今は無き西日本鉄道/北九州諸線の軌道風景(1959〜1962年)
Past sceneries along Kitakyushu Lines of Nishi-Nippon Railroad Co.
in between 1959 and 1962.
西鉄/戸畑線:小倉市内
(1963-2-1 小倉市は北九州市小倉区となった。1974-4-1 小倉区は小倉北区、小倉南区に分割された。)
(戸畑線は、後の小倉北区内にある。)
日明(Hiakari)
北九州線の大門で分岐した戸畑線は、専用軌道、シンプル・カテナリ架線となる。
専用軌道区間では高速運転を行う。それで、閉塞信号機(2現示2位式)が設置されている。
大門を出ると、国鉄/日豊本線を渡る。そして、国鉄/鹿児島本線の南側に平行して進む。
日明―1961-7-2
左:大門方向。電車が停まっている所が、停留所である。
左に、西部(さいぶ)瓦斯/日明工場のタンクが見える。
右:中井口方向。板櫃川を渡った先に停留所がある。
日明西口(Hiakarinishiguchi)
1961-12-3 日明西口停留所が設置された。(それまでは、日明〜中井口間は1.2kmあった。)
「日明口」、「西日明」といわずに、「日明西口」というところが、西日本的である。
日明西口―1962-11-11
左:日明方向。右向こうに、西部(さいぶ)瓦斯/日明工場のタンクが見える。
右:中井口方向。遠くに、建設中の道路橋が見える。
中井口(Nakaiguchi)
日明西口流なら、中井北口というべきだが、中井口は、町名である。
中井口―1961-7-2
この辺りは、工場地域である。 左:日明方向。 右:中原方向。
西鉄/戸畑線:戸畑市内
(1963-2-1 戸畑市は北九州市戸畑区となった。)
中原(Nakabaru)
九州の地名で、「はる」、「ばる」の音に、「原」の字が当てられるのは、珍しくない。
中原―1961-7-2
左:中井口方向。左側、直ぐ近くに、国鉄/鹿児島本線(1961-6-1 門司港―久留米電化)がある。
右:工大前方向。
工大前(Kodaimaë)(Kyushu Institute of Technology)
300mぐらい南に、国立/九州工業大学がある。その前身は、私立/明治専門学校である。
近くの鹿児島本線に、1970-7-1、「新中原(しんなかばる)」駅が出来た。
戸畑線が廃止後の1990-11-1、新中原は、九州工大前と改称され、工大の駅名が復活した。
工大前―1961-7-2
左:中原方向。右に行くと、九州工大がある。 右:三六方向。
三六(Sanroku)
三六で専用軌道区間が終わる。
三六―1961-7-2
左:工大前方向。ここから東は専用軌道である。
右:幸町方向。左に賀来(かく)味噌の工場の煙突がある。
幸町(Saiwaimachi)
幸町では、枝光線が分岐している。
幸町―1961-7-2
左:三六方向。右に枝光線が分岐している。
右:電車が通っているのが戸畑線泥田(どんた)方向である。その手前で、国鉄/鹿児島本線を渡っている。
左の屋根のある中の島は、電車待合所である。待合所の手前と向こうに 枝光線がある。
遠くには、架橋工事中の若戸大橋が見える。
泥田(Donta)
近くに、八幡製鉄所戸畑工場の入り口がある。
後に、停留所名が「元宮町(もとみやちょう)」と変わった。
泥田―1961-7-2
左:幸町方向。路面の補修工事中である。工事車は三輪自動車である。
右:戸畑方向。戸畑行き電車No.136の向こうで、路面の補修工事中である。
その向こうでは、若戸大橋取付道路が建設中である。
戸畑(Tobata)
戸畑終点は、若戸渡船/戸畑渡場の前にある。若戸渡船は、洞海湾の入口(約300m)を横断して若松市に至るものである。
国鉄/鹿児島本線の戸畑駅とは、約400m離れている。
戸畑―1961-7-2
駅の手前から終端方向を見たものである。
駅の手前に交差亘り線がある。駅構内には3線がある。
右で、若戸大橋取付道路が建設中である。
戸畑―1960-2-5
西鉄の戸畑駅。出札口、集改札口がある。
駅舎の前に、西鉄バスが停まっている。尚、バス停留所の名前は「戸畑渡場」である。
若戸渡船/戸畑渡場―1961-7-2
渡場は、西鉄の戸畑駅に向い合っている。渡船は、約8分毎運航、所要約3分、料金は10円である。
右に建設中の若戸大橋がある。主鋼索は渡っているが、橋桁は未だ取り付けられていない。
尚、1962-9-26の若戸大橋完成後も、若戸渡船は運航されている。
若戸大橋:若松市の丸柏(まるかし)百貨店屋上から―1962-11-11
1962-9-26に若戸大橋が完成した。歩行者の渡橋料金は10円である。
若松で遅くまで飲んで、若戸渡船最終便に乗り遅れた時は、サンパン(動力付きボート Sampan)
を傭う必要があったが、
架橋完成後は、その必要が無くなあった。