月曜日は全ての交通機関が動き出します。そして、乗り継ぎも良くなります。従って、GlasgowからOuter
HebridesのLewis島Stornowayまで丸1日を使いますが、一気に移動が可能になります。バス・ステーションでInverness乗り継ぎのUllapool行きを予約しようとしました。するとUllapoolには夕方にしか着かなくなっていました。朝9時40分発または10時40分発に乗らなければUllapoolからのフェリーには間に合いません。そこで時刻表を出して”この時間”と言ったら2本とも満席。宿に予約も入れているし、キャンセルするのも困ります。そこでInverness-Ullapoolのバスはどうなのか聞くと、こちらは空席があるとか。そこで、高くなりますが、列車でInvernessまで行くことに。こちらは満席でも乗せてくれます。時間も早く着くのでバス・ステーションから、Queen
Street駅へ移動して切符を買っても間に合います。前の日に予約を入れておけば良かったのかも知れません。
トランクを引きずってQueen Street駅に着き、無事にInverness行きに乗り込みました。しかし、月曜の朝とあって空席が見つかりません。すぐに諦めて、前日と同じようにドアの側の折りたたみシートを確保しました。おかげでInvernessまで座ることが出来ました。回りには席が無くて立っていたり、自分の荷物の上に座り込んでいる人がいます。私は出入りの邪魔にならないようにシートの下にトランクを滑り込ませていました。しかし、途中から乗ってきた体格の良い男性達が私とドアの間に荷物を放り投げました。こちらが開いたら邪魔ですが、そのお兄さん、列車が止まる毎に荷物を寄せに来ていました。マナーが悪いわけではない人達でした。間に合わない時は私と側のおばさんで荷物を避けていましたが…
そうやって無事にInvernessに着き、隣にあるバス・ステーションへ。聞いた通りにInverness-Ullapoolのバスは空席があったので何とかStornowayまで夜には着けることになりました。予約したバスはCitylinkですが、よく考えると同じ区間でRapsonsも運行していました。こちらが安かったかな…と思いましたが、とにかく移動することが先決でした。Ullapoolに着くと、預けた荷物が出されません。バスに乗る時にフェリーに乗るのか聞かれましたが、その荷物はそのままフェリーに乗せられます。待ち時間は、身軽状態でした。銀行に寄りたかったので、その間荷物をどうしようかと思っていたので、助かりました。フェリーのチケットを買ってT/Cが使える銀行を探しましたが、場所を忘れて別の銀行のキャッシュ・マシンで現金を用意しました。近距離の交通機関やタクシー、食事に必要だからです。
お天気は余り良くなく、霧がかかった感じでしたがフェリーも無事出発。ほぼ予定通りにStornowayに到着。港は町のすぐ側ですが、宿が離れた所にあるのは分かっていたのでタクシーに乗ることに。走っている時に左手に空港が見えます。暫くすると今度は海岸沿いを走ります。そしてやっと宿へ。かなりの距離。勿論バスでの往復で島巡りをすることになります。こんな所で結構高いB&Bになったのは、他に空きがなかったからでした。5泊の予定ですが、1泊でもなかったのです。車での移動が出来ない私がこんなに離れた所を何故予約したかを宿の人に説明すると、理由を教えてくれました。丁度新しいスーパーの建設中で作業員が近場の宿をずっと確保して、更に観光シーズンに入ったからだとのこと。そんな私を哀れに思ったのか、毎朝ご主人は街中まで私を送ってくれました。帰りはバスですが、宿の前で止めてくれます。最後には運転手に覚えられて、言わなくても止めてくれるはずでしたが、止めるのを忘れられて行き過ぎた所でボタンを押したらそこで止めてくれました。
前回は嵐のようなお天気で最大目的のCalanais Standing Stonesを満足に見ることが出来なかったため、再度訪れる予定でした。しかし、初日は雨。諦めてStornowayの町中で過ごすことに。5泊もするのはその内1日くらいはお天気が良くなる日があるからと見込んだからです。その予想通り、次の日から3日間は雨に遭うこともなく島巡りをしていました。前回(12年前)と重複する箇所はありますが、今回の島巡りを全てご紹介しておきます。 | |
Stornoway | |
Stornoway Museum/Museum Nan Eilean | |
1983年にWestern Isles Councilによって創設されました。建物は嘗てNicolson研究所の付属棟でした。博物館は様々な品物、写真、印刷物、絵画、考古学の資料、諸島の家の内外の生活や経済の歴史を所蔵しています。2008年にはHistoric
