Kilmartin

2010/6/23(wed)~6/25(fri),7/5(mon)

Inverarayから南へ向かうコーチ(バス)の予約はお昼近く。それまで宿に荷物を預かってもらい、町をちょっとだけブラブラ。お土産店でちょっとしたものを物色して、かなり早くにバス停へ向かいました。やって来たコーチは満席近くでしたが、予約をしていたのですんなり乗ることが出来ました。恐らく殆どの乗客はIslay島へ向かうフェリー乗り場Kennacraigで下りると思われました。私のその前Lochgilpheadで下りるのでたまたま空いていた一番前の座席に座りました。案の定、Lochgilpheadで下りたのは数名。その中の1人の男性は私と同じくKilmartinへの乗り換えでした。Lochgilpheadでは1時間半程の乗り継ぎ時間で、InverarayからLochgilpheadまでは40分、LochgilpheadからKilmartinまでは20分程の乗車時間で、乗り継ぎの時間の方が長いのです。長い待ち時間にもかかわらず、トランクがあったのであちこち行くことも出来ず、側のトイレと目の前にあるツーリスト・インフォメーションへ入っただけでした。。ツーリスト・インフォメーションではAncient Britainという地図を見つけ、これから向かうKilmartinの情報が手に入りました。
Kilmartinへ向かうバスはOban行き。こちらは予約は不要です。結構大勢の人が利用しているようですが、満席で積み残しになるようなことはないようです。予約した宿は幹線道路沿いのバス停の直ぐ近く。到着時刻も告げていたので、奥さんが待っていてくれて直ぐに入ることが出来ました。宿代は今回の旅行では安い方でしたが、部屋はとっても豪華に思えました。ティ・セットは普通の紅茶の他にフレバー・ティが箱ごと6種類、それにビスケットの小袋が山盛りあり、好きなだけ使ってとのことでした。朝食にはベジタリアン・ソーセージもありました。バス・ルームや部屋の飾り付けも素敵でした。今まで泊まった宿の中でもベストにはいる所でした。こちらが最初の3泊です。
さて、Kilmartinには当初4泊するつもりでしたが、最初の日程では村の何処にも空きが無くて、日程をずらしたのですが、交通の関係で日曜日の移動が出来なかったので、3日と1日に分けて泊まることにしました。交通のルートの都合上は問題がなかったので残りの1日をObanから南下する時に寄りました。Obanからのバスは既に学校が夏休みに入ったおかげで本数は少ないし、午後の便は1時間遅くなっていました。それに気付かずに午前の便を止めて午後にしたので、2回目のKilmartin滞在は短くなってしまいました。それでも、心残りになっていた所は訪れることが出来ました。(まだ、心残りの所はあるのですが。)
2回目の滞在は最初の宿と異なるバス停の目の前にあるホテルです。勿論こちらの方が高額ですが、部屋は最初の方よりずっと劣っていて、殺風景な上に、窓の外は建物の屋根。1階にあるパブとレストランの中を通って部屋に入るという不便さでした。おまけに、(ホテルのせいではないのですが)早朝に非常ベルが鳴りました。早朝出発の客がトーストを焦がして鳴らしたとのことでした。ホテルの人は親切で、悪くはないと思いますが、1回目の宿泊と比べてしまうので、ちょっと残念な印象になってしまいました。
この合計4泊で、村やその近くを精一杯歩いて回ってきましたので、ご紹介しておきます。

Kilmartin
Village of KilmartinLoch Fyneの中間辺りにあるLoch Gilpの奥にあるLochgilpheadという中くらいの町の北側約13km、Obanへ向かう道沿いにある村です。また、村の南約5kmにあるDunaddという村は850年まで現代のArgyll地方の殆どを支配していたスコッツ人王国Dalriadaの首都で、地図上でも非常に重要な場所です。
村の名前は”Church of St Martin”という意味で、Cill(ゲール語、Churchの意)とMhàrtuinn(ゲール語の’Martin’の表記)から成ります。St Ninianと考えられていますが、St Martin of Tours(聖Martinの巡礼)はScotlandゲール人の間では広く崇拝されています。Argyll地方にはこのCillを冠した名前の場所があり、この地域の中世初期のキリスト教徒が宗教的指導者の助言がよくなされていたと考えられます。10kmの範囲に少なくとも8つのCillがあり、1人の聖職者を見つけるにはそんなに歩く必要がなかったと言うことです。
Kilmartinは歴史上でもよく知られています。Kilmartin Glen(谷)の中心に位置していて、約10kmの範囲に少なくとも150の先史時代の遺跡と200の古代遺跡が点在しています。遺跡には埋葬の塚、彫刻がなされた石、スタンディング・ストーンがあり、Dunaddには要塞都市の名残もあります。
村にはB&Bが2軒、ホテルが1軒、雑貨や(郵便局を兼ねる)1軒、レストラン2軒(ホテル内と博物館のティ・ルーム)、パブ(ホテル内)はありますが、銀行はありません。博物館内の売店にはお土産店もあります。現在村は新興住宅エリアが整備途中のようで、山側に入ると新しい家々や道や広場がありました。また建築中の大きめの建物もありました。
入国審査時主な滞在地を聞かれてこの村を挙げたのですが、係官は知らないと。その前のInverarayは知っているが、ここは知らないとしつこく言っていました。小さな村なので歴史に興味がある人以外は余り知られていないのでしょう。ちょっと残念でした。
写真はNether Largie Northという塚の遺跡から見た村の眺めです。平地より少し登った所に村の中心地があります。
各遺跡の位置とCrinan運河(西半分)の地図
<地図上のマークの意味>
Cairn
Cup-marked Rock
Dun or Fort
Standing Stone(s)
Henge
Stone Circle
Cist
Cross Slab
Christian Site
Castle
Others
(朱色はHistoric Scotlandの管理下、オレンジはそれ以外のもの)

