前回の旅でIslay島のPort Askaigから日帰りで行こうとしたのですが、フェリーのトラブルで行くことができませんでした(Obanからは可能でした)。それならということで次(7年後ですが)の旅で宿泊してみようと思ったのです。しかもその間に、南のOronsayにスコットランド最古の人の骨が発掘されていたことを知りました。それで、Oronsayに渡る目的もあってColonsayに宿泊することにしたのです。
Colonsay宿泊の日程が決まったところで宿の予約をしようとしました。島にはホテルと港から離れた所にB&Bがあるのは分かったのですが、週末をまたいでいるので部屋が開いていない。そこで島のネットで探し出したのが宿がバックパッカーロッジ。最初はそんな宿とは知らずに1部屋が開いていたので予約をしたのです。そして場所を確認して、そんな宿だとわかったのです。バックパッカーではないけど、そんなことは問われないので泊まることができました。
CairnbannからOban経由で島へ渡ります。バスとフェリーの時間を調べたところ、Obanに宿泊することなく1日で移動ができました(曜日に依ります)。Obanでは駅のコインロッカーにトランクを預けて(鍵が壊れていてお支払いはしていない)、お昼とスーパーへ。宿に食事はない(キッチンはある)ので、スーパーで2日分の食料を買い出ししていました。残りは島に食料品店があったのでそこで賄いました。
Colonsayに着いた時、これも島の予約システムで宿までの車(公共交通機関がない)を頼んでいたにもかかわらずそれらしい車がないのです。しばらく待って、港湾関係の女の人が状況を分かってくれて、結局彼女の仕事が終わった後に宿まで送ってくれました。交通費(往復分)は既に払っていたので半分返してもらえると。でも、結局連絡できなくってそのままになっています。島内の移動は徒歩かレンタサイクルになります。チャリ屋さんも予約できますが、電話のみらしく場所を調べただけに終わりました。翌日その辺りまで歩いたらチャリ屋さんを見つけ、そのまま滞在中の期間の貸し出しができました。返す時は島のどこにでも回収に出かけるとのことで、宿に残すと言っておきました(貸し出す時も指定の場所-フェリー乗り場など-に持っていくとのことです)。チャリでの移動は良かったのですが、足を後ろから回すしかなく、降りる時に最初の2回転びました。またサドルが低く過ぎて、調整の仕方は知っていたものの力がなさ過ぎて結局そのままになり、坂道を上ることができませんでした。そのことは残念でしたが、正味4日間十分に楽しんで過ごしました。
コロンゼー島/Isle of Colonsay | ||
Colonsay島は南北に10マイル(約16km)、東西に2マイル(約3.2km)ほどの小さい島です。しかし、島には肥沃な牧草地、森、広い砂浜や高い崖、そして多くの種類の海鳥に恵まれています。夏には原っぱでタハクイナの鳴き声を聞けるかもしれません―見ることもたびたびあるでしょう。 人口は約150人(2014年、その後減少しているようです)、住居は道路沿いに散らばっていて、最大の村はフェリー乗り場があるScalasaigで、近くにはお店やホテルがあります。島には眺めが良い2つの高い山があり、1つはScalasaig西のBeinn nan Gudairean(136m)、もう1つは北の方のCarnan Eoin(143m)で、どちらも島のほとんどの場所から見ることができます。 <名前の由来> 恐らくSt Columba(聖コロンバ)の島。または、個人名に代わるものとしてKolbein(古ノルド語-北欧などで8-14世紀に用いられてた言語)から派生したともいわれています。後の部分は島を意味するey(古ノルド語)から派生しています。 島全体は岩だらけの感じですが、所々にある砂浜は写真映えがします。また、島のほぼ中央にある細長いLoch Fadaという湖も印象的です。道は起伏だらけで、チャリで回るのは少々難儀だったのですが、人気のある移動手段です。道は狭いので車が来ると徒歩やチャリでは端に寄って通ってもらっていましたが、その際必ず運転手が手を挙げてお礼をしてくれます。 左の写真は泊ったバックパッカーロッジの全景です。石造りでしっかりしていますが、結構冷えました。2棟が宿泊部屋。片方は家の中にキッチンとバスルームがありますが、私が泊った方は3部屋あり、バスルームは同じ建物内ですが、一旦外に出ます。キッチンは別棟でリビングも含めて広々としています。キッチンに電子レンジがなかったのが不便でした。 |
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交通 | ||