Scotlandに依るStornowayの装飾鉄細工の特別展示が行われています。開館時間(2008年):10月1日まで月-土曜日は10:00-17:30、10月1日~3月31日(2009年)は火-金曜日が10:00-17:00、土曜日は10:00-13:00。無料。 12年前も入った所ですが、展示内容は更に充実しているように思えました。PCによる仮想ツアーはなくなっていました。 |
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Lewis Loom Centre | |
ハリス・ツィードの販売店です。ツィードの他にニット製品も販売しています。月-土曜日に9:30-17:30の開店。 ここも12年前に入ったはずですが、お店の中が違ったように感じました。場所は同じ筈なのに…そんなに興味があったわけではないのですが、以前に訪れたことと雨がひどくなったので寄ってみました。特に買いたいものも見つからなかったのですが、可愛らしいティーコージー(ティーポットに被せるもの、保温が出来る)がちょっと気になっていました。結局後で別の場所で買ってしまいました。ここでは買い物はしなかったのに、Lewis島やHarris島の観光リストをおじさんがくれました。裏には地名の由来が書いてあります。 |
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An Lanntair | |
バス・ターミナルの側に建つ新しい建物です。中は絵の展示、レストラン、カフェ・バー、お土産店が入っています。ライブや映画の上映もあるそうです。月-土曜日の10:00-夜。 最近出来たらしい所です。裏がガラス張りなので気になり入ったのです。中にレストランがあったのでお昼を食べていたら周りに人がいなくなっていました。昼食は14:30までらしく、その時間がきていたのです。夕食時に再オープンするようです。隣のカフェ・バーは常時開いているようでした。レストランからは港が見渡せます。 |
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Lews Castle Grounds | |
<Lews Castle(Lewis Castleではない、Lewisの”i”が抜けているのが正しい)> 1800年代の中期に、Jardine Matheson会社のJames Matheson卿という裕福な商人によって建てられました。James卿は1844年にLewis島を購入し、この素晴らしい森林地帯を開発し彼の失敗に終わったチュダー調の城を建てました。Leverhume領主はその建物を購入し、1918年に完成し、1923年にその島と共にLewis島の人々に返しました。お城は第二次世界大戦には病院として使われ、また、大学屋と学校にも使われました。その後、危険なために使用されなくなりました。一般未公開。 相変わらず窓にベニヤ板や黒幕で塞いでありました。横に回ると入口らしきものはありましたが、一般公開されていないので、ここで働くスタッフが出入りしているように思えました。 <Woodlands Centre> Lews Castleの庭園の中にあり、カフェ、手工芸品、自然および地域の歴史の展示があります。門の両脇で大きなLewis Chessmanが出迎えてくれます。 興味はあったのですが、時間が過ぎていたので、中には入っていません。新しい所なので、外観はとっても綺麗です。庭に面白いオブジェがありました。 <Lady Matheson's Monument> この記念碑は2006年に再建されました。1820年代の東アジアで設立されたJames Matheson卿の会社Jardine Mathesonの常務取締役によってオープンされました。Jardinesは国際的な最大規模のコングロマリットです。この記念碑はMatheson夫人が1846年にLewsを購入しLews Castleを建てた夫の記念碑として建てました。会社は阿片の取引で膨大な利益を得て、Matheson夫人は上にケシをかたどった記念碑の柱で作ることを認めました。 この記念碑はテラスにの側にありました。この頃には雨も小降りになっていたので、その中に避難することはしませんでした。テラスから港が一望できます。 <Stornoway Waterwheel> Trustowned Stornoway Castle森林公園の中にある水車です。 元々は1816年に作られたもので、1890年の火事で壊れました。Stornowayの歴史を見直す再建プロジェクトが興され、この地域にビジター・アトラクションを追加することになりました。一方、新エネルギーとしても注目されるものでした。この水車は4kWの水力発電を行い、その電力は城の庭園の明かりに使われています。