できたので再びご紹介しておきます。写真の左、下流からです。
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