St Kildaに行った後はOuter Hebridesを一旦南下してBarraまで行き、そして北上してNorth
Uistまで戻る予定にしていました。St Kilda行きがどうなるか分からなかったので、Barra島の予定が未定でした。North
Uistの滞在は決めていたので、St Kildaの後が6日空くことになりました。Barra島に6日も滞在するよりもその手前のSouth
Uistに2日泊まることにしました。そのもう1つ手前のBenbeculaはツーリスト・インフォメーションがないためもあって、通過することに。もし行きたければ日帰りも可能な所です。幸い出発のLeverburghからBarra島のCastlebayまで都合良くバスとフェリーで乗り継いで行くことが出来るようになっていました。North
Uistへは先ずLeverburghからBernerayへフェリーで渡り、そこからNorth
Uist、Benbecula、South Uistを通りEriskay島に着き、そこからフェリーで渡るコースです。South
UistではLochboisdaleに泊まることにしました。
LeverburghのBunkhouseではフェリーの時間までロビーにいた人達と話したりしていました。家主の青年と同じ船だったスウェーデン人のお父さんがSt
Kildaの話をしていたので、ちょっとだけ会話に参加していました。朝食を取ろうとすると同室だったWales人が”ミルク、要らない?”と。出発するのにもらってもしようがないので断りました。こういう所では余分の食べ物を残る人にあげているようです。宿代(+洗濯機使用代)の支払いを済ませ、港に向かおうとした所、この宿からStorowayに車で出かける女性が港まで送ってくれると言ってくれました。近いし下り坂なので大したことはなかったのですが、有り難く乗せて頂きました。ここは往復とも車でした。
フェリーは12年前より大きい船になったような気がします。以前はNorth
UistのNewton Jettyでしたが、今回はBerneray島です。港に余裕が出来たためでしょうか?大きくなったとはいえ、徒歩の人間はやはり、車と同じ入り口を通って、中でチケットを買っています。
Berneray島に着くとミニバスが居ました。これ?と思って運転手に聞くと確かにそうでした。一旦このバスでBenbeculaの空港まで行き、次に大型バスに乗り換えてSouth
Uistまで行きます。実はこのバスはEriskay行きで、Lochboisdaleには行かないので、Daliburghと言う所で乗り換えなければ行けませんでした。時刻表でこれに気付かず、更に運転手も別の乗客には声をかけていたのに、私には声をかけてくれなかったのでそのまま乗っていました。気付いたのはSouth
Uistの南海岸に着いた時です(ちょっぴり懐かしくもあったのですが)。今更降りるわけにも行かず、Eriskayの港に着いた時に運転手にLochboisdaleに行くはずだったことを告げました。このバスは次にLochboisdaleに折り返すのですが、フェリー待ちなのでかなり遅くなります。これで3回目のバスのトラブルです。宿が取れていなかったので4時前に着くはずが、5時を過ぎるのでとっくにツーリスト・インフォメーションは閉まっています。仕方ないので後は自力です。
やっとLochboisdaleに着き、ツーリスト・インフォメーションの隣にある公衆電話で空きを聞こうとしました。ところが電話がおかしくて、相手の声は聞こえているのに、こちらの声が聞こえていないようです。3回やっても同じだったので諦めて徒歩で探そうと歩き出しました。でも、余り家が多い方ではない所、どちらに歩いたらいいのか迷いましたが、とりあえず港の方へ歩いてみました。トランクを引きずりながらです。そして家が切れた所に丁度ホテルがありました。この際高くなるのは仕方ないので聞いてみることに。入った所はパブでしたが、私に気付いた女性が玄関を教えてくれそちらへ。受付にいたのは先の女性でした。どうして予約していなかったとか、他を当たってみたか?などと聞かれましたが、St
Kildaで予定が立たなかったことや電話の不具合の件を言うと納得してくれました。そして宿泊代を言われたのですが、最初は£60と言われたような気がしましたが、その後で確認すると£50。でも精算した時には£40でした。部屋にあったタリフは£50だったと思いますが…運良くシングルで2泊あったのは幸いでした。その後回りをウロウロした時見つけたB&Bは満室の札が出ていました。でも困ったのは食料品店が空いていないこと。乗り換えのDaliburghにはスーパーがあるのでそちらの方が良かったのかも知れませんが、Barra島での宿の予約を入れたかったのでツーリスト・インフォメーションがあるLochboisdaleが良かったのです。