地図上の○の番号の名称(訪れた場所のみ、下記の説明番号にも相当。a~eは2017年に訪れた場所。”小さな島々、等々”を見て頂きたい。)
  1. Kilmartin House(Museum)
  2. Sculptured Stones(Kilmartin Stones)
  3. Glebe Cairn
  4. Nether Largie North Cairn
  5. Nether Largie Mid Cairn
  6. Nether Largie South Cairn
  7. Templewood Stone Circle
  8. Nether Largie Standing Stones
  9. Ri Cruin Cairn
  10. Poltalloch Church Cross Slabs
  11. Ballymeanoch Standing Stones, Kerb Cairn and Henge
  12. Dunchraigaig Cairn
  13. Dunchraigaig Cup-marked Rock
  14. Carnassarie Castle
(1)Kilmartin Houae(Museum)
Kilmartin House Museumは素晴らしく、どの見学者にも注目を引きつけ続けています。玄関の中央のテーブルには透明のアクリル樹脂で作られたドームに(Kilmartin)Glenの模型があります。他の注目すべき展示物には再現された(一人の利用の)かご舟やテレビのTime Teamのファンには親しみがある伝統的な工芸品などがあります。火打ち石の矢じりやナイフがどんなに精巧であるかを目の当たりにします。そして、それが肋骨の間に打ち付けられているは不快に思うでしょう。
見るよりも触ってみたい人達には、博物館は意外にも親切です。毛皮や皮革を吊す展示では実際その時代に生きるために行われていたことを理解することが出来ます。その頃はすべての服が他の皮革と同じように着古されるようになっていました。また、ここには他の頻繁な”Time Team”が小麦を製粉し、小麦粉、または我々の時代ではもっと小さく砂混じりの小麦を作るためにうす石を使っていたことを発見したことも展示しています。
チケットはビジター・センターの隣の入口を入った所で買うことが出来ます。またこの建物は素敵なカフェと地域の工芸品やScotlandとその歴史、考古学、野生生物などについて書かれた素晴らしく良い本を販売している売店があります。開館:3月1日~10月31日は10:00~17:30、11月1日~12月23日は11:00~16:00、12月24日~2月末日は休館
ここへはKilmartin到着の日に入りました。お昼がまだだったので、先ず併設されているティ・ルームで昼食を取り、その後中で繋がっている通路を通って売店でチケットを買いました。そして先ず、その2階のシアターでビデオ上映を見ました。この辺り一帯の歴史についてのビデオで、嘗ては幽霊の谷(Ghost Glen)と呼ばれ、発掘が進むにつれ、Kilmartin Glenと変わったとのこと。この谷全体が遺跡好きには魅力的な場所です。ビデオ上映後は隣の建物の展示館を見学しました。その間の通路から、直ぐ下の谷間にGlebe Cairnが見えました。放牧場の中ですが、側に説明板が見えたので近づいてみることが出来ると分かりました。
展示館は入口の部屋に発掘状況の展示があり、その先は5つの部屋に分かれてそれぞれのテーマにあわせた展示が行われていました。テーマは”Time & Landscape”、”Close to The Wind”、”Breaking The Earth”、”Heaven & Earth”、”Friends & Enemies”です。実際の遺跡を見て回る前にこの展示館を見学しているとよく分かると思います。また、展示と同じ内容が売店で販売されているガイドブックに書かれています。
(2)Sculptured Stones(Kilmartin Stones)
この墓石は年代順に並べられています。最も初期のものは、入口の左からで、1300年頃で、最も最近のものは18世紀初期のものです。
殆どは14世紀後期から15世紀にLoch Awe周辺で彫刻家の1つのグループの作業によるものです。
Kilmartin Stonesこの元埋葬回廊にある全ての彫刻石は嘗ては墓地の中の屋外にありましたが、天候からの保護と展示を更にしやすくするために屋内に移されました。その他は依然墓地の中にあります;その内7つの石はPoltalloch牧草地にあったもので(墓地の入口とここの間に置かれています)、やはりHistoric Scotlandの管理下にあります。
ここにある石は、ドアの上にある石室脇の石板の1つを除いては、全て墓石です。最も古い石板は、13世紀または14世紀のもので、入り口を通って左手にあります。残りはおおよその年代順に並べてあり、最後のものは1707年と1712年のもので、入口の右手にあります。
他の3つの壁とPoltalloch牧草地の石は西HighlandとArgyll地方で見られる作品の彫刻師によって彫られました。西Highlandの最も初期のものは14世紀後期のもので、Irelandから来た彫刻師によってIona島で彫られたものです;しかし多くの異なる’学校’や彫刻のスタイルは、作品それぞれは異なる工芸師のグループのものではありますが、14世紀から16世紀の間に存在していました。その内の1つは、Loch Awe学校とも呼ばれていますが、元々あったかKilmartinにとても近いものですが、教会の中にある大きな十字架はそのグループの作品であるとは思われません。
墓石は墓を覆った土の上に平坦に置かれていました。しかし、宗教改革後、多くの石が動かされ、1956年にこの屋内に移された時にはどの石もその元の位置には無かったようです。ここに絵が描かれている形と同じように、多くは甲冑ですが、剣やグロテスクな動物、大ばさみも彫られています。飾りの多くは葉飾りです。
<Poltalloch Stones>
Poltalloch牧草地の墓石は14世紀後期と15世紀にLoch Awe周辺の彫刻師のグループが彫ったものです。
博物館を見学した後、まだ十分に明るい師時間もあったので、近場をウロウロすることにしました。そして隣の教会(正確にはその回りの墓地)に人が入っていくのを見ました。教会の入り口は特徴的なアーチがかかっています。これはKilmartin Hotelの写真で見たものでした。これか!と思いながらアーチを潜って、正面の教会の壁を見るとKilmartin Stonesの案内が。てっきり教会の中と思って、入る人を拒まないので、中へ。中に3つ程の飾りが彫られた十字架がありました。それだけでも良かったのですが、あれほどの人が教会に向かっているのに、中は誰もいませんでした。そして外へ出て他の人を見ると、墓地の中に立てられた石造りの小屋へ向かっていました。つられていくと、こちらにKilmartin Stonesがありました。詳しい説明板と墓石が壁いっぱいに立てられていました。なるほど…ゆっくり眺めて、外へ。そこにはまだこのような墓石があるとの案内も。それがPoltalloch Stonesでした。全ての墓石はそれぞれの図案が異なっていて、古代遺跡ではありませんが、結構楽しめました。これがあるのはあくまで墓地の中なので、出入り自由、勿論無料です。暗いと照明はないので明るい内に見ておきましょう。(写真は、入口を入って正面に見える4体の墓石です。)
先史時代の遺跡巡り
(3)Glebe Cairn
Glebe Carinこの塚は、何年も前に発掘が行われ、青銅器時代(紀元前約1700~1500年)の典型的な埋葬塚です。塚の中央の下には、2つの石の石びつまたは箱が埋葬のために置かれていました。この中には磁器製の食料の壺があり、漆黒のビーズのネックレスが見つかっています。

博物館の野外通路から見えていた塚です。Kilmartin Stoneを見た後もまだ明るいし、時間的に余裕もあったので訪れました。教会の前には矢印で案内もしてあります。(坂を登った村の中心から)幹線道路の緩やかな坂を下った所に放牧場への案内が再びあり、キッシング・ゲートを抜けて進みます。轍が微かにありますが、これといってパスはないので草むらを適当に進んで近づきました。簡単な説明板を読み、塚を一回りした所で雨が降り出したので引き上げました。その時に博物館当たりから2人の女の子が走り下りてきていました。そっちにも道があるの?と。そちらに向かうと、斜面に人が歩いた跡が出来ていて、それを登ると行きに下った坂の頂上に行き着きました。柵がありましたが、その脇に抜けることが出来る隙間があります。隙間も十分だったので、そこから道路へ出ました。隣は博物館の敷地、目の前は泊まっている宿でした。めちゃくちゃな近道でした。
2日後、お天気が良く時間もあったので、写真を綺麗に撮りたかったので再びこの塚を見に行きました。最初に行った時は雨が近かったのでかなり霞んだ状態だったのです。
 
