Oban

2010/6/26(sat),7/2(fri)~7/4(sun)

Tiree島へ行くためにはObanに泊まる必要がありました。行きは前日に1泊、戻ってきてからは3泊しました。合計4泊ですが、移動の日は何をするにも中途半端で、せいぜい港から出ている1時間程度のボート・ツアー程度でしたが、それにも状況が悪かったり、時間に間に合わなかったりでボツ。結局、実質2日の滞在となりました。しかもお天気が良くなくて、予定していたTreshnish Islesへのボート・ツアーはキャンセル(申し込みもしていません)でした。残念な滞在とはなりましたが、予定していたLismore島と半日で往復できるお城には行くことが出来ました。
最初の滞在はKilmartinからバスでの移動でした。土曜日のためかバスはかなり混んでいました。途中の景色も楽しむことが出来ました。そして、Obanに入った時、バス停で大勢の人が降り始めました。以前滞在したことがあるので、そこは覚えがないバス停でした。港が見える所の筈です。降りる人の様子を見ていると、Kilmartinで一緒に乗った老婦人が”貴女は次のバス停よ”と教えてくれました。降りる所を話していたわけではないのに…でも、次が終点だと分かりました。大勢の人が降りていたのはスーパーのTESCOの前。皆さん週末の買い出しでした。お昼頃に到着したにもかかわらず、予約したホテルにはチェック・インが出来ず、荷物を預けることは出来たのですが、背負っていたリュックが重くて港辺りでボケーッと過ごす羽目になりました。チェック・イン後リュックを軽くしてもう一度港に出て、翌日のフェリーの確認をしてボート・ツアーに行こうとしたら、潮が高くなって目的のアザラシがいないとのことでツアーがキャンセルになりました。
Tiree島から戻ってきた2回目の滞在では、フェリーの出発が遅れて、更に到着も遅れました。海が少々荒れ気味だったからのようでした。港に到着後、予約したゲスト・ハウスへ。ここもチェック・インは3時からでしたが、到着した時は2時50分。それならばと、宿のテラスにあるベンチに腰掛けて待ちました。港が見える高台です。部屋はほぼ満点(トイレの水が流れにくかったのが欠点)で、荷物を解いた後今度こそと港へ。表通りへ出た時、通りのお土産店にちょっとだけ入ってみました。しかし、ちょっとだけのつもりがバックミュージックがRunrigだったためにお店を2回りして、記念品とCDを買いました。カウンターのおじさんがそれを見ていろ色話しかけてきて長くなりました。気が付いた時は最終のボート・ツアーの時間でした。当然間に合わなくて、銀行とツーリスト・インフォメーション、TESCOを回って宿に戻るのみになりました。結局このボート・ツアーには行っていません。元々予定もしていなかったのですが、2回も外したことが残念でなりません。

Obanの交通網
西の港町として、西にある島々を繋ぐフェリーが沢山出ています。また、そのためにここへやってくる陸路も様々ありました。以前もご紹介はしていますが、今回、利用した交通機関が以前と異なるのであらためてご紹介しておきます。
  1. バス
    • GlasgowからCitylinkがコーチを運行しています。1日3本程度なので、日帰りの往復には向かないでしょう。Inveraray経由なので、Kintyre半島からInverarayで乗り換えて移動することも出来ます。
    • West Coast MotorsがArdrishaig(Crinan運河の南端の町)からLochgilphead、Kilmartinを経由して運行しています。学校の授業日の平日は1日4本、土曜日と学校の休学日は1日2本、日曜日は運行休止となっています。Kintyre半島からの移動ではInverarayで乗り換えるのではなく、Lochgilpheadで乗り換えることも出来ます。バス停はObanとLochgilpheadともCitylinkと同じ所です。この辺りでCitylinkを利用すると、West Coast Motorsのコーチの車両になっていることが殆どです。Citylinkの予約でも問題ありません。
      このWest Coast Motorsは近郊の町との間にも多くのバスを運行しています。時刻表はツーリスト・インフォメーションなどに置いてありますので、目的地によってルートを確認する必要があります。こちらの方は日曜日も運行しているルートも多いので、日帰りでのお出かけも可能になります。
  2. フェリー
    運行会社はお馴染みのCalMacことCaledonian MacBrayneです。Obanからは西の島々へあちこち出ているので、リストアップしておきます。
    • Craignure(Mull島)
    • Achnacroish(Lismore島)
    • Arinagour(Coll島)-Scarinish(Tiree島)
    • Castlebay(Barra島)
    • Lochboisdale(South Uist島)