丸太で作られた事実上のセンターと川にかけられた木の橋はここの森林公園からのものでStornoway Trustに依って建てられました。一般技術者が水車の池、水路、堰の建設に携わり、水車は地域の農場から持ち込まれ、特殊技術のグループの応援で美しく仕上げられました。 地域の学校がセンターの内容の展示をデザインしました。再建されたWaterwheel水力プロジェクトは2005年10月に正式に開設されました。 降り続く雨に悩まされながら、近場で面白そうな所を探していた時に公園の地図で見つけました。前回、覚えのない所だったので行ってみました。お城とはかなり離れた所でやっと見つけました。雨のおかげで誰もいません。センターの中には自由に出入りできます。中には子供達が作った島の歴史などをあしらったタペストリーが飾ってありました。説明板を見ると、島には他に水車が点在していて、それぞれ異なる目的で作られていました。ここは水力発電でした。雨のおかげもあってその水量は発電に十分なようでした。雨宿りもかねていたので、誰も来ないことを良いことに、この中でゆっくり過ごしました。 |
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War Memorial | |
前回もここを訪れているので当初は行くつもりはなかったのですが、島の北に行った帰り、あまりにお天気が良く、また歩く元気もあったので訪れてみました。前回は夕方の散歩で近くに見えた丘の上に何かがあると思い登ってみたのでした。その時は夕暮れが迫っていて、また使い捨てのパノラマカメラでしか写真を撮らなかったので、何もかもぼけた状態でした。今回は、回りを十分に見晴らすことが出来る程お天気も良く、空もまだ青々としていました。 12年前に思いつきで行ったので道を覚えているはずはなく、先ずLews Castleの庭園沿いに登り口があると分かったのでそちらから回りました。登り口を見つけ、丘を回る道をたどって頂上に。塔(記念碑)が逆光でしか写真に撮れなくてちょっと残念でしたが、回りから眺める景色は良かったです。特に、東に広がる海とその海岸にある湿地帯(その一部が右写真)は美しかったです。宿も見えるのでは?と思って探しましたが、よく分かりませんでした。宿周辺と思われる所は確認できました。宿の先にはPointという岬があります。ここへはとうとう行くことはありませんでしたが、ちょっとしたものはありそうです。 |
雨を考えて5泊、4日をまるまるLewis島を見て回ることが出来る日程でした。初日は雨にたたられましたが、残りの3日はお天気に恵まれていました。雨の予報がなかった日に先ず前回嵐のようなお天気の中で訪れたCalanais行きを決行、残りの日は晴れていれば北の端までと思っていたので、次の日に。最後はおまけだったので、観光資料を見て決めました。 今回もCalanaisがメインだったので、バスに乗る時はそこへ行くことしか考えていませんでした。帰りはどうするか決めていなかったのですが、運転手からその日に乗り降りする回数を決めて切符を買うことが出来るとの説明にすぐさま前回と同じ所を訪問することに。前回はRover Ticketで乗り降り時間が指定されていましたが、今回は時間は自由です。乗降も場所も自由に決めることが出来ます。これはWest Circularのみですが、北の端の帰りに途中で降りたいと言ったら単なる往復で乗せてくれました。こちらは運転手に交渉次第のようです。降りる場所は自由と言っても乗る時に運転手に告げないと止めてくれません。 |
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Calanais(Callanish) Standing Stones | |
ヨーロッパでも最も重要で貴重な複合の巨石群の1つです。遺跡群の中でもっとも印象的なのがCalanais
Iと呼ばれているものでそのサークルは幹線道路(A858)からはっきりと見ることが出来ます。それは十字架の形をしていてLewis島の片麻岩(へんまがん、gneissは、変成岩の一種)の大きな石の列から成り立っています。十字架の中央には1枚の大きな石柱と小さな石室があります。ビジター・センターがあります。列石見学は無料。 スタンディング・ストーンが形成されていく状況が年を折って説明されていました。
その後ビジター・センターに入り展示室(有料)を見ました。記念品を物色し、カフェで昼食を取りました。 Calanaisはこのスタンディング・ストーンで有名ですが、他にこの地区にはストーン・サークルなどが点在しています。各遺跡には番号が付けられていて、時間があってチャリで回ることが出来れば、そのほかにもいけたら良かったのに、と思うくらいです。その中の1つ、小高い丘にあるストーン・サークル(おそらくCalanais III)を2日後に乗ったバスの中から見ることが出来ました。 |