(4)Nether Largie North Cairn
  • 不可解なしるし
    この塚では頂上から入ることが出来る最近の待避壕の上部が再建されています。西Scotlandではこれは最も面白い彫りがある石板の1つです。
  • 線状に並んだ墓地
    Kilmartinの谷ではここは最も古い塚ではありません。塚の建造は600m南にあるNether Largie Southから始まりました。続いて塚のラインが谷の底に沿って伸びていきました。そこにはスタンディング・ストーンも立てられました;最も知られているのは紀元前3000年以前に作られたストーン・サークルがあるTemplewoodにあります。この塚はその約1000年後に造られました。
  • 塚以前には
    この塚は1930年に発掘され、その時にこの近くで直径14mで端が低くて殆ど円状の所に低い石の台座が発見されました。この台座には2つの小さいスタンディング・ストーンが立てられ、その1つの上に輪が彫られていました。その石の間には大きくて平らな石板がありました。その台座の中央には大きな墓が彫られ、石板が線状に並べられ、その上に斧の頭の絵とカップマークが彫られた石板を被せてありました。この石びつの北の端の石板もまた飾られていました。他の墓は北東の方に掘られていました。
  • 彫刻
    大きな蓋の石板はその上に穴をあけられた少なくとも10コの斧の頭があります;そのイメージは後に40を越えるカップマークの様なものが現れています。ふんだんな彫刻は非常に重要な人物がここに埋葬されていることを示しています。この点を強調すると、石びつの北の端の石板にも2つの斧の頭が掘られています。
  • 金属工達
    この回りには沢山の小さな銅の皿(錫と認識されてはいないが)が点在していて、彫刻の石板で分かることはこの人達が紀元前2000年頃に銅か青銅を使っていました。恐らく彼等はかなり裕福だったのでしょう;斧を交易していた農場主、猟師、漁師達でした。この時代にはこの地方に居住していたと言うことは発見されていませんが、恐らく人々は丸い家に住んでいたのでしょう。彼等はNether Largie Southからのような共同の石室がある墓に遺体が埋葬された人々の子孫でしょう。しかし、紀元前2300年頃以来彼等の祖先は個別の墓に遺体を埋葬してきました。
  • 未完成の物語
    ここにはまだ別の情報が埋められているように思われます;台座の下の古い地面の表面にはその地面が埋められた時にそのエリアに育っていた典型的な植物の花粉が含まれていました。Kilmartinの谷の回りには他の初期の遺跡が多くあります。このことからもたらされる結果はいつの日か我々に台座を造った人々とそれを覆った塚についてもっと多くのことを教えてくれるでしょう。
Nether Largie North Cairn2日目に一日中遺跡巡りをした時の最初に訪れた遺跡です。Kilmartinのバス停側の展望台からもよく見える所にあります。他と比べるとやや小さめの塚です。塚の周りを回っている内に上の方に何とコンクリートの土台のようなものを見つけました。何で?と思っている内に誰かが上に登った様な跡も見つけました。塚の石を崩さないように登ってみると頂上は何とコンクリートで固められて平たくなっていました。中央にはガラスのブロックで中が覗けるようになっていると思いましたが、実際には中は見えませんでした。その端には畳半畳くらいの板がありました。これに取っ手が付いていて、板の横にはレールまであります。この板が動かせるようで、取っ手の側にちょっとした注意書きがありました。そこで板をスライドさせてみると、何と中に入ることが出来るように階段がありました。そう、この板はドアだったのでした。下に下りてみると中には石びつと横にはその上に被せてあったらしい石板が立ててありました。石板にはカップマークも彫ってあります。中には灯りはありませんが、ガラスのブロックから外の光を取り入れているので明るかったです。入る時はドアが何かの拍子に閉まらないかと不安で、レールの上に側の石を置いて入りましたが、そんなこともなく無事に出て、石も元あった所に返しました。ドアは結構重くて、取っ手を引っ張っても閉まらないので、逆の方向から(足で)押して閉めました。小さいけれどもこんな見学を出来るのが特徴となっているようです。これからここを訪れる方、是非上に登って中を見ることを忘れないで下さいね。
 
(5)Nether Largie Mid Cairn
  • バラスの資源
    Kilmarinの谷底は紀元19世紀まではピートに覆われていました。ピートの殆どが剥ぎ取られた時に、農耕地は新しい生活の形を取り、谷にある塚の多くが牧草地の排水設備と道路用に石を提供するために盗まれました。この塚はバラスの当然の資源として提供していました。この塚とNether Largie Southの塚の間には嘗ては完全になくなってしまった1つの塚がありました。
  • 線状に並んだ墓地とTemplewood
    このエリアには(Nether Largie Southの様な)いくつかの石室がある墓があり、恐らく5000年前のこの辺りには農民の繁栄した共同体がありました。彼等は小麦と大麦を育て、楕円形の木の家に住んでいtました。紀元前2300年頃にはこの地域に新しい考えがもたらされました;人々は個別の墓に遺体を埋めるようになりました(それまでは時々古代の石室がある墓に埋葬していました)。線状に並んだ墓地の丸い塚が最初に造られる前には少なくとも数世代を経ていました。
    現在はその部分では少なくとも、一直線上に2kmに渡って5つの塚が残っています。最も初期の塚はNether Largie Southで、恐らく紀元前3000年以前に造られました。塚と同じように谷には多くのスタンディング・ストーンがあり、最も知られているのはTemplewoodの石の輪で、紀元前3000年以前に造られました。
  • 最も良い眺め
    ここは線状の墓地を眺めるには最も良い場所です。この塚は恐らく約3mの高さでした;北側にはGlebeとNether Largie Northがあります;南側にはNether Largie Southとその向こうに離れてRi Cruinが森に囲まれてあります。
  • 空の埋葬
    1929年にこの塚が発掘された時には、2つの埋葬用の石びつが見つかりましたが、両方とも空で、直径33mの塚の境界を明確にしている縁石の一部がありました。最南端の石びつには斧の頭が彫られたはっきりした痕跡があります。
    両脇に石板がある最北端のものは石板の端に溝が彫られていて、覆われていました;その位置はコンクリートの杭で分かるようになっています。上に5つのカップマークがある石はこの塚の本体で見つかりました;たぶん、デザインと言うより偶然に一緒になった、またはたぶん壊された墓の一部分であることを表しているかです。彫りのもっと良い例はNether Largie NorthとRi Cruinで見ることが出来ます。
Nether Largie Mid CairnNether Largie Northの直ぐ南側にあり、一旦この塚を通り過ぎて、戻ってきました。この回りは放牧地で、丁度トラクターで草刈りをしている所でした。刈った藁が飛んでくるためか、すぐ側で刈る時には警笛を鳴らされました。塚の見学自体は全く問題ありません。塚は半分くらいは石が無くなっているようで、盛りもかなり低くなっているようでした。Nether Largie Northのこともあったので、塚の上まで十分に見て回りました。こちらの方は石室も崩れて若干の形跡があることが確認できる程度です。他にこれといって特徴はないのですが、一連の塚の遺跡群で見ない訳にはいかないでしょう。
 
