Isle of Tiree

2010/6/27(sun)~7/1(thu)

夏の間は日曜日もフェリーが運行されているので、移動日に選びました。時刻も9時出発と良い時間です。港の近くの安ホテルも確保でき、歩いて5分程の所でした。朝食を早めに取り、前日に調べた直近のルートで出発に十分間に合う時間に待合室に到着しました。切符は前日に往復を買っていて、乗船登録の書込も済ませていました。乗船登録はカーボン・コピーで、乗船時に1枚目を、下船時にもう1枚を係に渡します。フェリーはほぼ定刻に出発し、Mull海峡を北上します。右手には本土、左手にはMull島が見え、細長い海峡なので揺れも少なく、のんびりと景色を眺めて過ごしていました。Mull海峡を出ると、揺れが大きくなって、景色も単調になってきたので船室で本を読んだり、少し眠ったりしていました。やがて、船が速度を落としていることが感じられ、最初の寄港地Coll島に近づいたことが分かりました。この島にも泊まりたかったのですが、少ない宿泊施設は満室で諦め、更にObanからの日帰りも他の宿泊の都合で諦めました。ただ、Tiree島に向かう途中で寄るので島の感じだけは眺めることが出来るわけです。Coll島を出発すると1時間程で目的地のTiree島に到着しました。その間はほぼずっとこの2つの島を眺めて過ごしていました。その時確認したのは予約を入れていたホテル。回りに何もないのでよく分かりましたが、思ったより港から遠いと感じました。予約した時はそれ程遠いと思っていなかったのですが、改めて実際の光景と地図を確認して遠い!と思ったのでした。
港に到着してもバスやタクシーが見あたりません。何とかなるだろうと思った当てが外れてしまいました。時間は十分なので、トランクを引きずりながら歩いていました。道は舗装されていますが、ガタガタなのでキャリーが壊れそうでした。暫く歩いた所で、親子連れ(子供は大きい)が見かねて車に乗せてくれました。ホテルの車とすれ違ったみたいなことも言われていましたが、ホテルには車はないとのことでした。事前に予約を入れていればバスを手配してくれるようでした。(帰る時にそのバスを使ったので、何となく状況が分かったのです。)タクシーはなく、ハイヤーがありこちらも事前に予約が必要なようです。このハイヤーは港の側の自動車整備のお店のもののようで、レンタサイクルもやっている所です。島の状況を余り調べていなかったので、こんなこと(港から荷物を引きずって歩くこと)になりましたが、親切な島の人に助けられました。
ホテルはGott BayのTràigh Mhòr(砂浜)の側にあり、風当たりがよい(?)所でした。外観は結構良い感じでしたが、部屋はこれでホテル?という程ちゃちだったのです。受付には誰もいなくて、探し出した男性に予約票を見せると、リストになかったらしく、電話で問い合わせていました。名前が間違っていた?とにかく部屋はあったので迷路みたいな廊下を通って部屋に案内されました。眺めは良かったのですが、バス・ルームは、1つ目の扉を抜けるとL字型の通路があり、その先に2つ目の扉がありました。長い…鏡が部屋になくバス・ルームだけなので、とっても不便でした。バス・タブしかなくシャワーがないので使いづらくもありました。ティ・セットも貧弱で、ホテルとは名ばかりの感じでした。2つ前に泊まったKilmartinのB&Bとは’雲泥の差’だったのです。島には宿泊施設が少ないためか、こんな状態でもやっていけるらしいと感じました。港に近いScarinishのホテルはどうなのでしょうか?こちらは£10高かったので、遠いこちらの方にしたのですが。島には西側にB&Bもあるようなので、車で行かれる方はもっと選択範囲が広がるかも知れません。

タイリー島/Isle of Tiree Tiree map
道の種類:茶色は自転車での移動、緑は徒歩での移動、黄色はその他の道、紫はパス
Tiree島はBritain諸島では最も日当たりが良い場所の1つとしてよく知られています。また、最も風が強い所でもあります。そのため、ウィンドサーファー達が集まってきます。浜辺でものを拾う人達、植物学者、バードウォッチをする人達は離れがたくなっています。広くて、開放的な場所や、いっぱいに広がった青い空、砂丘に縁取られ砕け散る波に洗われる長くて人気がない砂浜を愛する人は誰でも直ぐにTireeを熱愛するようになります。他にそんな所はありません。
島はMull島の約20マイル(約32km)の海上にあります。Inner Hebridesの最も外側で、大西洋の端に横たわり、メキシコ湾流の暴風雨から守られています。Tiree島では滅多に霜は降りなく、雪は殆ど降りません。1年を通じて眩い日光と新鮮で透明な空気が五感を生き返らせます。
<名前の由来>
恐らく’コーンの土地’です。Tir(ゲール語)は’land(土地)’を、eadha(ゲール語)は’corn(コーン、トウモロコシ)’を表しています。この低くて肥沃な島は高い生産性の穀物の収穫で有名です。しかし、また、後半部の語源が古いIrelandの名前Ithという説があり、それは’Ith's land’となります。(Ithの意味は不明。)