<海路> Caledonian MacBrayneがObanからColonsayまでの定期フェリー便を運行しています。夏期には週5便の運行、冬期には週3便の運行を行っています。またKennacraig(本土)からIslay島のPort Askaigを経由して夏期には週2便、冬期には週1便の運航をしています。所要時間は約2時間。勿論、天候によって航行は左右されます。運航時刻は曜日によって異なるので予定を立てる時に事前に調べる必要があります。車なら事前予約をしておいた方がいいかしれませんが、人だけなら当日でも構いません。いずれにしても乗船票(乗船時に渡す)の記入をする必要があります。 <空路> Hebridean Air ServicesがObanとIslay島からそれぞれ週1便の割合で運行しています。ネットで見たら小さいプロペラ機でした。この小さい島に空港があると知って行ってみましたが、空港というより原っぱに短い滑走路があるという程度のものです。幹線道路(?)から飛行場に向かう道がガタガタの砂利道でした。 |
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Scalasaig | ||
Colonsay島最大の村で、フェリー埠頭もここにあります。最大の村といっても人口は約120人で、家もまばらです。とは言え、やはり島の中心地でもあるので、食料品店(生活雑貨も含む)や教会、ホテル、郵便局などもこの村にあります。また、お土産の販売も兼ねたカフェもありました。日曜日には閉まっているので、買い物には注意する必要があります。 食料品店での買い物は現金払いでしたが、カード決済もできるようです。どんなカードが使えるかはわかりませんが、試してみるのもいいでしょう。ただし、日本との通信が生じて通信費が加算されるかもしれませんが。現金払いをした時に、小銭の種類にピンときていなかったので、あるだけをテーブルに広げたらレジの若い男性が必要な分を取ってくれていました。面倒な客でした。 |
島めぐり
海岸の眺め | |||
小さな島ですが、起伏が激しくチャリで回るにはかなり苦労しました。それでも島の眺めを何とか見ようとあちこち回りました。あまりの坂にチャリを置いて急な坂を上ったことも。そんな苦労をしてみた景色は素晴らしかったのです。
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遺跡 | |||
この島にも少ないながら遺跡があります。地図を見て探してみたのですが、必ずしも見つかるわけではなく、また到底行くことができない場所にあったりしたので残念ながら4ヵ所だけの確認に終わりました。しかも、近づけたのはスタンディング・ストーンとストーン・サークルのみで後の2か所は遠くから確認できただけに終わりました。
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道 | |||
島内の移動は基本はチャリでしたが、急な坂の手前ではチャリを置いてその先を歩いていました。そんな道をちょっとだけ紹介しておきます。 | |||
Kiloran Bayの砂丘から島の 最高峰Carann Eoinの中腹へと向かう急な坂道 |
Balnahard Bayに向かう起伏が激しい農道; 左の坂道の後での歩き |
Dun Eibhinnへ向かう道; あまりの泥濘のためここで引き返した |
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湖 | |||
島をまわっていると、湖を眺めながら走ったり歩いたりしていました。しかし、実際にはそれほど数があるわけではなく、その周りを道がぐるぐる回っているので違う方向から見ていただけでした。とりあえず、ここで紹介しておきます。
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オロンゼー島/Oronsay Island | |
この小さい島は北のColonsayと潮の満ち引きがある狭い浜で分かれています。伝説としてはColonbaがOranと共に最初に上陸したとされている場所です。その修道院は1360年に島の首長のJohnによって建てられました。 <名前の由来> St Oran(聖オラン)の島。Oldhrain(アイルランド・ゲール語の個人名)とey(古ノルド語)です。 小さい島とはいえ上陸地点から修道院までは40分くらいかかります。島全体はなだらかですが、歩くとアップ・ダウンもあり、思ったより時間がかかると思います。砂利道なので走るのは危険です。途中の道の一番高い所からの眺めは良いので回りの景色も楽しみましょう。 島へは干潮の時に渡りますが、その時間はColonsayの郵便局(食料品店の隣に併設)で聞くことができます。事前に近くの浜の干潮時を調べてはいたのですが、少しずれていると分かっていたので現地であらためて聞きました。その際に、渡り始めるのは干潮時の2時間前で、戻るのは2時間後までと注意されました。この意味わかりますよね? |