Lochboisdale | |
この町に最初に住み始めたのは、South Uistが1838年にClunyのColonel
Gordon(AberdeenshireのSauchenに近い所にお城がある)が買った後に島の西側から移ってきた人々でした。LochboisdaleはLochmaddyやCastlebayのように長い歴史的な系図はありません。Loch
Boisdaleに突き出た岬では19世紀にブームとなったニシン業に刺激を受けて町は大きくなり、South
Uistを訪れる人達が使う蒸気船が横付けされる埠頭が増えていきました。 町は、後にニシン業をベースにした商業活動に調達された電報局に変わった郵便局が作られた1881年に知られるようになりました。しかし、それは58年後の1939年までで、その時までLochboisdaleは’List of Telephone Exchanges(電話交換局)’郵便局と記録されていました。 現在、Oban空のカーフェリーの港であり、またBarra島のCastlebayとのサービスもあり、重要なターミナルになっています。Lochboisdaleは何年にも渡って少しずつ変わっていて、古い建物の’古風な’形かがなくなり近代的な形に変わっています。ホテル、銀行、郵便局、ツーリストオフィスが町の中心にあり、1998年の人口は約300人でした。 前回はBarra島から船で来て、カップルが乗せてくれた車で去ってゆきました。滞在は2泊の予定でしたが、1泊で彼らの車でBenbeculaに行き泊まりました。ですから、居たのは約10時間程度。その間に睡眠時間が含まれるので殆ど見ては居ません。でも、回りには大して見るものはなく、港になっている入江Loch Boisdaleの景色くらいです。 投宿後回りを歩いてみましたが、食料品店(肉屋の奥にあったらしい)が見つからず、Leverburghで残していたものを食べることにしました。通りは人も歩いていない状態です。ホテルのパブは賑わっているのですが、そこ以外で見かけたのは犬と散歩をしている人くらいで、面白そうな所もなく早々と引き上げてしまいました。前回泊まった所を覚えていたので近くまで行ってみました。たぶん同じ家だと思われますが、B&Bもやっているようでした。同じ人とは限りませんが。港やその回りから見た景色は相変わらず綺麗でした。 |
島巡り
前回はカップルの車でちょっとしたポイントを訪れただけでした。今回は自分のペースで回ろうとしました。行き帰りはバスがあるので島の中部でも可能でした。ホテルにあった地図を参考にしましたが、歩いている時にも確認したいのでツーリスト・インフォメーションで地図を買い、またBarra島の宿の予約もすませました。何とか宿を確保できた後銀行に行き、それからバスへ。運転手にルートを聞いたらOrmacleit Castleの側は通らなくて幹線道路のみを走ると。それならスタンディング・ストーンに近い所で降ろしてもらうことに。でもそんなことの説明は面倒なのでお城に行くからこの辺りでとStoneybridge(Staoinebrig)で降ろしてもらいました。この日もお天気は良く、歩き回るにはとても良い日となりました。 | |
Standing Stone(1)~Beinn a' Charra Standing Stone | |
Beinn a' Charra(Charra山)の山麓に立つスタンディング・ストーンです。おそらく紀元前3000年頃のものとされています。高さは17フィート(5m)でそこからはmachair
land(低い土地)の海岸が眺望できます。 Stoneybridgeでバスを降り、少し戻って山へ向かう道を進みます。この道は整備されていて、目的地の上の方にある電話会社(BT、British Telecom)のためでした。そんな道を上りながら無事に見つかるのかと思っていると、やがて目的のスタンディング・ストーンが見えてきました。心配したのは地図にはあるのにはっきり分からないのも多いからです。道路沿いからちょっと離れているので、そこまでのパスを見つけながら進みましたが、全くそれらしきものはありません。何となく人が歩いた様な跡があったのでそこへ入りました。回りはヒースとピート(泥炭)を切り出した跡があるだけです。何とか近づくとその前に有刺鉄線の柵があり側には行けなくなっていました。回りを見てもスタイルやゲートもありません。BTの所有地?結局柵越しに片面だけを見ただけでした。 次の目的地に向かうため、来た道を下ることに。そこから見た景色はとても良かったです。西海岸を一望できる180°のパノラマでした。 |