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Dun Carloway Broch | |
broch(円塔)はScotlandの北部または西部だけに見られ、紀元前の数世紀前からあり、その時代は大西洋岸のヨーロッパでの生活は特に定住生活を送ってはいませんでした。隣の敵国や遠方の侵入者に対する防衛として役に立っていましたが、主に居住場所であり、それぞれの地域の中心となる領主の家族で占められていました。broch著しい大きさと目立つ位置は実用性と同様に威厳も表しています。そのあからさまな指標となる建物はその時代の牧畜の農業を作り出した富を統制していました。 このbrochは典型的な形で、中が空洞で高さは13mである。漆喰は使われていません。内部の床、仕切、屋根は木製であることに注目。いくつかのbrochの床にある杭穴の唯一の形跡、そして残った石の構造から推測されるのですが、brochを住むことに適したものにする必要がありました。ただ一つの狭い入口の通路は、頑丈な木製のドアとわらだと推測される屋根の側にありますが、攻撃されやすい唯一の場所でした。そして、火は居住者がもっとも恐れていたものだったでしょう。 ここには小さいのですが新しくビジター・センターが出来ていました。回りにとけ込むように岩場にくっついていたのでわかりにくかったのですが、遺跡の手前にあったのですぐに分かりました。中にはbrochでの生活を再現したコーナーもありました。商売根性もあり、様々なお土産(brochに関係ないものも沢山)が置いてありました。 バスを降りたのは1人だったのに、遺跡に近づくと観光客が沢山いました。団体さんのようでした。風は強かったのですが、雨がないのでこちらもゆっくり見ました。中もゆっくり見回すことが出来ました。外の風に比べ、中は静かに感じました。屋根もないのに不思議です。二重の円筒の間の階段にも上がってみました。明かりはないので、結構暗い所もあります。使われていた時はもっと暗かったのかも知れません。brochは小高い所に立っていますので、回りの景色も見回すことが出来ます。海が近いこともよく分かりました。 12年前はバスの時間まで近くのホテルのカフェでお茶を飲んで過ごしました。今回はそんな時間はないので行きませんでしたが、バスの中から確認すると、まだホテルはありました。あの時に隣に座り込んだ犬(狩猟用?の大型犬)は見かけませんでした。もう12年も経っているので、生きているかは不明ですが。 |
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Blackhouse Museum Arnol | |
Arnolには近代的な石と石板、なまこ板またはタール塗りの屋根で出来た石灰石またはコンクリートブロックの住居用の家が古いわらぶき屋根のblackhouseの側に建っています。この村でのblackhouseや他のものがかろうじて1世紀以上のものですが、その建築技術やレイアウトはバイキング時代やそれ以前の中世にまでさかのぼる伝統的な生活や機能を示しています。 ’blackhouse’という言葉はこれらの伝統的な住居の違いを区別するために作られました。空積み工事または粘土で繋ぎ合わせた二重の壁とふき屋根で、1850年頃に見られるようになりました。本土の新しい建物の形からきた、石灰石のモルタルで固められた一重の壁のもの(’white house’と称される)に対してのものです。blackhouseの特徴的なものは動物の小屋(正面入口から右手)と居住区(左手)の間が非常に近いことです。最近の1964年にもその家が使われていて、家の中には茶色の雌鳥と若い家畜がいました。No42の老若男女の居住地は自給自足の狭い地域でした。オート麦やジャガイモ、キャベツ、カブが育てられ、雌鳥、羊、牛が飼われ、ピート(泥炭)が燃料として切り出されていました。 中央のピートの暖炉がある居住区は一方に木製の長いす、片方に食器棚と皿がけがあります。1964年の学校小論にはこの家族の様子が書かれています。 「冬の間は多くの隣人が夜な夜なやってきます。私たちは暖炉の回りに円陣を組み色々なこと後議論します。暖炉は火が煙突に上がる危険がないように高く作られています。」 「頻繁に、お茶の後に老婦人がケイリーのためにやってきます。それは単なるうわさ話であることはご存じでしょう。数年前に、叔父がCanadaから戻ってきた時、人々は毎晩やってきていました。そんな時私たちは歌ったり、他の楽しみを色々やっていました。」 ここにもビジター・センターが出来ていました。先ずそちらへ行って入場券を買いました。