(6)Nether Largie South Cairn
  • 最も初期の塚
    ここの巨大石の石室がある墓が最初の造られた時、線状に並んだ墓地の他の塚はまだありませんでした。実際、この塚は恐らく形は元々は全く違っていました。そこから出土した陶器が全て後のものではあるのですが、紀元前3000年以前に遡ります。
  • 石室がある墓
    塚の中央にある石の石室はArgyll地方とArran島で良く見られる典型的なものです。恐らく石室の回りに台形の塚があったのでしょう。それは後に円形の塚で覆われました。石室の中に見られたものは1864年に発掘されてからは変わってきましたが、中心となる構成は同じです;長さ6mを超える大きな石の箱と3つの平たい石板で分けられた1mと2mの間の広さの4つの仕切です。
  • 古代の陶器と焼かれた骨
    1864年に発掘された時、石室の南端にかけられた石板は2つの石にもたれかかっていました。その側には早い時期に盗掘された小さな石びつがありました。仕切の底は2体の焼かれた骨と黒い土で埋められていました。黒い土の中で発見された丸底の壺は紀元前約2400年に遡ります;似たような壺がBute地方の居住地で見つかっています。
    隣の仕切も黒い土にの中にあり、焼かれた骨で満たされていました。その表面には少なくとも3つのビーカーが残っていました。それらは3つ全てが初期のタイプのため特に興味深いのです。最も保存状態が良いものはドイツのライン川付近で見つかった壺を思い出させます。その全ての壺は紀元前2000年に先立つ直近の世紀のもので、最も遅い埋葬にそれらが置かれたと見られます。ビーカーは紀元前2300年頃にBritain島に現れています。その使用は侵略と言うよりも考え方の変化からきたと思われます。ここの墓への埋葬のような他の習慣は、銅製の道具と武器を使うことを考えたようにその当時頃に現れました。
    ビーカーは紀元前2000年に先立つ直近の世紀に遡り、最も遅い埋葬にそれが置かれたとしてきました。その時期は恐らく線状に並んだ墓地の他の塚が最初に造られた直後でしょう。
  • 後の埋葬
    元々の塚は、それが40mを越える広さになるまで紀元前約2000年にかなりの大きさになったと思われます。1864年に2つの石びつが見つかりました;まだ南の方向に見ることが出来ます。北の方にある他の石びつには全面に飾りがある小さな球体がありましたが、最悪なことにそれがどんなものか確定できません。
  • 線状に並んだ墓地とTemplewoodThe Linear Cemetery and Templewood
    KilmartinからRi Cruinまでの2kmにわたる線状に並んだ立派な墓地はNether Largie Mid cairnで明確になっています。谷に立てられたスタンディング・ストーンではここから250m離れたTemplewoodのストーン・サークルがよく知られています。それらは紀元前3000年以前に立てられましたが、それらと石室があるここの塚が同時代に使われていたかどうかはまだ分かっていません。
Nether Largie South CairnNether Largie Midから南下する時に、このエリアに幹線道路からやって来た道まで戻りました。そこは地図上では三叉路だったのに、実際は十字交差点でした。どちらに進むの?と一瞬迷いそうでしたが、左手は幹線道路からの道、右手は側の民家に続く道で先は行き止まりでしたので、真っ直ぐ進めば良かったのです。そしてその先にはこの塚もちゃんと見えていました。何を戸惑っていたのでしょう?この塚は中央にはっきりとした石室があり、子供なら中に入ることも出来るような大きさでした。回りを良く見ると、更に小さめの石室跡らしき石板もあり、見落とさないように2回くらいは回っていました。前日訪れたGlebe Cairnも含めてここまでの4つの塚が線状に並んでいる様子が見て取ることが出来ました。
 
(7)Templewood Stone Circle
<Northern Circle>
2つのサークルの内の1つです。北側のサークルは紀元前3000年以前に造られ、やがて南側のサークルに置き換えられました。2つのサークルが使われていた時代にはKilmartinの谷の大きな塚が造られていて一連のスタンディング・ストーンが立てられていました。次の世紀を跨って、北側のサークルはこの場所には土がのっていた痕跡はないのですが、谷の底に広がっていたピートに覆われるようになりました。それは隣接したサークルが発掘された時に見つかっただけです。もしこれが長い間隠されていたなら、恐らく同じ時代の他のこのような場所を踏みつけていたことでしょう。
紀元前3000年以前、材木の構造が北側のサークルが現在ある所に造られました。立っている材木用の軸受けは1970年代の発掘中に発見されました。この構造を造った人々は北から南に向かって同じ高さの大きな柱を4本並べました。並べられた柱がどの場所にあったかは不確かです。この構造の時代だけが炭素分析で一つだけと分かっています。
材木の柱はやがて石に置き換えられましたが、サークルは完成しませんでした。彼等がどうやって石を立てたかは分かりませんが、彼等は完成する前により大きい南側のサークルを造る決心をしたのです。
中央の石は南北の軸に沿っていて、同じ軸の回りの軸穴の並びはその設定が太陽の動きを記すために造られたことを示しています。その時代の動きの正確な知識はこのような構造から得ることができたと論じられてきました。
この場所の面白い様相は内部に広がっている石の層です。それはこの場所の廃棄をじっくり考えることが出来るように思われます;谷-Nether Largie Mid Cairnの別の場所で同様の行動を見つけるでしょう。これはこの場所の力を保つ方法を急いで作り上げたと言うことでしょうか?それともそれをもみ消す試みがなされたのでしょうか?
石と材木の軸受けはサークルの中に印があります。
 
Templewood Stone Circle Northern Circle更に南下すると木立の中にこのサークルを見つけました。石垣の囲いの中に2つのサークルがありますが、もちろん出入りは自由です。この場所はストリート・ビューで見てはいたのですが、2つあるとはしりませんでした。南下すると北側に古い方のこのサークルがありました。サークルといっても石が低く積まれているだけなので、ストーン・サークルとは思ってみていませんでした。名の通り木々の中にあるので、これまで見てきた4つの塚とは雰囲気が少し変わったように思えました。塚が崩れた様な形にはなっていますが、僅かに立った石が2つ程あるので、かろうじてストーン・サークルと思えます。
 
<Southern Circle>
現在1818年に発行された写真の眺めとはかなり違った眺めになっています。前景に南側のサークルがあり、後ろにはNether Largieの大きな塚、そしてそのずっと向こうにスタンディング・ストーンがあります。農業の進歩が谷で始まってはいましたがピートはまだ切り出されていました。この時代のロマンティックな考えを保ちながら、石は樫の木を植えて飾り付けられた様子を保っていて、TempleまたはHalf Moon Woodと呼ばれていました。
1920年代の発掘と1970年代の再発掘では2000年以上もこの場所に一連の出来事があったことが明らかになりました。このストーン・サークルは紀元前3000年以前のものと思われています。北端の石は渦巻きの印があります;これと同心円のものは太陽崇拝に関連しているのでしょう。これと同じように立てられた小さい石は他のストーン・サークルで見つかりました。最初の塚は紀元前2000年後のにサークルの外に造られました。恐らくサークルの内側は未だに神聖です。この塚は平たい上部に縁石があり石びつもあります。南西の石びつには子供の身体が入っていました。
北東の塚も発掘されました。
北東の石びつからは大人の身体の跡が見つかりました;ビーカーと火打ち石もこの石びつで発見されています。他のビーカーは谷のどこかで発見されています。間の石板は紀元前1700年頃にスタンディング・ストーンの間を埋めるために使われていました。サークルの使い方は変わってきています。石板は内側に容易に入ることが出来ないようになっている一方で外からは見えないようになっています。サークルの石の1つは内部の石板に合うように溝が彫られています。他の部分は切り取られました。
外側の淵は付け加えられました。
石は盛り土に厚みを付けるために内部の石板を背後に慎重に置きました。
新しい渦巻きが、恐らく最初の石が部分的に盛り土に隠されるために、最北端の石に切り付けられました。
中央の塚は紀元前1400年と1200年の間に造られました。
別の小さい太鼓型の塚は中央の塚とストーン・サークルの間に置かれました。発掘時これが2つの塚に見えたのでした。これらは炭素分析で時代が確定されました。
2つ目の塚がサークルの内部に置かれた直後、両方の塚が石によって覆われました。別の火葬が追加されました。
ピートがこの地域を覆い、スタンディング・ストーンがそのピートに突き刺されました。中世時代またはそれ以降にサークルの東側の石が他の使用のために取り去られました。里程標に削られて壊された石はその位置に置かれました。19世紀の農業の発達に伴って、原野の石はサークルの中に投げ捨てられ、内部を覆い、盛り土の上の部分を形作っていました。これがサークルの再構築をした段階なのです。
 
Templewood Stone Circle Southern Circle北側のサークルを見た後直ぐこちらに移りました。直ぐ隣です。こちらの方はストーン・サークルもよく分かりました。見た目にもこちらの方が新しそうです。ストーン・サークルだけでなく回りに石積があり、その中に石びつもあったのでその分こちらの方を長く見学していたように思います。ストリート・ビューで確認していたのはこちらの遺跡で、通りからもこちらの方が目立っています。道から見えにくい北側の方は説明板も隣同士、すぐ側にあるので見逃すことはないでしょう。時代が異なるので2つを見比べるのも良いでしょう。