    • Scalasaig(Colonsay島)-Port Askaig(Islay島)-Kennacraig(Kintyre半島)
    たいていの場合往復切符で乗ることが出来ます。長距離の場合は乗船券に記入する必要がありますので、事前に記入しておきましょう。乗船券は切符売り場の近くのカウンターに置いてあります。目的地によって用紙が異なる(色も変えてあります)ので間違えないようにしましょう。カーボン・コピーになっていて、乗船時に1枚目を、下船時に2枚目を船員に渡します。(Tiree島から戻った時、何故か2枚目を集めておらずそのまま持って下りました。今もその乗船券が手元にあります。)
Obanの町
Oban Town到着した日は何も出来なかったのですが、空はまだ明るく、時間もたっぷりあったので、港の遊歩道を散歩していました。フェリー乗り場から北へ歩きました。途中大型クルーザーが停泊していたので、近くで見るための北埠頭を回って、戦争記念碑まで。結構距離があります。お天気が良い日にはこの遊歩道は観光客がのんびりと歩いています。遊歩道は戦争記念碑の所までです。その先には以前訪れたDunollie Castleが見えますが、今回はパスしました。気味が悪くて、そこまでの道も交通量が多い道路を歩くためです。戦争記念碑の側にはベンチがいくつかあり、向かいのKerrera島やその間の海峡を眺めることが出来ます。
右の写真は散歩の途中、北埠頭から眺めた町並みです。左の丘の上には今回も登ってきたMcCaig's Towerが見えています。右端にフェリー乗り場の一部が見えています。
名所へ
Dunstaffnage Castle
Dunstaffnage CastleDunstaffnageは13世紀にScotlandの西海岸一帯に建てられた戦略的な重要な石造りの城の1つです。この時期には、Scot人の成功を収めた王達が、野蛮で手に負えない住民を支配する地方の領主や族長の援助を得ながら、次第に西海岸と島々一帯の支配を広げていきました。
Lorn地方を統治したMacDougall一族は島々の王で偉大なる古代スカンジナビア人のSomerledの子孫で、その時代にはNorwayとScotlandの両方に忠誠を誓っていました。恐らくDuncan(1237年と1248年の間に死去)か彼の息子Ewen(1275年以前に死去)のどちらかがDunstaffnageを建てたのでしょう;その建築技術、そして近くの礼拝堂のそれに見られる現代的でかつ精巧な技術は王室の建設者がその建設に於いて素晴らしい腕を持っていたと考えられます。
1267年のAlexander III世によって隣の領主 Gilchrist MacNachtanを承認する勅許状は王とLorn地方のMacDougall領主の間に存在したと思われるある種の関係をよく表しています。この書状では、AlexanderはGilchristと彼の後継者を承認しています。
Dunstaffnageは恐らく単に地方の氏族の長の要塞としてでなく、王自身が家臣によって手厚くもてなされることを期待した場所でもあったでしょう。
城の軍隊と内側の役割は明らかにその計画に見られます。今日Europeの他の地方に建てられた他の城と比較するとわずかに違っていますが、Dunstaffnageにはその時代に流行っていた防衛の特徴が沢山あります;門も含まれる角には丸い塔がある四角形の平面、そして攻撃が最も来やすい方向には矢を打つための細長い切り込みが並んでいます。広間や台所、私室を含む内側の部屋の警備員達は北東と北西の壁の内部に配置していて3つの重要な塔の内部の他の私室と連絡を取っていました。
Scot人の最初の王国Dalriadaの嘗ての首府で、ここにはIrelandからIonaを経由してもたらされたThe Stone of Destiny(運命の石)がここにあったと言われています。また、Flora MacDonaldが1746年にここに幽閉されていました。
Obanから北へ3マイル(約5km)のDunbegで案内板に従って進みます。4-9月が9:30-17:30、10-3月が9:30-16:30の開館ですが、冬期には木曜と金曜日が休館になります。
<Chapel>
Dunstaffnage Castle Chapelこの礼拝堂は城の主要な壁と同じ時期の13世紀の中頃に建てられました。
全ての扉と中心となる祭壇の回りの窓は高く造られ、城の居住者による礼拝のために印象的な造りになっています。メインの入口は南側にあります。この礼拝堂は木製の仕切によって2つに区切られています。北と南の壁には高い所に燭台が取り付けられています。このしきりの東側にはメインの祭壇を収納する礼拝堂になっていました。仕切の西側は身廊で、礼拝のために平信徒が集まり、彼等のためにそこに祭壇が追加されました。
礼拝堂が荒廃し始めて随分経った後の1740年に、埋葬用の囲いがDunstaffnageのCampbell一族のために東側の壁に向かって造られました(右写真の奥がその増築された部分)。