その時、係の型が色々言われたのですが、余りよく分かりませんでした。とりあえず、blackhouseへ向かいました。以前はこの中で入場券を売っていたのですが、今この中は完全に住居跡としての展示のみになっていました。相変わらずピートをリビングの中央で焚いていました。あのときもすごく煙かったはずでしたが、外の状況があってそんなに煙いとは思っていなかったのです。でも今回はさすがに煙くて…でも、その様子が変わっていなかったことに何となく嬉しく思えました。 外へ出るとその前に形式が異なるblackhouseがありました。こちらは屋根はありませんが、家は広く、納屋と牛小屋も厚い壁によって分かれていました。家の中にあったことは同じですが。壁の厚さがよく分かります。年代的にはこちらの方が新しいと思われました。 そして、新しい方(と思われる)の回りを彷徨こうとした時、側に’white house’と示されている家がありました。近代的な建物です。ここの写真を撮っていたら、先ほどの係の人がやってきてドアを開けてくれました。あの説明はこの家のことを言っていたようです。中にも入れるとの説明だったようです。全ての部屋は見ることは出来ませんが、中の調度品や食器、服などは’新しさ’を感じました。この家を見せることでblackhouseとの違いをよく分かるようにしているようです。 前回、ここへの訪問はその日の内でも最悪のお天気でした。バスの時間までblackhouseの中にいました。回りの景色を楽しむ余裕もありませんでした。今回、ここで青空も少しずつ見えてきていたので回りは”こんなに綺麗な所だったのね”と思いつつ往復、景色も楽しんでいました。そして、前回バスが来るまで待合所として使っていた電話ボックスも健在でした。位置がちょっと違うような気がしましたが…そして今回は、その隣に立派な待合いボックスが作られていました。そんな変化にもかかわらず、この村はまだ長閑な雰囲気は残しているようです。 |
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Geàrannan Blackhouse Village | |
blackouseは最後の居住者が近くのCouncil Houseに移住した1974年に捨て去られました。諸島のこのような家の最後の生き残り集団となり、興味深い背景を持っているため、blackhouseの重要性が認められ、blackhouse
villageは1976年11月に素晴らしい保存地域として正式に指定されました。1991年に修復が開始され、主要な作業は2001年に完成しました。 Geàrannanには少なくとも2000年以前から居住者がいましたが、blackhouse villageの起源は最近-17世紀後期になります。1850年のOS地図(Ordnance Survey地図、Britain島を細かく網羅、全204シリーズ)では現在の家の南側のSitheanに7つの建物があったことを示しています。その年には、農家は現在の配置になっていて、その後、家が今日見られるように建てられました。 農家はジャガイモやオート麦、大麦を供給していました。羊や牛が普通の牧草地で放牧され、荒野から燃料を取っていました。海は豊かで、収入はニシンや鱈の漁業で賄うことが出来ました。家は地域の材料を使って保全されていました。人口が増え、家族のつながりや友情、相互依存が配慮されていて、共同体に歓迎されました。 2つの世界大戦時には、村では地域雇用と新しい牧草地を探す若い人々の欲求がその世紀が発展した技術を狂ったように手に入れていました。伝統的な生活は1950年代後も続けられましたが、blackhouseは僅かの年老いた居住者のみになり、必要な保全が出来なくなりました。1974年に残りの居住者が新しいCouncil Houseに引っ越して、村は閉鎖されました。 見捨てられたblackhouseは急速に荒廃し始めましたが、その重要性が認められ、1989年にGarenin Trustが成立され、修復を開始し、9戸の建物と農家の”村”を復興させました。開館時間は4-9月の月-土曜日9:30-17:30。 Dun Carloway BrochからArnolのblackhouse Museumへ向かう途中、この村にバスが寄りました。次に降りる予定が同じ”blackhouse”だったので、ここ?と思って腰を浮かせました。Arnolのblackhouseはバス停から遠いはずなのに、すぐ側にあったのでビックリしました。しかし、私が次に降りる所を知っていたのか、通路を挟んで座っていた女性が、”別の所よ”と教えてくれました。帰ってから観光案内などでも確認しました。以前はなかったはず。あったら案内にも載っていたはずなので、この12年間の内に出来た新しい名所だと確信しました。お天気も良く1日余計に出来たので、この村へ行くことにしました。