|
Bettyhill |
Sutherland(Highland北西部域)の北海岸の村です。この一帯はかつてはゲール語で”Dutaich
'icAoidh”(the country of Mackay、Mackay一族の国)として知られていました。Mackay一族は非常に古い氏族でしたが、18世紀の終わりには首長が財政上行き詰まり、Sutherland公に土地を売り渡さなければならなくなりました。
Bettyhill(おそらく1839年に亡くなったSutherland伯爵夫人Elizabeth後の名前)は19世紀の初期に開拓地として大きくなりました。その時にはSutherland公の多くの小作人達が海岸を農作地にするために内陸部の谷から追い立てられました。Patrick
Sellarは多くの追い立てられた人達の間では悪名が高かったことで今日でもその名が刻まれています。彼はStrathnaverのSyre(Bettyhillから南10km程内陸へ入った所)に住んでいました。
厳しい風雨にもかかわらず、珍しい山林植物が殆どの海岸部で育てられていたことが分かりました。またこの盛り上がった海岸には考古学的な場所もあります。Bettyhillから真っ直ぐにし西に向かうと、Skerrayの農作地を回る道があります。また一方内陸のBorgieには1920年にForestry
Commisionが最初に植林した森林植物が広がったことが見受けられます。Sutherlandの最も高い木々がいくつかがここで見られます。
Bettyhillの南の道路B871はStrathnaverを流れるNaver川沿いに走っています。この道沿いにはクリアランス前の村があり、古い居住地の一つRosalでは説明板を見ながら回ることが出来ます。
Bettyhillの西側のInvernaverとTorrisdale湾は自然保護区地域になっています。
※StrathnaverはNaver湖から流れ出るNaver川沿い域の広い谷間 |
|
交通 |
- バス(のみ)
Thurso-Durness間のサービスを使用します。平日のみの運行です。ポスト・バスはThurso-Tongueのみで1日2本。他のサービスも曜日・学校の学期中などによって異なりますので、事前にチェックする必要があります。サービスを行っているのは主にRapsonsです。時刻表には全ての会社のサービスが書かれていますのであちこちの会社のサービスを照らし合わせる必要はありません。
|
|
Strathnaver Museum |
|
元は1774年に建てられたSt.Columba教会で、1976年に一般公開された地方運営の博物館です。建物はSutherlandの北海岸のBettyhillの東の端のSt.
Columba教区教会だったものです。冬期は予約による開館。クリスマスと新年は休館。それ以外は通年開館。展示内容には興味深いものがあります。
- THE STRATHNAVER CLEARANCES
牧羊のためにSutherlandから人々を追い立てるクリアランスは大きな論争と根深い感情で問題となっていました。Strathnaverでは最近でも多くのクリアランス前の村の遺跡が、'Gloomy
Memories'を書いたDonald Macleodの生誕地であるRosalで見ることが出来ます。博物館には図解、遺物、模型を使っての説明があります。この地の学校の生徒達によってその話を描いた絵や模型も寄贈され展示されています。
- A CLAN MACKAY ROOM
上の階にあります。かつてはSutherlandの北と西の広大な地域だったStrathnaverはMackay一族の土地でした。氏族(Clan)は非常に裕福で世界中(Canada、Australiaなど)に広がっている数個のClan
Societies(氏族共同体)を誇る歴史に変わりました。この共同体と他の氏族のメンバーはこの部屋ために展示物と情報の多くを寄贈しています。
- THE FARR STONE
建物の西側の墓地に立っています。8-9世紀のキリスト教徒による石板です。(建物の中にも18世紀の文字が刻まれた石板があります。)この地域の説明にはFarr
Stoneは、異国の船が近くの湾に錨を降ろした後、一夜にして突然現れたとされています。1791年に古い統計学的記事を書いたJames
Dingwall師はその記述で'a Dane of distinction(著名なデンマーク人?)'を祝していると信じるようになった説に傾倒しています。ゲール語では、この石板は'Clach
Erchar(Farquharの石)’として知られていて、
Scotlandの王Robert the Secondの医師で初期のMackayのFarquharの一人の墓であると言われています。このFarquharは1379年にMelnessとHope(いずれもBettyhillの西の地域)そしてStrath周辺の島に土地を与えられていました。しかし、その石は時々首長の墓場を表している、といわれる一方で、後のステンドグラスの様に、文字を知らない人達に聖職者が説教するために視覚的な目的でしばしば用いられた、とも言われています。
私はこの石のことに気付かずに、博物館を後にしてしまいました。悔しい!!