この日はTreshnish Islesのボート・ツアーに行く予定でした。しかし、数日前から出ていた悪天候のために予約自体も諦めました。そして予報通りお天気は最悪。ずっと宿に籠もってしまおうかとも考えたのですが、時間をもてあまし、午後から出かける所を探していました。そして近くにこのお城があることを見つけました。しかし歩いては無理。日曜日なのでバスも無理かと思ったのですが、宿に置いてあった時刻表を見ると日曜日だけの運行ルートがあり、それがこのお城がある町Dunbegを経由するのです。本数も1時間に1本と問題ありません。夕方もあります。宿の近くにもバス停はあるのですが、バス・ステーションで待つことに。日曜だけの運行番号なので、バス・スタンスが分かりませんが、3つしかないので、真ん中で待っていました。バスが来て乗り込む時、運転手が色々言っていました。よく分からなかったのですが、”お城はやっていない”と聞こえてしまったのです。えっ?と思ったのですが、乗せてくれました。どうやら近くには行かないと言うことだったようです。Dunbegに入って直ぐ止めてお城に行く道を教えてくれました。そこには大きな案内板も立っていました。運転手は帰りの時刻を伝えようとしていましたが、今回も時刻表を持っているからとその後の説明は断りました。ただ、帰りのバス停は住宅地の方へ少し坂を登った所と教えてもらいました。
案内に従って道を進んでいると、やがてヨットが沢山係留されている港が見えました。Loch Etiveの湾口に当たる所です。そして両脇に大きな建物が建っている道を進んだ先にこのお城がありました。入場券を買った時説明されたのが、”先ず階段を上がって”と。お城に入るには確かに階段を上るのですが、そんな説明をする?と思いつつ城の中を見学していました。この頃には晴れと雨がコロコロ変わるお天気になっていましたが、午前中の大雨は過ぎていました。そうやって隅々まで見学した後、外を暫くウロウロ。そうやって見つけたのが入場券を販売している建物の2階へ続く階段です。上がって良いようなので、2階の部屋に入るとそこにはお城の歴史を書いたパネルと城のジオラマが展示されていました。係が”先ず階段を上がって”と言ったのはここのことだったのです。この説明を見てからお城の見学をすると良いとの説明だったのです。後になりましたが、ゆっくり読んできました。その中でFlora MacDonaldのことも色々書かれていましたが、ここに来ようと思ったのが観光案内に彼女のことが書かれていたこともあったのを思い出しました。また、覚えのないChapelもありました。
お城の前をまた彷徨いているとChapelの案内が。森の中にありました。こちらも周りを回って、中を見回って引き上げました。ついでにお城の西側に海があったのでそちらも少し見ました。前日訪れたLismore島が見えるはずですが、お天気が悪くてハッキリは見えませんでした。
そうやって帰りのバスに丁度良い時間に間に合うように引き上げました。バス停に近づいた頃、丁度バスが脇を通りすぎました。その時運転手が私に手を振りました。何と行きに乗った運転手だったのです。田舎では困難ことはざらにありますが、街中では珍しいのでは?このバスはその先まで進み引き返してくるのです。降りたのは宿の近くでなくその先。夕食を買いたかったからですが、もう1つ先まで乗ると目的のTESCO側で降りることが出来たのですが、ころりと忘れていました。宿に戻って奥さんに午後からどこに行ったか聞かれました。城の名前は上手く言えませんでしたが、”Dunbegにあるお城”と答えると分かって貰えました。”良い所に行ったのね”とのこと。大雨のために見つけた拾い物みたいに思えた所でした。お薦めです。
Isle of Lismore
Lismore島
Lismoreは細長く、肥沃な低地で、Great Glenの南西の端の入り江Linnheの湾口に位置しています。南西から北東に細長く、長さは10マイル(約16km)、最も幅が広い所で1マイル(約1.6km)の広さです。Obanからカー・フェリーで8マイル(約13km)の所にあり、Port Appin(本土)からは人用フェリーで約5分で渡ることが出来ます。Argyllの島々では渡りやすい島の一つです。島は穏やかでそこなわれていません。北の(冬には雪で覆われる)Ben NevisとGlencoeの丘から、時計回りに回って、南方向のMull島の丘Ben Cruachanと西方向のMorvern地域までの素晴らしい山々の景色に四方を囲まれています。
島は歴史が染み渡っています、特に信仰の歴史では13世紀に遡り聖Moluagの教会として一部分が現存するCathedral教会はArgyll司教達の席になっていました。聖Moluagは伝説の聖Columbaの同輩でライバルでした。MoluagはLismoreにキリスト教をもたらした人です。
また、島には廃墟となっているノルマン人の要塞である鉄器時代のBrochやロマンティックな想像をかき立てる廃墟となった城もあります。島の人口は現在約180人です。小さな共同体があり、とても親密ですが、強い共同体精神も持っています。教会の他に、小学校、雑貨・郵便局、公民館、そして最近作られ賞を勝ち取ったGaelic Heritage Museum(展示館)とカフェがあります。展示館には、農家の家が再建されて追加され、島の歴史を更に理解を深めているはずです。