一般公開されたのが2001年だと分かりました。 入場料を払って村に入ると、先ず農家の生活を再現した家がありました。ここではツィード織りの再現もしていました。そして、パネルなどでの歴史の展示館がありました。家は9戸ありますが、入ることが出来るのは4戸だけです。4戸の内1戸は、カフェと売店(受付を含む)で、もう1戸はトイレです。後の2戸が展示館です。入ることが出来ない家は宿泊所になっていて、鍵がかかっていました。宿は自炊式のSelf-Cateringです。また1戸はユース・ホステルになっています。どうやって予約できるかはオフィシャル・サイトをご覧下さい。 一回りして、West Side Coastal Walk(下記参照)を歩き回った後、村に戻って北側のビューポイントへ登ってみました。そこから村が一望できましたが、家の屋根が片側しか藁葺きでないものがあることも発見しました(写真左の右側の家)。趣半減です。表だけ繕った?感じです。ここは私が意地悪して勝手に登ったという所ではありません。ちゃんとベンチがあり、村の配置や向こうに見える山の説明のパネルもあるのですから、正式のポイントなのです。そこから見えた景色がこれだったので、残念に思ったのです。ただ、まだ修復中らしいので、後2~3年後には藁葺き屋根になっているかも知れません。 |
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West Side Coastal Walk | |
Geàrannan Blackhouse Villageを海へ抜ける所にここから4km東にあるDail
Beagという村まで海岸を進むパスがあるとの案内がありました。パスは崖の上を通っています。大西洋を眺められるとあってこのパスをちょっとだけ歩いてみようと入りました。最初は崖の上に出なければならないので上りが若干急ですが、その後は緩やかになりました。パスは所々に指標がありますが、パスを少々はずれても迷う程ではありません。回りは湿地と岩だらけ。パスを外れると泥濘になっていたので、殆どその道順で歩いていました。その内、そのパスにタイヤの後を発見しました。チャリです。”こんな所も走るんだ”と。私のチャリ(ロードレーサー)では無理です。実際に走っている所も見かけました。 パスを最後まで歩く気はなく、一番高い所で引き返すことに。そこからは北の崖や南西の島々(左写真)が見渡せました。内陸部(右写真)も結構見渡せます。お天気が良い日に、歩きに余裕がある時はお薦めです。 |
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Butt of Lewis | |
Butt of Lewis (ゲール語ではRubha Robhanais)
はNess地区にあります。Lewis島の最北端に位置しています。ここには灯台があり、また近くの丘にはGPSの基地があります。 灯台への道にはStothと呼ばれる避難用の洞窟があります。道のもう一方にはぬかるんだ地層があります。崖には灯台の西へと続く大きな丸い穴があります。Buttの目(the Eye of the Butt、ゲール語ではSuil an Rubha)と呼ばれていて、晴れた日にはHabost Machair(灯台より南西2.3km辺りの場所) <Butt of Lewis灯台> 1862年にDavid Stevensonが建設。高さは121フィート(約36.9m)。赤い砂岩の壁が特徴です。数年前に英国でもっとも風が強い所としてギネスブックに載りました。 <Habost Machair> 植物学と考古学の両方から注目されている地区で、Clan Morrisonに関係する非常に歴史的な場所でもあります。また第二次世界大戦下で避難所捜索中に発見された青銅器時代の地下道があります。Machairに渡る土地に紀元前2000年までさかのぼる多くの先史時代の居住地もあります。 <St.Moluag's Chapel> 12世紀に建てられたとされています。1912年に修復されました。5-9月の間に月に1度の日曜日に礼拝が行われます。 |
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晴れた日があるなら北の端まで言ってみようと計画していました。運良く晴れた日が続いて、この日は最高のお天気になっていました。北の端に行くバスはPort
Nisを回ってStornowayに戻るバスがあります。1組のカップルも降り、帰りも同じバス停で待っていればいいと教えてくれました。そのカップルが左手に続く道を進み始めたので、そちらかと思っていくと行き止まり。彼らは引き返していました。それは分かりましたが、ついでに景色を眺めてみようと行き止まりまで進みました。そこからHabost