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交通 | |
徒歩のみ。車は島民のみが使用しています。浅瀬になった時に渡りますが、完全に干上がるわけではないので、長靴などのウォータープルーフの靴やサンダルなどに履き替えることをお勧めします。裸足では貝殻の上も歩くことになるので危険です。 |
9時40分くらいに砂浜に着き潮が引くのを待っていたのですが、10時くらいにカップルが渡り始め、他の人たちも後に続いていました。その時に完全に干上がるわけではないことに気づきました。それで私も砂浜を乾いた所を選んで歩き始めました。でも、とうとう潮の中に入らなければならなくなり、裸足になってゆっくりと水の中を進んでいました(約40分)。潮の中を進むことに気づいたのが旅に出た後のGlasgowででした。”Walks"という小冊子を買って読んだ時に知ったのですが、状況を実感したのは歩き始めた時でした。怪我はしなかったのですが、準備不足が悔やまれて仕方ありませんでした。これからもしこの島に行かれるようでしたら、履物の準備をして下さい。私以外はみんな準備していたみたいです。 | |||
砂浜の道 | |||
The Strandの最大の干潮時 2017年7月08日(土) 12:26 (月齢14.4) 2017年7月09日(日) 13:00 (月齢15.4) 2017年7月10日(月) 13:35 (月齢16.4) |
私の所要時間 10:10->10:50 The StrandをOronsayへ 10:50->13:22 Oronsay滞在 13:22->14:00 The StrandをColonsayへ |
(参考)Kiloran Bayの干潮時 2017年7月08日 12:20 2017年7月09日 12:52 2017年7月10日 13:24 |
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金曜日(7月7日)に干潮の時間が分かったのですが、お天気にも依ります。宿ではテレビは勿論なく、ラジオも電波をとらえることができなくて、天気予報が分かりません(ネットはPCが古かったので使用不可)。そして土曜日(7月8日)の朝、お天気が良さそうだったのでさっさと行きました。その判断は良かったです。翌日の日曜日(7月9日)は一日中雨でどうしようもなかったのです。更に土曜日にしたのは月齢です(旅行前に調査)。ほぼ満月なので干満の差が一番大きい日なのです。春頃が一番大きいらしいのですが、行ったのは7月なのでそれ程ではないにしろ、タイミングは良かったと思います。 渡った時間が行きと帰りが違うのは潮の浅さのためです。帰りの方がまだ最大干潮の時間に近かったので、裸足になる時間が少なかったのです。裸足で渡った後はソックスを履いてはいましたが、靴の中は潮水で濡れています。宿に戻ってティッシュなどを詰めて必死で乾かしていました。 |
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9:40過ぎ 浜に到着した時の様子。 まだ潮がかなり残っています。 |
13:25 Oronsay島からの様子。潮がちょっとだけ残っている。 しかし、すでに潮は上がってきている。 |
14:00 帰りの浜を渡り切ったところ。 まだ、後に人は続いています。 |
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修道院 | |||
言い伝えとして、聖コロンバがOronsayに最初の修道僧の共同体を作ったと云われています。しかしながら、その廃墟のどこにもケルト人の共同体のものと認識されたものは見つけることはできませんでしたし、初期のキリスト教の遺跡も見つかりませんでした。現在の小修道院は島々の領主であるJohn1世によって、彼がClan