島全体はなだらかで、山と呼べるものは西側に4つ程あります。最高峰はBen Hynishで141m。頂上にはRadio Stationがあり、その建物の上にあるGolf Ballと呼ばれている球体が島の殆どの所から見えます。島のあちこちには砂浜が広がっていて、島の南側は風が強いのでウィンドサーフィンやカヤック、パラセーリングなどのマリン・スポーツをあちこちで見かけました。また、サイクリングも盛んで、サイクリストに会わない日はありません。レンタ・サイクル(Bike Hireと言いますが)は港の側の自動車整備店で借りることが出来ます。急な坂はないので押して歩くことは先ずありません。全体に走りやすい所です。

ネットでの地図システムでこの島を見ると、日本語では”ティリー”と表記されています。正しくは”タイリー”なので、目的地などを言う時などは気を付けて下さい。この地図システムはよく使われているのですが、日本語での地名表記はかなりいい加減です。実際に訪問する時などは、その地に詳しいサイトや観光局などで確認した方が良いと思います。
交通
<海路>
Caledonian MacBrayneがObanからTireeまでの定期フェリー便を運行しています。夏期には日曜日を含む毎日の運行、冬期には週に3本の運行を行っています。勿論、天候によって航行は左右されます。特に夏の数ヶ月は事前の予約が推奨されます。
<空路>
British AirwaysとLoganairが日曜日を除く毎日、GlasgowからTireeまでの定期便を運行しています。
Scarinish
ScarinishTiree島最大の村で、フェリーで移動するとまずこの村に到着します。
村には2つの埠頭があります。新しい埠頭はCalmacの所有で保全されています。ほぼ毎日を基本として島に人や車、貨物を運んでいます。運行時刻は冬期には変わりますので、GourockにあるCalmac本社またはウェブサイトでチェックすることをお薦めします。
古い埠頭はまだ漁師が使っていますが、1771年に作られ、嘗ては小型の船の出港に使われていた港で、船は泥炭を切り出すためにMull島のRossとColl島の間に杭を打ち込んだsgoitheanと呼ばれる屋根のない船でした。Tiree島には泥炭は多くなく、殆どは草に覆われた低い土地です。この習わしは、Tireeの船は島を去ったTiree島民が乗組員や船長でしたが、AyrやIrvin、Addrossanから石炭が供給された時に、終わりました。約30隻の船は蒸気船の登場まで島にものを運んでいました。船は南はMan島から北はShetland諸島までの西海岸のあらゆる所でTiree島の水夫を有名にしていました。
現在、Scarinishには島の中央郵便局、肉屋、D.A. MacLean、Co-Op、警察と消防署、そしてRoyal Bank of Scotland(銀行)があります。最近では、島の全資料を保有している博物館An Iodhlannが出来ました。この博物館は、この共同体に於ける第二次世界大戦の影響の跡を追った "The Wind That Shook The Barley"という最新のものを展示しています。Tiree島はハリファクス爆撃機の基地でした。また、自分のルーツを辿りたい人が多く訪れる最初の場所でもあります。
<名前の由来>
’カモメの岬’という意味で、Skári(古代ノルマン語)は’若いカモメ’、nes(古代ノルマン語)は’岬’です。Scotland北部では’scorrie’は未だにカモメの表現に使われます。
コル島/Isle of Coll
Isle of Coll南西から北東に約13マイル(約21km)の長さ、幅は約3マイル(約5km)のやや細長い島です。Mull島の北西に位置していて、Tiree島の直ぐ北にあります。島民は150人程です。島には人気のない浜辺や起伏の多い風景があり、種類に飛んだ鳥達がいて、自然の中に溶け込むことが出来ます。
Tiree島より起伏が多い此島では浜辺に近づく道路がありません。オフ・ロードのウォーキングが出来て、道はとても静かです。特に東の端にあるSorisdaleへ向かう道はOuter IslesやRum島、Eigg島、Skye島の眺めが素晴らしいです。Clabhach(島の真ん中北海岸)とSorisdaleの間の道から北側の海岸に向かう道にはあちこちに道標が立ててあります。
<名前の由来>
恐らく’不毛の土地’でしょう。Kollr(古代ノルマン語)は’bald head(禿げ頭)’または’bare top(露出した頂上)’という意味です。これはInner Hebrides諸島に取っては適切な表現で、平坦で肥沃な隣のTiree島がとは対照的に、ヒース属の植物の間からはみ出ているこぶになった片麻岩(強い広域変成作用を受けた場合にできる岩石)で吹きさらしになった表面を表現しています。