 
(8)Nether Largie Standing Stones
この有名な場所は測量され多くの作業者達に分析されてきていて、ここの石は恐らく月の観測所として機能を果たしていました。
この広場には6つの目立つスタンディング・ストーンがあります;その内の5つは十字の形に広がって立てられていて、その軸は北西から南東になっています。1つを除いては石にはカップマークがあり、特色のある中央に石には40コのマークと3つのカップと円のマークが施されています。この直線上の石は大きくて、全てはほぼ3mの高さです。他の小さい石は中央のグループの北西100mに立っています。
また、4つの石板が小さい四角形の置かれていて、1つは近くに中央の石を囲むように置かれ、他は南に向かって並んでいます。ここのスタンディング・ストーンは注意深く選ばれた位置に立てられてきたようです、そうやって、この地域の地平線に併せて、月道の北端と南端の両方の位置を示しています。南側の2つの石の間に立って北西を見ると、観測者は低い丘の縁を見ることになります。水平の高さ4°を超えて約318°の方位は月道端の満月の位置となる北端(冬至の位置)を表しています。中央の石の平らな表面はまた地平線のほぼ同じ位置を示しています。
北側のスタンディング・ストーンは中央の石から南側の石まで眺めることが出来、観察者は(お天気が良ければ)206.5°の方向に約6.4km離れたBellanochの丘を眺めることが出来ます。この眺めは部分的に木々で遮られています。これは満月が最も南に来る(夏至の)位置を示しています。それで、Nether Largieの石は西の空の月道の両端を示しています。月道の端は、月道の端の前後には一番端にある月がその位置に近かいのですが、19年毎に一度だけ位置が合います。この場所は恐らくScotlandで最も重要で一貫した月に関連した場所で、現在建物と木々に囲まれたBarbreck House(Kilmartinの北の方にある屋敷)に関連した所は別ですが、他には類似するものがありません。
ここはまた気に留めるべき価値があり近くにあるTemplewoodの2つのストーン・サークルの発掘者は北のサークルの地域がそこにも天文学上の線が組み込まれていると示していました。Jack Scottは不完全な輪の場所には発見された木製の構造物があったと信じていました。それらの構造物は南北の軸に置かれ正午の太陽の位置を示すために使われていました。2mの長さの石板は、北側のサークルの中央にまだありますが、南北の線に正確に置かれ、Nether Largieの石達を見学する内にこのサークルを注意深く見ることになるでしょう。
 
Nether Largie Standing StonesTemplewoodから道を渡って柵の間のパスを通ることが出来るようになっていました。このスタンディング・ストーンはTemplewoodからもよく見えます。ここはこれまでと違ってHistoric Scotlandの管理下にはないようで、何の説明板もありませんでした。前日見たKilmartin Houseでの映像にスタンディング・ストーンが写っていたのですが、そことばかり思っていたのですがこことは違うようでした。この時はまだこの辺りの遺跡群の状況がよく分からなかったので、不思議だったのです。あれは何処?と思いながらも、ここのスタンディング・ストーンも見応えは十分でした。表面に彫られているというマークはあまりに石にとけ込んでいてよく分からなかったのが残念です。せめて説明板があると確認できたのですが。写真は遠くから振り返って撮ったものです。男性がメジャーの役割をしてくれています。この中央の比較的大きめの石にマークがあるようです。
ここを見た後一旦休憩しました。Templewoodとは逆の方向にも出入口があって、その先に駐車場があるのです。休憩はそこにあった大きな石の上で取りました。車の方はここに止めて、私が歩いた方向とは逆の方向で遺跡を歩いて回ることが出来るようです。私がいた時も3~4台の車が止まっていました。道は幹線道路A816からB8025に入った直ぐの所です。

 
(9)Ri Cruin Cairn
  • 盗掘
    多くの先史時代の塚のように、Ri Cruinは破壊されている間に最初の注目されました。1830年頃、埋葬の石びつが明るみに出た時に、盛り土からバラスが無くなっていました。後に、家が近くに建てられ、石灰焼きかまどが塚の西側に掘られていました。1870年までにそれは殆ど無くなりましたが、珍しく興味深い僅かなものが残されていました。
  • 線状に並んだ墓地
    Ri CruinはKilmartinの谷でも最も初期の塚です。塚は900m程北から造られ始めました。一直線に並んだ少なくとも6つの塚が谷の底に沿って延びていました。そこにはスタンディング・ストーンも立てられていました;最も知られているものは紀元前3000年以前にストーン・サークルが造られたTemplewoodにあります。Ri Cruinは1000年後に造られました。
  • 淋しい遺品
    Ri Cruinは1870年に発掘され、1936年に再発掘されました。 塚の殆どの構造物は盗掘にあっていました;東側の短く延びた所の縁石だけが残っていました。恐らく先史時代の歴史上、少なくとも1回は修正されたことを示すものは十分にありました。中央の石びつは恐らく最も初期のもので、南側の側にあるものは2回目のものであることははっきりしています。南端にはたぶん異なる塚が並んでいた遺品がありますが、それが他の石びつより前のものか跡のものかは分かりません。
  • 金属工と彫刻師
    南端の石びつは非常に興味深いです。西端の内部の表面には少なくとも8つの斧の頭の彫刻があり、硬い石の石板では突いて造られたものがあります。石びつの東の端にはユニークな彫りがあり、他の解釈がありますが、恐らく革のボートの肋材と竜骨を表しています。その彫りは破壊されましたが、レプリカがQueen StreetのRoyal Museum of Scotlandに残っています。この直ぐ北にある石びつには端の石板を合わせるために縦に溝が彫られた石板が脇にあります;端の石板は石灰焼きかまどを造るために剥ぎ取られています。
  • 塚の建設者達
    塚は紀元前約2000年に地域の人々によって造られました。資源はこの地方の銅(錫は知られていませんが)で、斧の頭の彫りで分かるのは彼等が武器や道具を造るために銅や青銅を使っていたことです。恐らく彼等はかなり裕福だったのでしょう;斧を交易していた農場主、猟師、漁師達でした。この時代にはこの地方に居住していたと言うことは発見されていませんが、恐らく人々は丸い家に住んでいたのでしょう。彼等はNether Largie Southからのような共同の石室がある墓に遺体が埋葬された人々の子孫でしょう。しかし、紀元前2300年頃以来彼等の祖先は個別の墓に遺体を埋葬してきました。
  • 未完成の物語
    近代的な技術の進歩無しに発掘されたため、塚について多くのことは分かっていませんが、この地方には他の多くの初期の場所があります。その結果はRi Cruinを造った人々についてもっと多くのことを分かるようになるでしょう。
Ri Cruin Cairn駐車場での休憩中、現地の説明板の地図を見ると、南にもう1つ塚があるとなっていました。塚に近づいた時には家が側にありました。塚はこの時点ではまだ見えていませんが、石垣を超えて細いパスを進めるように案内がありました。その入り口の側にHistoric Scotlandと書かれた車が止まっていました。一体ここで何をしているの?と思いながら細いパスを抜けて塚に到着すると2人の男性が塚をあちこち回っていました。1人は石積みの上で枯れ枝などを拾っていました。彼等がHistoric Scotlandの人達らしく、定期的に管理下にある遺跡を回って保全しているらしいのです。欲しい所に案内がなかったり、もっと説明が欲しいなどと不満もちょっとあるHistoric Scotlandですが、こんなこともやっているのですね。ちょっと見直しました。
この塚はU字型の石積みになっていました。元は丸かった?ここもゆっくり回りを2回程回ってみていました。長い石板が横たわっていたので近づくと石びつのようです。それが他にもあるので、見過ごすことがないように見て回ったのです。鬱蒼とした森の中にあり、静けさがひどくしみいるような所でした。