Donaldの首長になった1325年と小修道院に関するもっとも古い文書-この家の名称不明な修道僧に対する教皇令-の年である1353年の間のある時期に、建てられました。最初の修道僧はおそらく、聖なる十字架に記された修道院の聖人名列から成るアウグスティノ会の修道長で、アイルランドからOronsayにやって来たのでしょう。 現存の遺跡は2つのグループから成っています。1つは2つの彫像があり、大十字架がこの島にもたらされそれは14-15世紀の年代のものです。もう1つは1500年と1560年の間に輸入された緑泥片岩のOronsay彫刻であり、多くは両刃の大刀または要注意人物の碑文のどちらかでした。 1500年の早い時期にOronsayの聖職者ケレスティヌスは回廊の再建を含む小修道院の復旧を指図しました。その石工はMael-Sechlainn O Cuindで、Ionaで大十字架を彫刻をし、それはOronsay教会の玄関の外側にColonsayのMalcolm MacDuffieによって建立されました。その教会の南側の私用の霊安室はMacDuffie一族のものです。2つの遺跡は、1500年以前の他のものと同じ様に、ほとんどはこの一族を記念品です。Oronsayの墓石板のうち4枚は首長と修道僧、そしてMacDuffieの2人の聖職者のものです。 地方の彫刻技術の養成所の普及のためにIonaからの記念碑に対する注文が不足した後に、Malcolm MacDuffieはおそらくMael-Sechiainn O CuindOronsayに来る様に説得することができたのでしょう。かつてOronsayでは、石工が小修道院を修復や再建を行っただけでなく、記念碑の彫刻の養成所を作りました。その養成所は60年間存在し、いくつかの異なった図柄の記念碑を作りました。IonaとKintyreの墓石に見られる巻き上げたというよりむしろ広がった帆のガレー船、そして、葉の上下、時には貫いた様な葉柄の植物のような図柄です。またOronsay彫刻は交わった三つの突出部がある8組の葉っぱが合わさった円形のデザインを大十字架の裏側からコピーしています。(写真左の十字架) また、作られた記念品は限られていて、後には小修道院を離れてOronsayから散財し、例えば、本土のLochalineやIslay島からBarra島やSkye島で見つかっています。Mariota MacIanの墓石板の上の子犬は変わっていますが、それらはまたAnna MacLeahのためのOronsayの彫刻された墓石にも見られます。彼女はIonaのアウグスティノ会修道院の修道長で、1543年に亡くなりました。その記念碑は、West Highlandの墓石版の中でも最も素晴らしいものの1つでIonaの博物館で見ることができます。 Oronsayに上陸してから約40分で修道院に到着。廃墟ですが、周りはきれいに草を買ってあって歩き易くなっていました。別の屋根がちゃんとついている建物があり中に入ると、墓石版の展示になっていました(写真右)。 約30分くらいはいたと思います。帰る頃には後からやって来た家族連れが、敷地内の草地でピクニックをしていました。ここでそんなことをしなくても…。 |
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遺跡 | |||
人間の指の骨:OronsayのCnoc Coigで発見されました。 Argyllでは農耕時代以前の典型的な埋葬地は見つかっていませんが、貝塚からは人間の骨-すべて指または足の指-が少し見つかっています。それらは一種の埋葬儀式であったというヒントを与えてくれます。そのような埋葬の詳細や心理、儀式が予測されます。この骨の形はこの人物がたくましい筋肉と力強い握り手をしていたことを示しています。 この島の地図にMesolithic Shell Mound(中石器時代の貝塚) を見つけ、その1つに修道院訪問の帰りにちょっと寄ってみようとしました。しかし、案内も目印もないのでその辺りをうろうろ。あきらめて来た道(勝手に歩いた所)とは違う道を進んですぐに小さいスタンディング・ストーン(ストーン・サークルの一部?)を見つけました(右写真)。その後は潮が上がる時間が気になったので元の道に戻りました。 そして、今回色々資料を見返していたら、人間の骨が発掘された所がCnoc Coigで、私が丁度うろついた場所辺りであることが分かりました。現地に行く時はBeinn Oronsay(島で一番高い山?)あたりだろうと行くのをあきらめていました。貝塚を探している時に東側の海とJura島の眺めが良かったので小高い所から写真を撮ってきました。Cnoc Coigはその小高い所か左写真の左側の小高い所かもしれません。”Cnoc”はゲール語で”丘”の意味なのでそう思えるのです。発見時の古い写真にもそんな”丘”を見つけたので、とりあえず載せておきます。 |