この島には滞在はしていませんが、Tiree島までの中継地になっているので、港を含む南海岸の様子を眺めることが出来ました。当初は滞在を予定していたのですが、宿泊が満室のため不可能になり、更にObanからの日帰りも予定していましたが、別の宿泊予定のため諦めました。上陸はしていませんが、島の様子を伺い知ることは出来ました。Tiree島の北隣なので、東海岸から間にあるGunna島越しに島の西側も眺めることが出来ました。見ただけですが、観光には厳しい所のように思えました。日帰りでは島を歩き回るのは困難とも思われました。ゆっくり見て回るにはやはり宿泊した方が良さそうでした。
島めぐり
Tiree's Chapels
<Tiree's Ancient Chapels>
4つの初期の教会の遺跡はTiree島に6世紀までそして紀元563年にSt Columbaによって設立されたIona島の修道院遡るキリスト教が強大であったことの証拠になります。
この廃墟になった教会の内最も印象的な2つはGott湾に面するKirkapolにあり、他のものはKilkennethとKenavara(島の南西、103mのBeinn Ceann a' Mharaという山があります)の岬にあります。4つの教会全ては国の重要な古代遺跡としてHistoric Scotlandに管理され、保存プロジェクトの議題になってきています。それらは明らかに初期の建設の場所に建てられたと確信されています。St Columba時代の修道院と教会は恐らくアシの藁葺きで木と漆喰、粘土で作られていました。結局石造の教会はこれらの簡単な構造に置き換わりました。
実際、バイキングが8世紀末にHebrides諸島を侵略し始めた時、Tiree島で不穏な時代に入っていったとは全く知られていません。Iona大修道院は3回も破壊され、各地の修道院は崩れ落ちました。ケルト教会は続いていて、遠方の島々の庵室に住んでいた隠者と同じく生き残った禁欲生活の修道僧によって保護されていました。最終的に、Hebrides諸島のノルマン人はキリスト教の信仰を受け入れ始め、最初の石造りの教会が10世紀にでも見られるようになりました。

<The Kirkapol Chapels>Kirkapol Chapels
Kirkapol(’教会の農場’という古代ノルマン語)での古い方の教会は期限565年にここかSorobyのどちらかに悔悟のための修道院を建てたSt Columbaに献納されました。正面の建物は14世紀のもので、西にある小さな教会は13世紀のものです。この横にある15世紀の彫刻で飾られた墓石はScotlandで両刃の大刀の初期の肖像であることを示しています。古い方の教会の床を象っている露出している平坦な岩はキリスト教以前の時代にここで異教徒の礼拝が行われていたことを示します。
広い墓地はColumbaの親類で弟子のSt Oranに献納されたものです。Cladh Odhrain(Oranの墓地)はAn Cladh Beag(小さい方の教会がある所)の南東にあり、嘗てはここにOdhrainの教会がありました。
この教会に行く手前に泊まっていたTiree Lodge Hotelがあります。ですから、島巡りを始める前や、サイクリングであちこち回って戻った後に訪れています。ホテルのすぐ側にゲートがあり、その横の壁に説明板がありました。初日にホテルに戻った時に、その先に何かしらの遺跡があると分かったので、資料を見る前に訪れようと決めていた所です。写真はそのゲートを抜けた所で見えた眺めで、手前が新しい方で、墓地の奥に見えているのが古い方の教会です。

<Kilkenneth Chapel>Kilkenneth Chapel
砂丘に埋もれかけたKilkenneth Chapelは中世紀後期のもので、初期に作られた棺の脇に建っていました。嵐が砂を払いぬぐった後で人の遺物が露出しましたが、18世紀以降ここには埋葬はされていませんでした。小さな青銅器の鐘が1900年代初期に掘り出され、現在はInveraray城にあります。
St Kenneth(ゲール語ではCoinneach)はSt Columbaの同僚でした。AdamnanはIona近くの怖ろしい嵐の最中にColumbaが彼の従者に客人のために食事を用意をするようにどう指示したかと説明しています。猛烈な暴風雨にもかかわらずSt Kennethはその修道院に客人を安全に導きました。
島の西側の道を北上している時に寄った遺跡です。道に説明板と案内があったので見逃すこともありませんでした。ゲートを開けて砂丘の中を少し進むとこの遺跡がありました。リーフレットの写真では回りや中の草は綺麗に刈られて見易くなっていましたが、私が訪れた時は草ボウボウでした。建物の内側の地面の様子は全く分からない程でした。また、写真では建物の回りには何もないのに、訪れた時には木の柵があり、中には入ることが出来ないようになっていました。