 
(10)Poltalloch Church Cross Slabs
Poltalloch Church Cross SlabsSt Columba礼拝堂の北側の墓地に2つの初期の十字架が彫られた石板があります。1つはBarrnakillからのもので文字が彫られ絵が描かれています。もう1つはOib Mhorというラベルがあり、平面に十字架を刻まれています;後者には、丸い輪の中に十字架があり、その縁の交わった所には窪み、長い柄の跡、あるいは輪の上に伸びた頭があります。
教会の概要
廃墟となったPoltalloch House(William Burn 1849)の穏やかな緑地に、St Columbaは個人用の礼拝堂を考えていましたが、集会と牧師がいる教会として立てました。LondonのWilliam Cundyによって葉っぱの彫りと尖ったアーチの初期Englandスタイルでデザインされ、1852年に建てられました。William Wailesによるステンド・グラスで完成しました。1855年にはGray & Davisonによってオルガンが、2つのWhitechapel Foundryのベルが、そして3つのミゼリコード(唱歌隊席のたたみ込み椅子の裏に取り付けた持送り;起立の際に支えとなる)の席があります。
 
 Ri Cruinを見学した後、Ballymeanoch Standing Stonesに行こうと思ったのですが、その前にちょっと寄り道をしようと考えました。このPoltallochにCross Slabsがあるとなっていたのでそこへ向かいました。途中石びつなどがあるとか枯れた林道を通りましたが、結局見つからず、教会の所に到着しました。Historic Scotlandの管理下にないと、小さな遺跡は見つけにくいようです。この石板はこの辺にあるらしいと書かれていたのですが、先ず教会が見つかりました。外観は趣がある教会で、中に入ることは出来ませんでしたが、回りの墓地を回っていました。そんな時に教会の建物の脇にそれらしい石板を2つ見つけました。たぶんこれだと思って、じっくり見た後離れました。後にガイドブックで確認できました。ガイドブックの写真程は綺麗な状態ではなく、回りの草が邪魔をしていましたが、石板に彫られた絵や文字も確認できます。
ここの近くにはカップマークの岩もあるようですが、こちらも結局分からずじまい。そして、その南には海が見えていました。その向こうの陸地には小さな村も見えました。後で場所を確認していたら、翌日訪れたCrinanという運河の西端の村でした。今になって、何となくこの村にはちょっとした縁があったのだと思うようになりました。写真は上記の説明の内、前者のものです。

 
(11)Ballymeanoch Standing Stones, Kerb Cairn and Henge
6000年から3500年前の間、Kilmartinの谷は礼拝式と儀式が集まっていることで注目を集め始めました。この活動に関連した3つの遺跡をここで見ることが出来ます;(ヘンジとして知られる)小さな儀式の囲い、スタンディング・ストーンのグループ、小さな塚です。これら全ての遺跡は同時に造られたのではなく、数世代を経て使われ方や形が変わってきています。ヘンジとスタンディング・ストーンは最初に造られましたが、その順番は分かっていません。ヘンジは直径約20mの円形の底として造り始められ、内側の溝と外側の盛り土に囲まれています。その底は北と南の2つの広くて相対する入り口を通って辿り着くことが出来ます。またその入口は石によって印が付けられていました。4000年ちょっと前には、ヘンジの底に2つの墓が掘られました。その墓の窪みには石が線状に並び、中央の墓を封印する大きな石板がそこで見られます。小さな塚は恐らくこの墓のどちらも覆うために造られたのでしょう。
スタンディング・ストーンの2つのグループはお互い向き合っています。よく知られている他の石は、この並びにはありませんが、倒れています。石の内の2つは建てられる前にその表面に穴と輪をあけて飾り付けられました。それぞれの石は溝に立てられ、その土台には小さい石が詰め込まれています。石が立てられた時、火葬された人間の骨の一部が3つその溝の1つに埋められていました。埋葬された遺品の外観は石が南東から始まる行列の大通りの端に立っていることを示しています。その大通りとヘンジは恐らく同時代に使われていたのでしょう。小さな塚は、直立した石の縁石に囲まれていて、大通りの東の方に建てられました。それはたぶん少なくとも一つの埋葬を覆い、ヘンジに後に埋められた埋葬とおおよそ同じ時期のものです。縁石の東側は最近の排水溝で中断されています。
 
Ballymeanoch Standing Stones, Kerb Cairn and Henge地図を元にこのスタンディング・ストーンを目指して田舎道のB8025を歩いていました。場所は間違っていないはずなのに肝心の石が見えません。手前の放牧場に邪魔されて見えない?と思いながら、歩いているとその先にある塚を木々の中に見つけました。そちらに行けそうにもありません。かなり歩いた所で、この道では無理とわかり引き返し、幹線道路に出ることにしました。幹線道路に出る前に目的のスタンディング・ストーンを発見。でもそこからはパスはありません。幹線道路に出て歩いていると、再びスタンディング・ストーンが見えましたが、まだパスはありません。その内その先の塚に到着。道路の向かいにある駐車場の説明板を見ると、スタンディング・ストーンは塚の先にパスがあると。場所はB8025と幹線道路の間にあるのですが、近づけるのは幹線道路の駐車場のある所からだけでした。(ここもHistoric Scotlandの管理下なので)Ri Cruinで会ったHistoric Scotlandの人に聞いておけば良かったのに。かなりの時間のロスをしました。
スタンディング・ストーンは前日の映像で見たもの。側にあったヘンジは余りはっきり分かりませんでした。この敷地は広いのですが、その向こうの放牧地の柵が開いていて牛達が入ってきていました。何となくこちらを見ているようなので、そちらには向かわなかったのです。石達はじっくり見てきました。

 
(12)Dunchraigaig Cairn
この盛り土は死に対しての最後の墓場で約4000年前に使われていました。多くの葬儀の行列が、火葬の積み薪から集められた死体や焼かれた骨を運んできて、この場所にたどり着いています。長い間使われていて、この塚は次第に大きくなってきています。盛り土は100年以上も前に発掘され、ひどく荒らされ、石は盗まれています。
前方には最も初期の埋葬用の石室があます。それは恐らく上から入っていて、現在は見えなくなっています。沢山の火葬されたり焼かれなかった人の骨がその石室の中で、火打ち石のナイフや石の斧、砥石、複数の陶器と共に発見されました。あるば所ではその石室はまだ残っている大きな石板で封印されていました。この上に小さな石の塚が積み上げられています。他の石のラインの墓(石びつとして知られています)もその塚に埋められています。それは既に見えなくなっています。そこには火葬された人間の骨と壺1つがありました。
後の埋葬はまだ見ることが出来る石びつに替えられました。その石びつには火葬された人間の骨と壺1つが見つかりました。
*土葬と火葬の葬式がこの遺跡では行われていました。
*この遺跡は青銅器時代に遡るまで長い間使われていました。ほんの少しの人々がここに埋葬されていました。
*この盛り土は大きくなり、その中の最後の埋葬のために盛り上がった台座のようになりました。
*この盛り土を使った人々がどこに住んでいたかはよく分かっていません。
 