入口で入場料を払おうとしたところ、受付のおじさんは、”学生か?”と聞くので”いいえ”と答えたのですが、”学生だろう。ハイ、1ポンド”と無理矢理私を学生にして学生料金で入らせました??! 大人料金は1.6ポンド。Scotland人が”ケチ”であるというのは単なる噂らしいです。その後、このおじさん、”どんなことに興味ある?”と聞くので適当に”Scotlandの文化”と答えたら、上に面白いのがあると言い、そこに入った時にわざわざ説明に来てくれました。A
CLAN MACKAY ROOMでした。タータンや系図がありました。
また、入り口すぐのボードに貼ってあった地方紙の記事の写真に見覚えがありました。彼はロックバンドQueenのギタリストBrian
Mayでした。この地の復興運動チャリティに参加したらしいのです。こんな有名人が余り知られていない田舎で地元の人達と一緒に活動しているのは、実に素晴らしいことだと思いませんか?
ツーリスト・インフォメーションはこの博物館(墓地)の入口にあります。宿の予約は済んだものの、この地方の情報を手に入れるために行ったのですが、臨時休業していました。何でも前夜の大雨で側を流れる小川が氾濫して浸水したらしく、併設のカフェも休業とか。博物館を出た後に見たら、販売物などを乾かしていました。 |
|
Farr Bay |
|
博物館を出た後、お天気も良かったので近くの浜辺に行ってみました。博物館でこの辺りの情報も手に入れ、またおじさんもお薦めの場所として言ってくれました。浜辺に行く道がよく分からず、適当に有刺鉄線をくぐったり乗り越えたりしていたのですが、正規の道があったようです。(帰りはちゃんとした道を行きました。)
大西洋に面している海岸なので、白い砂浜と青い海という組み合わせでした。砂浜の端では日光浴をしている集団やカップルも見かけました。他にこれと言ってある訳ではないのですが、旅の休憩には良い所でした。なお、夕方近くの丘からこの浜辺を見たら満潮近かったのか、砂浜が狭くなっていました。 |
|
Torrisdale Bay |
|
バスを降りた丘の西側に向かったところ、またまた綺麗な海と砂浜が広がっていました。こちらはNaver川の河口に辺り、その先の海がTorrisdale湾です。この辺り一帯は自然保護区になっているようですが、散歩している人を見かけたので入場禁止ではないようです。地図を確認したところ村の波止場近くからも行くことが出来るようです。湾の近くまで行くにはNaver川を渡らないと行けないようです。
翌日乗ったポスト・バスの運転手(この日と同じ人)がここのパノラマ写真を見せてくれましたが、私が見た方が綺麗でした。お天気のせいです。自然の名勝らしいです。 |
| Strathnaver Trail |
|
博物館で手に入れた資料にありました。Loch
NaverからBettyhillまでのNaver川沿いの16の遺跡を訪れるルートです。この中で歩いて1時間くらいで行ける範囲に3つ並んだ遺跡がありました。遺跡には番号が振られていますが、その番号が道沿いに立てられていてとても見つけやすくなっていました。
- Achcoillenaborgie Broch(円塔、No.11)
AchcoillenaborgieはClerkhillのWilliam Gordonの所有地の一つで、彼は1790年代にNewlandsの’ヒースが生い茂った牧草地’に何人かの転借人を植民した進歩的な借地人でした。その時代にはAckilnaburgieと書いていました。ここは21エーカーの耕作地、19エーカーの牧草地、251エーカーの丘があり、1819年に、近くのAchanlochyの様に、クリアランスが行われました。
木製の部分は長い間に消えて亡くなり、非常に荒廃しているにもかかわらず'borg'はまだ残っています。'borg'という言葉は、ある時は要塞という古い西スカンジナビア語を起源とし、時には様々な種類の意味するゲール語を起源とすることがあります。Brogieの丘の上には、borgの部分が例外のタイプの土塁になっていますが、ここでは円塔になります。これらの優雅な塔は100BC-100ADの間に作られ、その時代のScotland北西部では際だったものでした。この様な場所が約400個あることが知られています。
崩れ落ちた石は人工物であったと分かりますが、元は円塔であったという記述を見ない限り、形が分からない状態でした。わずかながら円形に石が広がっているのが分かりました。周りは蕨だらけです。小高い所にあり、Naver川の流域の眺めが楽しめます。
- Coille Na Borgie Horned Chamberd Cairns(塚、No.12
)
一見、3つの大きな塚の名残の見えますが、近づくと、実際は2つの長い塚で、片方にはかなり以前に荷車が通った後があり、切れてしまったことが調査によって明らかになりました。1867年頃に両方が開かれましたが、どちらも所有物の発掘はされていません。その時には’少数の骨だけが見つかり’、’それらは無視されました’。このような遺跡は新石器時代(6000-4400年前)に遡ります。
その時代、海抜は現在よりはいくらか高く、現在は海になっていますが、その時はNaver川の河口であった所を見渡せました。この遺跡は両方とも’三日月’型の長い塚で、それの端は半円形になっていて、塚が使われた時には儀式の目的で使われていたことを示しています。両方とも埋葬用の石室があり、塚の正面から通路で行くことが出来ました。実際、埋葬はしばしば土器の壺に入れられて骨は別々に行われていました。
埋葬儀式は、その魂が解放されるまで、体を風雨にさらして頑丈な部分が残ったと考えられています。その風習はまだネイティブ・アメリカンに残っています。鳥が持ち去ることが出来ない骨だけが残り、処分されました。
半円形部分は南側の塚に明らかに見られ、Scotland北部では珍しい切り立った弧形(直立の石)はかつて儀式がそこで行われていたことを示しています。その内の2つは他のものより顕著で、この地方の慣例で埋葬される宝物を隠す一方で、病気も隠し続けられていだようです。このような良い状態で保存が行われていました。エジプトでピラミッドが建設される以前のことです!