<St Patrick's Temple>
St Patrick's Templeこの小さな教会の壁は嘗ては1.7mの高さがありましたが、1898年に2人少年によって故意に破壊されました。彼等はその後すぐに亡くなったと言われています。教会の廃墟にある2つの石は両方とも表面に十字架の痕跡があります。十字架がケルト的と言うよりもラテン的であるため、その石はローマ教会がケルト教会を駆逐した7世紀以後に造られたようです。海岸側の石にはSt Patrick's Vat(桶)として知られている”swallow-holes(吸い込み穴)”がいくつか自然に形作られています。
ここの回りに見られる円形の土台はLuing島(Mull島とJura島の間のLorn海峡東にある島)近くのGarvellachs(Luing島西約10km沖にある小島の諸島、南の島Eileach an Naoimhに廃墟の修道院がある)の様な他のHebrides諸島にある修道僧が立てたドーム型の石の避難所の建設準備のように思われます。
Tiree島最後の日、午前中の嵐も午後には青空を見せたので、チャリで出かけました。Tiree島の重要な教会(跡)を見逃したくないと思って出かけました。場所が島の南西の端。しかも近くに道路はありません。パスが手前の砂丘にはあるようでしたが、本当に行くことが出来るのか不安でした。道の終わりの駐車場にチャリを止めても良かったのですが、その先の砂丘の中にいくつかの轍を見つけ、時間節約のためにその轍を辿ってこの教会跡に向かいました。しかし、途中から轍も消え、はっきりしないパスをチャリで進むことは諦めて、歩き始めました。その内パスも分からなくなり、その先には放牧中の羊と牛達がいました。また、海辺の岩の間も抜けることになりました。しかし、道は間違っていないはずなのに、この遺跡は一向に見えてきません。帰る時間(チャリを返すため)が迫ってきていましたが、もうちょっと先までと、1つの岩を越えた時、ついに説明板を見つけました。回りはこちらも草ボウボウ。説明板がなかったら見逃す所でした。遺跡をグルグル回り、じっくり見たと思って引き返そうとしたのですが、もう一度眺めた時に十字架が刻まれた石を発見しました。危ない所でした。そしてもう一度あちこちの石を眺め、もう1つの十字架の石も確認して引き返しました。帰りのパス擬きを牛が占領して抜けるのは難しくなっていましたが、幸い干潮時で磯辺の岩の上を迂回して、無事置いてきたチャリに着きました。回りは美しい海と砂浜でしたが、殆ど楽しむ余裕もなく、その場を去りました。その時に気付いたのですが、砂丘の轍は一般車でなく、バギーが走った跡でした。砂丘を走り回るバギーには注意です。

<Tiree Pilgrimage Route>
このウォーキング・ルートは4つの教会を含む島の多くの興味深くて考古学的及び歴史的な場所に結びついています。このルートは短く区切られた部分では歩くことが可能で、全部が描かれたガイドブックと各場所の地図と詳細説明が島のいくつかの販売所で手に入れることが出来ます。
無料のリーフレットにはこのルートの島を一周する全体の概略があります。また、Kirkapol教会の説明板にはその付近のルートが書かれていました。重要な場所にはこのルートであるマークが付けられた指標が立てられています。Kirkapol教会で書かれていた地図を辿って、近くの2箇所も訪ねてみました。1つはTobar Eachainnで井戸のようなもの、もう1つはGiant's Graveでしたが、こちらはこれが墓?と言うくらい何もない所。指標がなければ全くの草地でした。全体にはっきりしていないので、素人の私にはルートを確信できないように思えました。
遺跡
<Ringing Stone>
Rinring Stoneこの玉石は迷子石で約1万年前の氷河時代の後期にRum島からここに移動してきました。これはTiree島の殆どを形成しているルイジアン片麻岩よりも遙かに若いタイプの岩で、Britain島での最も古い約200億年のものです。この石は紀元前2500年まで遡る宗教的な儀式に関係がある53個の円形と楕円形の”カップ・マーク”が付いています。その窪みは多産の女神への崇拝のために石を女性の胸に関連していることを表しているのでしょうか?それとも、生け贄の儀式の最中の神聖な食べ物または血のための容器だったのでしょうか?
このような社会では、秋分の日のような祭祀の時に、正式な儀式で印を付けられました。もし石でこの玉石を打ち付けると、金属的な、鐘を鳴らしたような音が鳴るでしょう。
荒波で削られた岩が並ぶ北海岸にありました。Walksという小冊子(有料)の参考ルートにこの石までの行き方がありました。この石の絵もあったのですが、大きさが分かりません。回りの岩とは違うので分かり易いとあったのですが、なかなか見つかりません。見逃した?と思ったのですが、地図を確認すると、小さな湖の近くのようでした。ガイドに従って、東から歩いていたのですが、パスはあるようではっきりしなくて、適当に歩いていたのです。やがてそのパスも少しハッキリしてきたので、この石に近づいたと感じました。そして、海側に変わった石を見つけ、その手前に説明板もありました。大きさは見逃さない程大きく、石の上部は私が少し背伸びしたら見える程の高さ-約130cmでした。岩の上には2つの石がのせられていました。悪戯?と思いましたが、管理者が意図的にのせたらしいです。他にも、斜面にある穴に石が置かれていました。触っても構わないようでしたが、嘗て儀式に使われていたものなので、控えめにしておきました。
西から進む時は放牧場の囲いを入りますが、そこにはこの岩への案内も出ていました。また、近くのLoch na Gile(小さな湖)を回った所に南へ向かうパスがあります。Gottという村に繋がっています。航空写真で見ると、結構ハッキリ見えるパスです。ウォーキング・ガイドでは一般道のB8068を進むようになっています。近くには他に何もないのですが、余り見ることが出来ないものなので、機会があったら見てみて下さい。