Dunchraigaig CairnKilmartinの南の幹線道路沿いにあるDunchraigaigという小さな村にある遺跡です。ここには南から幹線道路を歩いて向かっていたのですが、村にあるB&Bの前を通り過ぎた時に思い出しました。この宿にも空き部屋を問い合わせたのですが、その返事は空きが無くてその時には近くでボート・フェスティバルがあるために各宿は満室と教えてもらったのです。そのため、それ以上ここでその日に空きがないかを訪ねることを諦め、日程を変更したのでした。そんな情報を教えてくれてこちらは助かったのです。丁寧な返事に感謝していました。そんな宿の人が丁度庭にいて、歩いている私に会釈もしてくれました。向こうは覚えていないでしょうけど。
そうやってこの駐車場と塚に辿り着いて、先ずスタンディング・ストーンを見学した後、この塚を見て回りました。車でも駐車場が道路の向かいにあるので便利なようです。駐車場にはこの辺り一帯の遺跡の説明と、見学ルートが示してありました。塚は上記のスタンディング・ストーンの入口に当たる所にあり、周りを木々に囲まれています。やはり見落としがないように周りを慎重に回りました。そして、ここが最後、と思い引き上げるつもりでした。まだ十分に明るかったのですが、既に夕方6時近くになっていました。

 
(13)Dunchraigaig Cup-marked Rock
この岩の表面の装飾は約5000年前のものです。穴と輪(カップ-リング・マークとして知られています)は石のハンマーでその岩を突いてあけられました。
その装飾は岩の表面のあちこちに密集していて異なる時代にこの場所を訪れた異なるグループの人々によって造られました。この装飾は割に単純です;Achnabreck(Kilmartinの南約9kmの村、Cairnbaanの近く、有名なカップ-リング・マークがある)の様なもっと高い場所に見られる複雑な装飾を欠いています。
この場所には装飾がなされる以前も特別な、恐らく神聖な意味があったに違いありません。それは、少し離れた所に現在は背が高くなった草と湿地帯で見分けられる自然の水溜まりに関連していたということになります。またその出現はその水溜まりの岸への開けた眺めに捧げています。
この岩の表面はもろくなっています。その上を歩いたりどんな方法でも傷を付けないで下さい。
 
Dunchraigaig Cup-marked RockDunchraigaig Cairnから引き上げようとした時、入ってきた方と違う所へ続くパスを見つけました。その先にゲートがあり、さらに向こうには整備されたパスもありました。パスは幹線道路沿いに造ってあったので、道路でなくこちらを進めばゆっくり歩くことが出来る(幹線道路は車が横を飛ばしていくため歩きづらかったのです)と思いこちらを進んでいました。しかし、その内道路を離れるように曲がっていました。これでは帰ることが出来ないと、先を確かめもせず、戻って塚の手前で幹線道路との間にある石垣にあったゲートを開けて出ました。幹線道路を歩いている内、その曲がっている所の先を一旦眺めました。するとその先に、この遺跡を見つけました。駐車場の説明板の地図にもここはちゃんと書いてあったのですが、気が付いていませんでした。とにかく、見逃しては行けません。そして戻るのも面倒に思い、その確認していた場所の石垣の下を見ました。近道がないかと考えたのです。そこには小さな踏み段が造られていました。ラッキー!と思いそこを下りてこの遺跡へ。
この遺跡はカップ-リング・マークの1つですが、岩の上に何となく彫ってある輪が確認できる程でした。カップ-リング・マークは、このKilmartinに来て初めて知った遺跡です。それまで訪問した所では見たり聞いたりしたことがありませんでした。前日の博物館での映像で初めて知り、展示館でも写真を見ました。説明によると山の南斜面にあるとかで、かなり不便なのではないかと思っていて、見学を諦めていたのです。後から分かったのですが、有名な所は案内もあり道も整備されているようなので、気力さえあれば見学できるようです。取り敢えず、期待していなかったので、マークは不鮮明でも見学できたことを嬉しく思って、この日の遺跡巡りを終わりました。
(14)Carnasserie Castle
この16世紀後期の珍しい城は塔とホールを含む隣接する同時期の翼(ヨク)で構成されています。
防衛は安全と誇示の両方のためでした。中庭は元々西と南に広がっていました。
城は島々の主教John Carsewellの家で、1565年と1572年の間に建てられました。
John Carsewellは1567年にKnoxの祈祷書をゲール語に訳しました。彼はArgyllの宗教改革の監督で1567年から島々の主教を勤めていました。
城は法律的にはCarswellのパトロンである第5代Argyll伯爵のArchibald Campbellのものでしたが、主教がずっと個人的な住まいにしていたのは明らかです。外からは、城は塔と隣接したホールがあるように見えます。ホールには主要な入口が付いている四角い階段の小さい塔があります。しかし、この並びは建物を中世の外観に単に見せているようです。実際、全ての階では塔と城の他の所の間で自由に伝達が行われていました。そのために、中世の塔としては独立して防御が出来ていたとは言えなかったと思われます。
精巧なルネッサンス調の表玄関のような他の建築学上の特徴は、恐らくこの城が建てられた時代のものであったのでしょう。しかし、ここでさえArgyll伯爵への献上物を記録したドアの上にあるゲール語の碑文は、Campbellの首長の古い名前O'Duibhneを使うことで、城の建設者の好古家を先取りしていることを示しています。
城を取り巻く直近のエリアでは、中庭の建物の様々な出土品が記録されています。その内のいくつかは明らかに1681年に遡ります。その年には建物の離れた所にある庭へ続くアーチ付きの入口が造られました。
城は1685年にJames VII製に対抗する第9代Argyll伯爵の反乱中に占拠され部分的に吹き飛ばされました。その廃墟は1932年以降the Secretary of State for Scotlandの管理になり、現在はthe Secretaryに代わってHistoric Buildings and Monumentsによって管理されています。
ここへは後日1泊だけした時に訪れました。村の北の方にあり、遺跡群と離れていたので別の日にする必要があったのです。城は高台に建っていたのでObanからKilmartinへ向かうバスの中から確認していました。ホテルから約40分歩いて着きました。城に着くと、上の方から子供の声が聞こえてきました。家族連れが2~3組程いました。中に入ることが出来るんだ、と思いつつ最初は回りを見て歩きました。中へ入るドアは閉まっていましたが、勝手に開けてはいることが出来ました。塔には屋上まで上ることが出来ました。屋上は人一人が通ることが出来る程度の幅の通路がありました。先へ進むと行き止まり。引き返す時も誰もいなかったので往来は簡単に出来ましたが、人がいると交わすことが出来ないので屋上の出口まで戻る必要があるかも知れません。この屋上は崩れそうな塔の上にあるので、足がちょっとすくみます。でも回りの谷Kilmartin Glenを見渡すことが出来るので、眺めは良いです。城のもう一方にの登ることが出来るようになっていました。こちらの眺めはそれ程でもなく、途中の階にあるホールから下の階の部屋(廃墟なので部屋の間の壁が殆ど無い)を眺めていました。
城の東の方に塚とスタンディング・ストーンがあるとなっていたので、庭先から確認できないかと頑張りました。その結果塚らしきものはありました。スタンディング・ストーンは回りの杭と見分けが着かなくて確認できませんでした。見ている方角は間違っていなかったと思うのですが。
今回見学した所は以上ですが、この辺りには他にまだまだ見たい遺跡があります。殆どは南の方にあるので、次に機会があればLochgilpheadに泊まってチャリで回ることが出来ないかと思っています。バスは最終が早くて、時間を気にする余りゆっくり見ることは出来ませんし、また遺跡の距離が結構離れていて歩きだと見て回る所が少なくなるためです。
Cairnbaan & Crinan Canal
最近ちょっと気に入っているのが運河散策です。今回もGlasgowでForth & Clyde運河沿いを歩きました。数年前に手に入れたForth & Clyde運河とUnion運河の地図にはもう1つ小さなCrinan運河が載っていました。それがこのKilmartinの近くにあるので時間を取って歩くことにしました。この運河の回りにも遺跡があるので併せて見学する予定で出かけました。
Crinan Canal
南東のLoch Gilp(Loch Fyneの奥)に面している町Ardrishaigから、北西のLoch Crinan(Jura海峡の奥)に面しているCrinan迄の全長9マイル(14.5km)の運河。15のLock(閘門)があります。
ギザギザの丘の下の魅惑的な青い回廊地帯とKnapdale森林の常緑樹の斜面の光景の中にあります。1801年に開通し、Crinan CanalはLoch FyneをJura海峡と結んでいて、まさに西海岸の素晴らしい航海への入口となっています。Crinan Canalの通路は、1日の内に通り抜けることが出来ますが、船がKintyre岬を回って139マイル(210km)の長い航海を短くできます。Clyde 'Puffers'は、Forth & Clyde運河とCrinan運河用に特別に建造された小さな遠洋航海用の貨物船ですが、Glasgowと西の島々との間を石炭や石板、ウィスキーを運ぶ運行システムの大黒柱となっていました。今日わずかな’Puffers'が残っていますが、魚釣り船、レジャー用のヨットとクルーザーがまだ航行しています。
この運河沿いを歩いていた時には数隻のヨットやクルーザーが通っていました。そこで思い出したのですが、Forth & Clyde運河やUnion運河では殆ど見られなかった光景です。どちらの運河も航行は可能なのですが、実際にこんな風には使われていないのでしょう。その点ではこの運河は賑やかに思えました。歩いているとたまに船から手を振ってくれます。船はScotlandだけでなく、遠方からもやってきていると国旗を掲げて主張しています。この運河を活性化するためか、夏にはボート・フェスティバルも行われています。
Cairnbaan
Lock No 5CairnbaanはCrinan運河の中間辺りにある村です。ここにはCairnbaan Bridgeがあり、この橋を通って西の端のCrinan迄車で行くことが出来ます。橋は回転式で船が通る時に開けられます。直ぐ側にLock No 5(右写真)があります。そこからLock No 8迄は登りになります。Lock No 8はSummit Lockと呼ばれています。
この村にはKilmartinからLochgilphead行きのバスで行けますが、朝バス停で時刻表を確認しながらバスを待っていると、側に車を止めたおじさんが”Lochgilpheadに行くのか?”と聞いてきたので、”Cairnbaanだけど”と答えました。そうすると”そこは途中だし、バスがなかなか来ないこともあるので”と乗せてくれました。おかげでちょっとだけ時間が節約できました。運河の前で降ろしてもらい先ずはLock No 5を見て、この先何処まで歩こうか?と考えていました。その時丁度向かいの小屋からおじさんが出てきて、これから橋が開くから写真を撮ることが出来るよ、と教えてくれました。それならばと、側のベンチに座って待ちかまえました。ついでにデジカメを固定して、開く様子の動画を撮りました。結構開閉は早く感じました。
Carn BanまたはWhite Cairn