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Standing Stone(2) and Cemetery | |
高さは約6フィート(1.8m)で他のスタンディング・ストーンと比べると少々歪な形になっています。場所はStoneybridgeから約2.4km離れた海岸沿いにあります。 こちらも道路を歩きました。途中、お手洗いを借りたくて学校の側にあったクラフト店(Uist Craft Workshop)によりちょっとした記念品を買って頼みました。お手洗いは学校のものを使わせてくれました。結果として高い買い物になってしまいましたが…。このお店の脇には小さめの風力発電用の風車がありました。こんな風車をあちこちで見かけました。ここにもエコ活動の一端を見ることが出来ます。 さらに海岸へと進むと”墓地はこちら”との案内がありました。スタンディング・ストーンも同じ方向でした。やがて正面に墓地が見え、右手(北)を見ると目的のスタンディング・ストーンが確認できました。そこへの道はなかったものの、放牧地の外になる海岸線を進むことが出来ました。こちらも放牧地の中でしたが、越えて入ることが出来るように柵が壊して(?)ありました。今度は側に行くことが出来、四方から石を眺めることが出来たのです。フィルムとデジカメのために2周してふと海岸を見やると向こうに牛がたむろしていました。個人の放牧地なので余り長居もせずにここを離れました。 その後寄る予定はなかったのですが、道案内にあった墓地も覗くことにしました。遠くからここの門や中の墓石がケルトクロスになっていたのです。中へは入りませんでしたが、塀越しに覗いていました。そしてついでにこの側で昼食を兼ねた休憩を取ることにしました。平日のお昼にこんな所に来る人はいないだろうと思っていると、海岸沿いを犬の散歩をしている2人が居ました。更に、後ろに自転車をつけたキャンピングカーが1台やってきて止まりました。思ったより賑やか(?)な所でした。 |
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Ormiclate Castle | |
現在は廃墟です。Clanranaldの首長(South Uistの首長?)の住まいでした。1707年に建てられ、7年後に完成しましたが1715年に事故による出火によって焼け落ちました。再建や修復は行われていません。フランス人の建築家とレンガ職人が建設のために雇われていました。訪問は可能ですが、城の壁は安全ではなく内部の構造も不安定なので、距離を置いて見て下さい。なお、Clanranaldのタータンは観光案内のリーフレットの表紙に使われています。 簡単な案内しかなかったのですが、スタンディング・ストーンを見た後に寄ることが出来る位置だったので行ってみました。休憩地の墓地からパスがあると地図にあったので進んでみたのですが、途中で消えていたり、ゲートをどうしても開けられないので困りました。仕方なく白い砂浜の海岸を進み、真西に当たる位置から放牧地に無理矢理入り込んで進みました。そこにもゲートがあったのですがこちらはすんなりと開きました。そして見たのが壁しか残っていない状態のお城で、危険なため中にも入ることが出来ない所だったのです。これまでの苦労は何だったの?、と思いつつ早々に去りました。歩いて暫くした時、カメラバッグが開いたままであることに気付きました。中を見ると単眼鏡がありません。小さいので落ちたことに気付きませんでした。でもお城に戻るにはかなり歩いています。次の訪問箇所は既に1つのスタンディング・ストーンを諦めていたのですが、もう1つのFlora Macdonald's birthplaceまでも諦めるわけにはいかないので単眼鏡は諦めました。城で落としたなら兎も角、その前の海岸で落としたかも知れないので戻っても見つかる可能性は低いのです。私にとってこのお城は悔しさだけが残っている所です。 |
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Flora Macdonald's birthplace | |