<Dùn Mór Broch>Dùn Mór Broch
brochとして知られるこの円形の要塞は、緊急の避難所として紀元60年頃に建てられました。MacKie教授は1960年代にこの場所を発掘し、このbrochを建て住んだ人々はEngland南部からやって来て地元の人々を支配したという結論に至っています。
二重の壁は高さが25~30フィート(約7.6~9.2m)、厚さは10~13フィート(約3~4m)で、階段と2~3つの中二階または階があります。出入口では入口の通路の右の守衛の小部屋から動かされる回転式の木製の扉を中に引きます。brochは紀元前1世紀から紀元1世紀の間に建てられ、その後数世紀に渡って住まいとなっていました。後に、Vaul Brochの遺跡は農家へと変わっていきました。
Tiree島には2つのbrochがありますが、こちらは保存状態が良い方です。壁は上の部分が削られて何とか円形の形が残っている程度ですが、中央の住居部がはっきり分かっている方なので、他の所とも比べても良い方と思います。二重の壁の間も少し歩けます。また、階段も残っていました。
上記のRinging Stoneと併せてのウォーキング・ルートになっていて、北海岸の側にあります。南のGott湾からゴルフ場側の道を北上すると美しい砂浜が見えてきます。この辺りがVaulという村です。道路はここまで。その後ゲートを抜けてパスに入ります。そのゲートの横にこの遺跡の説明板がありました。そこからこのbrochが見えていましたが、先を進むと、この遺跡へ向かうパスがありません。通り過ぎたので、戻って適当に草地を歩いて辿り着きました。誰も来ないわけではないはずなのですが、獣道さえありませんでした。目印としては目立つ方なので、見逃すこともないでしょう。このbrochとRinging Stoneのコースはサイクリングでも無理で、歩きだけが可能なルートです。

<Caoles Broch>Caoles Broch
このbrochに関する資料は何処にもありません。半分だけが残った形で、残りは側に延びている石垣の石に使われたらしいということしか分かっていません。
チャリを借りることができたので、島の東から西へと走り回ることにしました。その東の端にこの遺跡があると気付きました。場所はMiltonという小さな港村です。道路の端近くまで行き、この遺跡を探しましたが、どうやら位置が違うようでした。そこで港へ行ってその辺りの海岸を見回していました。すると、北側の小さな丘の頂上にケルンが見えました。そこには人も立っていました。地図を再度確かめると、どうやらそのケルンがある所に目的のbrochがあるようでした。そこに立っていた人も同じ目的だったのでしょう。そちらに向かうと同時にその人は下り始め、人が歩いた跡を適当に辿っている内に別のルートを通ったらしく、その人とは結局会いませんでした。でも、場所が分かって助かりました。
遺跡はかなり崩れて、brochに見られる二重の壁もよく分かりません。井戸?と思われる窪みも見られましたが、残りは石垣の向こうらしいです。その石垣の向こうは入ることは出来ませんが、眺めた所、遺跡と思われるものは見られませんでした。下から見えたケルンはここの遺跡の石を使った?古くからあるものではなく、頂上の目印に最近になって積み上げられたようです。
ここは回りよりも小高くなっています。そのため360°のパノラマを楽しむことが出来ます。西側は島の端にある山も見ることが出来ます。Tiree島が全体として平坦なので、こんな景色になるのです。また、東側にはColl島も見えます。こちらは直ぐ近くです。また、直ぐ西にある島唯一の風力発電の風車(右の写真でも写っています)が大きく見えています。北側には2年前に訪れたOuter Hebridesも微かに確認できました。Skye島も見えていたと思います。管理が無く、案内も説明板もない遺跡ですが、気分転換にこの辺りを訪れてここに登ってみても良いのではないかと思います。