この地域の多くの典型的な、この地域の運河沿いの目印は草深い斜面の下に青銅器時代の石室がある墓を見えない様にしています。
Crinanから戻った時、まだバスの時刻まで時間があったにもかかわらず、こんな所にちょっとした塚があるとは気が付いていなく、Lock No 5の辺りをウロウロしていました。そして間もなくバスが来るという時に、地図を見ていたらこの塚の存在を見つけました。残念!近くにはまだ訪れたい遺跡があるので、そんな機会のついでにでもと思っています。
Dunardry LocksDunardry Locks(Lock No 9~13)
Lock No 8を過ぎるとしばらくLockはありません。この辺りはまだ運河の両側に車が通れる道と家があります。やがてLock No 9に着くと、今度は下りになります。北側の道路はここまで。この先は人(+犬)/チャリのみが通行可能な運河のパスになります。Lockの間にはため池もありました。左の写真はLock No 12の手前のため池です。左側はKnapdale森林です。ここのLock No 10と11の間にDunardry Rolling Bridgeがあります。
Dunardry Rolling Bridge
Lock No 11に架かるこの珍しい横断用の橋は1900年に重くて古風な回転式の橋に取って代わりました。手動でレールの上を動き、その軽いデザインは土台が柔らかいピートの地層に沈み込むのを防いでいます。
Dunardry Rolling Bridgeこの橋も丁度開けられる所でした。橋の横でおじさんが一生懸命ハンドルを回していました。手動です。その頑張っているおじさんを取ろうと待ちかまえていました。おじさんは橋の向こう側にいたので、全身が見えるまで待っていたのですが、なかなか現れません。橋が殆ど開いた時に、おじさんは橋と一緒にスライドしていたことに気が付きました。左の写真は半分近く開いた橋で、おじさんは2本見える白く小さい塔の左側の向こうにいました。
Crinan
Crinan運河の西の端にあります。運河の端には2つのLockがあります。Crinan LockといわれるLock No 14とSea LockといわれるLock No 15です。
Crinan Basin
小綺麗なヨットやモーター・クルーザー、網で覆われた漁船などで港は少し忙しくなっています。バード・ウォッチングやアザラシ探し、フィッシング・ツアーは夏の数ヶ月間にの港から出発します。
Crinan実は、当初の予定ではここまで来るはずではありませんでした。Dunardry Locks辺りで引き返そうと思っていました。その先のパスが、余りよくなさそうと思っていたからです。しかし、Dunardryの先を見た所、パスが綺麗で、右側に自然保護区の湿地帯が広がっていて景色が良かったので先まで進みました。どんどん進んでやがてCrinan迄の中間Bellanochに着いてしまいました。その先もパスは綺麗で、ここまで来たらついでだと更に先へ進みました。地図をちゃんと確認していなかったので、CrinanはCrinan Bridgeのすぐ向こうと思って進んだのです。橋に着いた所で村が見えません。ここで地図を再度確認したら、まだその先。ここまで来たら運河の端まで行くしかありません。帰りはバスに乗ろうと思っていました。
Crinanに到着。そこはとっても賑やかでした。ホテルもありました。バス停でLochgilphead方面の時刻を確認すると4時過ぎまでありません。Kilmartin行きのバスの最終は4時頃です。どう見ても間に合わないので、再び運河沿いのパスを引き返しました。ここまで2時間半程かかっていました。急いで戻ると何とか最終バスには間に合いそうでした。帰りは殆ど写真を撮るために立ち止まらなかったおかげで1時間半ちょっとで済みました。勿論最終バスには余裕で間に合いました。
Crinan迄行くことが出来たのでまあ良いのですが、途中で引き返してCairnbaan辺りの遺跡を訪れるつもりにしていたので、それが残念です。最終バスが早いのですよ。それが最大の難点でした。

  1. Kilmartin Glen(英語):Undiscover ScotlandのKilmartinの町のページです。
  2. Kilmartin House Museum(英語):Kilmartin House(Museum)のオフィシャル・サイトです。
  3. Kilmartin Glen(英語):Undiscover ScotlandのKilmartin Glenのページです。Kilmartinに点在する遺跡に関しての記述があります。
  4. Historic Scotland(英語):Historic Scotlandのオフィシャル・ページです。
  5. British Waterways Scotland(英語):British Waterways Scotlandのオフィシャル・ページです。
  6. Crinan Canal(英語):WaterscapeのCrinan Canalのページです。
  7. Crinan Classic(英語):Crinan Classic Boat Festivalのページです。