Machairが見えていたはずですが、その時は気付きませんでした。引き返してバス停に戻ると、先ほどの道に”Butt
of Lewis”の案内がちゃんと立っていました。 かなりあるいた頃にやっと灯台が見えてきました。この辺りが最北端ですが、そんな印はなく、崖の上を適当に歩いていました。崖の上からは水平線が綺麗に見えました。 |
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Steinacleit Cairn and Stone Circle | |
丸石の配列が石室にくっついた状態で並んでいて、おそらく大きな穴を覆った場所であることを示しています。楕円の片方には低い壁で囲われています。この機能と時代はまだ分かっていません。Outer
Hebridesの民間伝説によるとおそらくこの場所は戦場だったと言われています。この配列は直径50フィート(約15.2m)の楕円形をしています。考古学者はこの遺跡が石室か住居の跡かに分かれています。時代は異論があり紀元前1800-1500年または3000-1500年の異なる範囲の出土品があるからでしょう。 幹線道路A857沿いのSiadar村、Loch an Dùinの奥にあります。 Butt of Lewisの帰りに寄りました。バスに乗る時に帰りに一旦ここで降りたいと言ったのですが、普通の往復切符のようで、帰りのバスの運転手にチケットを取られました。その運転手に説明するとチケットを返してくれ、遺跡の入口でちゃんと降ろしてくれました。案内もちゃんと出ているので間違えませんが、遺跡がどの辺りにあるのかその時点ではよく分かりませんでした。歩いていく内に丘の上に遺跡がはっきり見えてきました。案内は石室とストーン・サークルとありました。先ず石室を見つけました。その石室から伸びるように石が並んでいました。それを追っていく内に次第に輪を描いていることに気付きました。その石の列がストーン・サークルだったのです。輪が大きい!一般的なストーン・サークルとはちょっと違うようでした。目的が異なるのかも知れませんが、そこまで詳しくないので、後は考古学者に任せましょう。こんな作りは初めてだったので、とっても不思議な遺跡に思えました。近くのLoch an Duinの中央にはDunの遺跡があることも分かりました。 |
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Clach an Truiseil(Truiseil Stone) | |
Scotlandでもっとも高い5.8mのスタンディング・ストーンです。地下は2mと推測されています。この大きなスタンディング・ストーンの真の目的は実際には分かっていません。多くのスタンディング・ストーンの様に、大きな戦いの場所を示すものと言われてきています-しかし実際にはストーン・サークルからは離れた直立の石です。円の中の場所を締めてはいますが、中央ではありません。ノルマン人の侵略者とLewis島の居住者の伝説では、この石に近い戦場で亡くなったノルマン人の王子の墓と言われています。戦場はすぐ側でした。他の説としては、それは海の指標で、近くの海岸にはまだこの地域の安全な港の一つとなっています。 最後から2つ目の石は1914年になくなり、まぐさ石(窓・出入り口の上に水平に渡した石、’まぐさ’は木へんに眉)として使われました。 考古学者は大きな石を立てた新石器時代と青銅器時代の手法であるかはまだ分かっていません。 幹線道路A857から北西に入ったBaile an Truiseilの海に近い所にあります。基礎部分から北東にはSteinacleitのストーン・サークルはっきり見えます。Calanais Standing Stonesは南西20マイル(約32km)にあります。 Steinacleitに近いので歩いて行け、次のバスまで間に合うと頑張りました。Steinacleitが予想よりも大きかったので時間を食いましたが、何とか間に合いました。幹線道路を入った所で、車に乗ったおじさんにこの石はちょっと歩いて農場の左を入ったら見つかると教えてくれました。道を聞いたのではなく、勝手に教えてくれました。そしてこの石を見た途端、”でかい!”。人が映り混んだ写真は見ていたのですが、実物は一層大きく感じました。高さもそうですが、回りも結構太いです。一回りして、急いでいたので余りゆっくり出来ずに早々に引き上げました。 |
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その他 | |
その他、ちょっとだけ眺めたものを挙げておきます。
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