<Soroby Graveyard>
Soroby GraveyardSorobyは恐らく紀元565年に設立されたBaitheneの修道院 Campus Luingeの場所で、方針が定まらない修道僧を扱うために作られました。現在その場所は残っていませんが、ここに教区の教会が13世紀から19世紀までの間にありました。その墓地はClan McLeanがTiree島を支配していた時に埋葬の場所になりました(1390-1680)。大きな石の突起部(盛り上がった飾りのあるコブ)がある昔の十字架はMacLeanの十字架として知られています。
チャリで西の端のに向かっていた時、墓地の壁に説明板がありました。時間も十分なので、止まって確認しました。挿絵の石板と十字架がこの墓地にあると思い、中に入ってみたのですが、見あたらなかったので、出ました。説明板を確認した所、ここにはないらしいと分かりました。しかし、小さな十字架の石は何となく見覚えがありました。そこでもう一度墓地へはいると、ちゃんと見つかりました。石板はなくなっているか他に移されたようです。十字架は前から後ろから両脇からと回って眺め、写真も撮ってきました。片側にはラテン的、もう一方にはケルト的な図柄が彫られています。
Museumなど
<The Hynish Centre>
HynishはTiree島の南西の岬に位置する小さな村です。その南西の遙か向こうには地球上で2番目に大きい大洋を隔ててAmerica大陸があります。
村には建物が風変わりなコレクションとして建てられています。その建物はTiree島の他のどの建物と比べても伝統的または近代的であるとは言い難いでしょう。全ての建物は新しく使われているため、見学するのは難しいのですが、嘗ての興味深い姿を残しています。
HynishはAlan Stevensonが1838年にSkerryvore灯台の建設の基地として選んだ場所で、後に灯台守とその家族のための海辺の基地として使われました。Hebridean Trustの働きは20年以上もの間建物を修復し、21世紀になって新しい目的に使われることになりました。
Hynish Heritage TrailはHynish海岸を回ります;Skerryvoreの歴史を説明する展示場を訪れ、Signal Towerに登ると19世紀の最も素晴らしい技術を見ることが出来ます。
島の南西の端にあるため、島の中心の村ScarinishやホテルがあるKirkapolからはかなり遠く、これといった公共交通機関もないので、訪れるのは難しいように思われました。しかし、レンタ・サイクルが出来、また大きな島ではないので、ここまでの往復は半日で十分でした。道も迷う程島にはないので、実に単純なルートでした。チャリで訪れていたのは私くらいでしたが、車で訪れる人は数グループ。皆さん、のんびりと歩き回っていました。
建物は
  1. Morton Boyd House-Old Smithy & Workshops
  2. Lower Square & Cowsheds
  3. The Harbour Dry Dock and Pier
  4. Alan Stevenson House-Old Pier Store Rooms
  5. The Coal Store
  6. The Quarry
  7. The Walled Gardens
  8. The Signal Tower
  9. Lightkeepers' Cottage
  10. The Dock Flushing System & Reservoir(近づくのは不可)
Hynish Village
です。写真は残念ながら全ての建物が写ってはいませんが、この村の象徴となっているThe Signal Towerが中央右寄りに写っています。
Skerryvore Lighthouse Museum
The Skerryvore Lighthouse Museumはこのトラストのプロジェクトの最初のもので、Tiree島Hynishの近代的な自活しているHebridean共同体を発展させるためにトラストの中枢部は引き続き委託をしてアトラクションを残しています。 1984年に、古いSignal Towerはトラストによって修復され、Skerryvore Lighthouse Museumに替えました。この小さい博物館にはAlan Stevensonwas(Robert Louis Stevensonの叔父)によるSkerryvore灯台のデザインと建設の驚くような物語があります。博物館は、現存する共同体の中枢にある産業考古学上の独特なものを保存しながら、1987年に開館しました。
この博物館はSignal Towerにあるとなっているようですが、この塔には入ることは出来ませんでした。しかし、Morton Boyd Houseにこの村や灯台の展示が行われていました。この建物の入り口にもそうなっていたと思います。実は、最初はこの博物館には気付かずに、併設されているお手洗いを借りに入ったついでに見てきたのでした。
Upper Square
Hebridean TrustはThe Northern Lighthouse BoardによってHynishのSignal Towerを提案されました。1980年代中期にこの塔は修復されSkerryvore灯台の建物をSkerryvore Lighthouse Museumに変えました。
1997年に購入されたUpper Squareの灯台守のコテージの再建と改装は、手頃な賃料で島の4家族に家を提供しました。これらの素晴らしく独特な建物はここに住む人達と同様にHynishを訪れる人達全てが楽しむことが出来る最高水準のものに保存されてきました。Upper Squareでの作業はLower Squareで始まった建物の保存の作業で賞を獲得したことで、完了しました。修復作業のプロジェクトは、Argyll & Bute Council、Historic Scotland、The National Heritage Memorial Fund、そして許可を得た信託委員会から資金を得て、2001年夏に始まりました。
Lower Square
1980年代後期にトラストは比較的名目だけの価格でArgyll EstatesによってLower Square複合体の残りの申し出を受けました。
港は、元々はSkerryvore灯台を保守点検するために造られましたが、ここもまた修復され、現在は地元と釣り客の漁船とレジャーボートの両方で使われています。港は真水の流水システムでは完璧で、貯水池と水路もあり、港の砂をはき出すことが出来ます。
古い埠頭の端の貯蔵庫は修復され、現在は子供達の休暇、事業課程、大学の教育課程や地元の目的のための設備を提供しています。放棄されたコテージの修復は管理人用に、そしてまたTiree Information Office用にも、宿泊施設に作りかえられました。
古い兵舎を含む様々な建物は現在地元の居住者のための住居に変えられました。古い鍛冶屋と作業所は身障者用の宿泊施設、大きな展示スペース、サーファーと船乗りのためのシャワーとトイレ施設を提供しています。他の建物はHynish Centreようと地元の居住や用の一般的な倉庫機能に変えられました。
建物は殆どはいることが出来ませんが、その回りを眺めながら色々な設備を見て回ることは出来ます。そして、南側の高台に登ると全体を見渡すことが出来ます。更に、この高台からは南側に広がる海(大西洋)も眺めることが出来、近くの岩礁にはアザラシのコロニーもありました。
Tiree島の数少ない観光施設でもあるので、リーフレットも用意され、Old Smithy & Workshopsの壁に大きな地図が掲げられていました。島の端にあるので少し時間はかかりますが、灯台に興味のある方には展示館は楽しめると思います。