ここも案内がないと、はっきり分からないように、かなり崩れた状態でしたが、元の広さはとどめていたようです。あちこちに石室だったような窪みも見られました。また、回りには低めのスタンディング・ストーンが立っていました。
- Achanlochy(居住地、小さな集落、No.13)
Achanlochyは50を超える牧畜用の村の1つで、村は、Sutherlandクリアランス以前には、Mudaleの牧草地から海までのStrathnaverの谷沿いに広がっていました。そこでは普通は共通の物は共用されていました:’runrig’システム(土地分配制度)の元で絶え間なく耕作されていた耕作地;芝と石の土手で囲まれた適度な牧草地;燃料用の芝の刈り込みと夏の放牧に対する丘の土地面積の権利、でした。
これらの村落は単身の住処から20世帯を超える居住地までの大きさで様々でした。Achanlochyは1806年には9家族が居住した中間の大きさで、その年には1812年に出版された'A
General View of the Agriculture of
the County
of Sutherland'という本の著者であるCaptain
John Hendersonが訪れて、概要を書いています。1807-1811年の間にはSutherland地所の仲買人Cosmo
Falconerもこの地味な場所を訪れ、この場所で批評を書く時間を作っていました。この耕作地はNaverの川岸沿いに作られ、’湿った小道と下木’でAchinlochyを区分けしていました。この場所を最後に全面’改修’して2世紀以上経っているにもかかわらす、彼の批評は今でも的を得ています!
Achanlochy Cleared(Achanlochyでのクリアランス)
Achanlochyの人々は3度目、1819年のStrathnaverの最後の大クリアランスで追い立てられました。初期に追い立ての通告を持ってきたPatrick
Sellarが、Sutherland地所の雇用から辞職させられたにもかかわらず、彼はStrathnaverで大きな牧羊業者になり、もっと広い場所のクリアランスに熱心になりました。盗みによって羊を失ったと申し立て、既に持っていた大きな所有地を広げたいと望んだためでした。
この1200人もの男、女、子供の追い立てに対する責任は、別の仲買人Francis
Sutherと彼の意地の悪い前任者と比較された好意的な男次第でした。不運なことに、Sutherland一家の評判と彼等の’改修’図式のために、Sellarの様に、Sutherは’巡査’に強制的に追い立てるため火を使うことを許しました。こうして、彼等は記の屋根、そして時々再居住を防ぐために家自身も燃やしました。この失敗は新聞での世論の反対を大いに引きつけ、Sutherland地所の委員James
Lochからの鋭い批判がSutherに浴びせられました。James
Lochは多くの地所での政治を立案し、彼の主人であるSutherlandの公爵と公爵夫人に対して優れた政治を宣伝していました。
1819年までに、Achanlochyの多くの’小さな借地人’が殆どの家族が、Strathy,Armadale,Aultiphurstでは分けられた不毛の土地を所有し、その丘を開拓しながらも、この地域に再居住した7つの家の手に落ちていました。Adam
Mackay、その妻と4人の子供のただ1つの家族だけが’南の国’へ旅立ちました。しかしながら、共同体としてのAchanlochyは永久になくなり、その全ての名残が広がっています。丘陵の斜面には、家の土台、藁置き場、納屋、朽ち果てたとうもろこし用の炉があります。
数世紀前の物がこんなにもなるのかと、クリアランスが悲惨だったと思わせられるような光景でした。その名残の土台があちこちに見られ、番号が振ってありました。南側にLochan
Duirteという小さな湖がありました。 |
|
Clachan |
|
Strathnaver Trailから戻っても夕食までには、まだ時間があったのでもう少し彷徨くことにしました。今度はClachanというFarr
BayとTorrisdaleに挟まれた岬です。途中で横道にそれ、海に突き当たった所で柵越えが出来たのでその中へ。ところが、この中、人が歩いた形跡はなく、適当にヒースの間を歩き回ることになりました。そうやって上に上がった所で、頂上にケルンを見つけました。360度のパノラマでした。写真はそこから見た西の山です。帰りも結局道は見つからず、入った所に何とか出て戻りました。横道に逸れずに真っ直ぐ行くと波止場に出るようです。そこからTorrisdale湾が綺麗に見えるようです。もっとも、この時間は満潮になっていたので、砂浜は殆ど隠れていたようですが。
この地名は、必ずしも教会の中ではなく’石の側で’礼拝が行われた頃にまで遡るほどの長い歴史を表しています。clachは石に相当するゲール語です。 |