Flora MacDonald(1722 - 1790)の生誕地です。 1745年のJacobite蜂起:Scotlandの歴史でいくつかのエピソードには1745年のJacobite蜂起として不朽の魅力があります。そのエピソードはロマンティックな神話に浸っています。'Bonnie Prince Charlie'として知られるCharles Edward Stuartは亡命したJamesⅡ世の孫で、ハノーバー王朝のGeorge Ⅰ世に英国の王座を返還させようとしました。Jacobite軍は1746年にCullodenの戦場で敗北し、プリンスは逃亡することになりました。この敗北は国家に衝撃を与え、その後Highland地方の社会的及び経済的な変貌を与えることになりました。 Miltonの過去を探して:今日Floraが子供時代を過ごしたMilton地区は寂れています。Sheffield大学の考古学者がやって来て住居跡の発掘を行いました。 Floraの子供時代の家:彼女は1722年に生まれ、Miltonのここで子供時代を過ごしました。彼女のゲール語名はFionnghal nighean Ranuill 'ie Aonghais Oig an Airight Mhuilln(英語名はFlora daughter of Ranald son of young Angus of Milton、Miltonの年下の方のAngusの息子Ranaldの娘Flora)です。彼女はFloryという署名をしていたことで知られていて、後に英語風のFloraに変えました。 Jacobite軍がCullodenでの敗北した後、Bonnie Prince CharlieはFranceに逃げるまで逮捕に直面していました。英国政府軍が彼を捜している一方で、彼はUistで逃避の方法を探していました。彼の援助者達はUistからSkyeへ密かに送り出し、そしてFrance行きの船に乗せようとしました。Floraは彼らを援助することに同意しました。 ’Over the sea to Skye’:1746年6月28日にFlora MacDonaldと彼女のIrishの'Betty Burke'という侍女はBenbeculaからSkyeへ向かう海に船で乗り出しました。その侍女は変装したBonnie Prince Charlieでこの出来事は有名なSkye Boat Songに記念に残されています。 Bonnie Prince Charlieがに逃亡するためのこの大胆な策略での彼女の役割に対して、Floraは捕らえられましたが、Londonで釈放されました。1747年の解放後、彼女はScotlandに戻りました。 北AmericaでのFlora:Floraは1750年KingsburghのAllan MacDonaldと結婚しました。彼はSkyeでもっとも力のあるMacDonald一族の一員でした。しかしAllanは金銭的な問題を抱え、夫婦は1770年代に北Carolinaに成功の道を求めました。彼らはアメリカ独立戦争に巻き込まれ、Allanは英国側で戦い、Moor's Creekの戦いで捕虜となりました。Nova Scotiaで数年を過ごした後、結局は故郷のSkyeへ戻りました。 Floraの葬儀:Floraは68歳で1790年になくなり、SkyeのKilmuirに埋葬されています。数千人の人々が彼女のお墓に参っています。葬儀の行列は1マイル(約1.6km)の長さにもなり300ガロン(約1.36キロリットル)を超えるウィスキーが通夜で消費されたと言われています。 ここへは前回カップルが寄ってくれたので訪れてはいたのですが、あまりに短時間だったので自分のペースでゆっくりしたかったのです。3つ目のスタンディング・ストーンを諦めて、ひたすら幹線道路を歩いていると、親子(お母さんと息子)が拾ってくれました。”次はどこへ?”との問は私がまだ行きたい所があると分かっていたようです。そしてこの祈念碑の入口で降ろしてくれました。後で記念碑から幹線道路をポストバスが走っているのが見えました。親子が拾ってくれなくてもポストバスで移動し、帰りはコーチに乗っても出来たのでした。親子はここへの訪問を早めてゆっくりさせてくれたので、やはり有り難かったのです。 前回この記念地は適当に建てたのか?と思っていたのですが、今回生誕地は昔は家(Blackhouse)だったことが分かりました。回りの石積は壁だったのです。祈念碑はその中、つまり家の中にあるわけで、ちゃんとした場所であることを実感しました。回りにも昔の農家の跡がありました。そしてゆっくり家の回りを歩き、回りの景色を楽しむことが出来ました。 |
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最後の訪問地Floraさんの生誕地を後にして幹線道路に戻りました。時間があったので少し移動はしましたが、道の向こうにバス停のボックスがある所に着くと、さすがに疲れてそこで少し休んでいました。バスにも問題なく乗れ、今回は乗り換えもなかったので間違うこともなくLochboisdaleに戻りました。 |