<Tiree Rural Centre>Rural Centre
Tiree Rural Centreは島の最年長と最年少の農民がセンターの入口でリボンをカットして(2002年)8月21日(火曜日)に開館しました。新しい田舎風のセンターと市場は島の共同体に歓迎されるでしょう。
場所は空港のすぐ側です。入口を入ると廊下の両脇に様々な情報が貼り付けてあります。奥にはワークショップを行う場所も設けてあります。売店もありますが、曜日によって開店しているため、私が訪れた時には閉まっていたので、どんなものを販売しているのかは不明です。PCもあり、キーをもらうと使えるようです。展示内容は主に島の自然と農家の歴史で、時間がなかったので良く見ていません。カフェが併設されているので、昼食をここで取りました。また、出た後に、ちょっとだけ空港を回ってターミナルや滑走路の雰囲気だけ眺めてきました。

<An Iodhlann(Tiree Historical Centre)>
An IodhlannはTiree島の歴史博物館です。Scotlandの西海岸沿いのInner Hebrides最も外側のTiree島は眩いばかりに砂浜や花が散らばっている牧草地、力強い歴史の島です。
An Iodhlann(‘an-ee-lun’と発音する)は収穫物が蓄えられる麦わらの山の置き場に対するゲール語です。
1995年以降、Tireeについての資料が集められてきました-古い手紙、移民のリスト、写真、物語、そして歌です。10,000品目の収集には、島の岩盤を創っている300億年のルイジアン片麻岩から先週の牛の販売価格まで、現在は、島や島民、そして広く国外へ移住した人達について殆どあらゆることに及んでいます。
島最大の村Scarinishにあります。港から向かうとCo-op(日曜日でも開店)の向こうにあります。赤い小さい家です。開館は週に2~3日程です。入口または窓に開館日を貼ってあるので、チェックする必要があります。有料です。
私が滞在中は火曜日と金曜日の開館だったと思います。火曜日にチャリを借りた後に入館しました。入ると、おじさんが自分で電気を点けて見学するようにとのこと。電気を点けなくても十分に明るかったので、敢えて点けなかったのですが、後に入った人達が点けていました。入った直ぐに農家の模型がありました。台が回るので、向こう側も見ることが出来ます。有料の資料が置いてあったのですが、ゲール語のみで書かれていた物はさすがに買いませんでした。カラーで綺麗に作ってあったのですが。

<Sandaig Thatched Cottage Museum>
Sandaig Thatched Cottage Museum牛小屋と納屋が付いている本物の藁葺き屋根の農家です。場所は島の西海岸の真ん中辺りのSandaigにあります。
しかし、私が訪れた時は閉館して、売りに出されていました。前後に滞在したObanのツーリスト・オフィスで見たガイドビデオにはまだ営業しているように画像が映し出されていました。また、リーフレットや地図にもまだ案内がありました。いつ頃こんな状態になったかは不明ですが、ストリート・ビューでも閉館していました。島の東の端からこの博物館にある西海岸まで走ってきて、この状態ですから、がっくりしてしまいました。是非とも見学したかったわけではないのですが、折角訪れたので残念だったのです。チャリで到着した時、案内が無く通り過ぎたのですが、行き過ぎたことに気付いて戻って、位置を確認して分かったのです。建物の周りを回りましたが、扉も閉まって、窓に売り出し中の貼り紙があって気付きました。案内がなかったのも納得しました。そのまま引き返すには悔しかったので、この辺りの海岸を眺めて、その後近くのKilkenneth Chapelに向かいました。

<Radio Station>
Radio Station特に名所というわけではありませんが、島の最高峰Ben Hynish(それでも141m)の頂上にある球体は島の殆どの所から見えます。球体のイメージから”ゴルフ・ボール”という愛称で呼ばれているようです。 恐らくここの建設のためや、局員の通勤のためと思いますが、頂上まで道路が造られています。一般人が自由に出入りできるかは分かりませんが、もし可能ならば、結構楽に訪れることが出来ると思われます。
<An Turas(The Journey)>
デザインと作成は建築家-SutherlandとHussey、筆頭芸術家-Jake Harvey、芸術家-Glen Onwin、Sandra Kennedy、Donald Urquhart、技術者-David Narro Associates、建築家-Les RichardsonとArthur Elliotという人達です。
コンセプトは芸術家/デザイナが空、片麻岩で区切られた小石で覆われた海岸、そして大きな銀色の砂浜が広がる島をあらわにしています。
この芸術作品(?)はフェリー乗り場の側にありました。リーフレットまでもありましたが、それ程興味がわかなかったので、敢えて探しもしませんでした。帰りのフェリーに乗る前に、止まったバスの横にこの作品を見つけました。大人が十分入ることが出来る大きさですが、入っていった人の様子では先に見える景色は特別なものでもないようで、直ぐに引き上げてきていました。あまりに幾何学的で、島の自然や歴史とは一線を置く代物と思えました。
島の海岸
島を東西南北に回ってきたので、私が見た範囲での海岸の様子を紹介しておきます。殆どが砂浜ですが、島の全ての砂浜を見たわけでもなく、また岩場もあるので、全ての海岸が以下にご紹介するような所でもありません。
南海岸
Tràigh Mhòr
Tràigh Mhòr(Gott Bay Beach);ホテルの前の砂浜で、
マリン・スポーツも見かけました。
Tràigh Bhàgh
Tràigh Bhàgh;サイクリングの途中、
Scarinishを出発して暫くして眺めた砂浜です。
この右手奥に空港があります。
北海岸
Tràigh Baile a' Mhuilinn
Tràigh Baile a' Mhuilinn;西側よりにある砂浜で、
手前に川が流れているのが特徴です。
マリン・スポーツが盛んなため、側は駐車場になっていました。
Vaul Bay Beach

Vaul Bay Beach;Dùn Mór Brochに向かう途中で見かけた砂浜です。
Balephetrish Bay Beach
Balephetrish Bay Beach;Ringing Stoneを見た後と、
翌日のサイクリングで再び訪れた砂浜です。
寒いのに泳いでいる女の子を見かけました。
東海岸
Port Ruadh Beach
Port Ruadh Beach;島の東端を彷徨いている時に、降り立った砂浜です。
3~4人の女性がスケッチをしていました。右手の沖にはGunna島とColl島が見えます。
西海岸
Port Mòr Beach
Port Mòr Beach;Sandaigの海岸です。
Thatched Cottage Museumを見学できなかったので、悔し紛れに行きました。
Tràigh Bhi
Tràigh Bhi(Balephuil Bay Beach);Patrick's Templeがある岬が面している湾の奥にある砂浜です。
向かいは島最高峰のBen Hynishで頂上に”ゴルフ・ボール”が見えます。

  1. Isle of Tiree Community Web Site(英語):Tiree島のオフィシャル・ページです。
  2. Image of Tiree(英語):Tiree島を写真で紹介するサイトです。
  3. The Hynish Centre(英語):The Hynish Centreのオフィシャル・ページです。
  4. The Hebridean Trust(英語):The Hynish Centreに関しての記述があります。
  5. An Iodhlann(英語):An Iodhlann(Historical Centre)のオフィシャル・ページです。