Obanから日帰りで往復できる所にあるので当初から計画していました。フェリーは平日はかなり頻繁に、土曜日も何とか島を歩き回って戻ることが出来る本数はあります。日曜日の運行もありますが、島でゆっくり出来ないので、土曜日に行くことにしていました。(日曜日はTreshnish Islesのボート・ツアーを予定していました。)お天気は雨が降ったり止んだりの状態で、チケットを買って離れた所にある乗り場(屋外)に行く時にはかなりの雨が降っていました。乗り場を確かめてそのまま待っていると雨が止み、それが分かっていた人達がやってきました。乗り場を確かめたかったので気が急いていたのですが、暫く待っておけば良かったのです。フェリーは小さい船室があり、人も車も同じよと頃から乗船する小さい船です。航路はずっと内海を進むので、少々揺れますが、船酔いする程ではありません。雨のため外は寒かったのですが、景色を楽しみたかったので、ずっと屋外にいました。風当たりがきつかったのですが。側には車が止めてあるはずなのですが、この時はバイクが1台だけ。帰りも車は乗っていませんでした。車は主に島民が乗せているようです。このフェリーは帰りにすれ違う大きなフェリーが起こす波で揺れることを避けるために止まっていました。しかも2隻もすれ違うのですから、港を目の前にして足止め状態が続きました。その間に船員は操舵室から釣りをしていました。のんびりしています。ちなみにすれ違ったフェリーはBarra島とMull島行きで、私はどちらも乗ったことがある船でした。
Lismore Map
a wild orchid島に降り立って皆が同じ方向に歩き始めました。殆どの人は島の中央を目指し、展示館へ向かっているようでした。それ以外に見る所がないように思われたからでした。その人達と前後しながら歩いていたのですが、その中の1人の男性が道路端を覗き込んでいました。そこにあったのは可愛らしい野生蘭。色も数種類あり、島の名物(?)の1つらしいです。先に進むと、今度は数人が島唯一のお店に入っていました。本来なら私は入らないのですが、郵便局もあったので入りました。前日、切手が欲しかったので聞くとTESCOで買えると。そんな所で?と思いつつ行ってみたらTESCO内に郵便局があったのでした。その時はまだ開いていたのですが、絵葉書を書いていなかったので翌日にしようと買いませんでした。しかし、翌日は時間が無くなっていけなくなってしまいました。この島で運良くあり、海外用も置いていました。しかも、記念切手もあったのです。こんなことが小さな島の利点でしょう。
島に上陸した後も雨が降ったり止んだりしていましたが、その雨もかなり小降りになったので、島歩きは随分楽になっていました。
Comann Eachdraidh Lios Mòr(Lismore Historical Society)
Lismore Historical Societyこの新しい歴史センター"Ionad Naomh Moluag"(St Moluag's Centreの意)は2007年3月17日に開館しました。Angela Yeoman女史が天候が少し穏やかになった日にこの新しい建物を開館する栄誉を受けました。
Ionad Naomh Moluag は4-10月の11:00-17:00に開館、展示室とTigh Iseabal Dhaibhの入館には£3.00(私が訪れた時は£3.50と値上がりしていました)が必要です。冬期(11-3月)中は予約者のみが見学できます。新しい建物の中には軽い飲食物を提供するカフェがあります。図書室はゲール語と歴史の書物を収集していて、地元の本や絵葉書などを販売している小さな売店もあります。
Ionad Naomh Moluag museumには現在、引退した記録保管人でLismoreの友人であるMurdo MacDonaldの気前の良く寄贈したArchie Knoxによるヌーボー・スタイルの錫合金の製品が3つあります。Murdoは仕事のために相当な収集を行っていて、残りはKelvingroveアート・ギャラリーに寄贈しています。Archie KnoxのLismoreとの関係は彼の母親Ann Carmichaelを通じてで、彼女はBaligrundle(島のほぼ中央の地域)で生まれ育った人です。彼女はその後AyrshireのKilbirnieに引っ越し、William Knoxと結婚した時に、Man島に移り、そこで5番目の子供であるArchieが生まれました。
<Thatched Cottage>
Thatched Cottageこの典型的な’小屋住み農’の家は-19世紀後期の物ですが-2002年8月19日に’生まれ変わり’をお祝いされました。忠実に再建され、小屋は島の過去と多くの島の住民が持っていた伝統的な技術の例証を見せています。
小屋の壁はJim MacCormickが彼の叔父のJames MacCormickとPeter MacDougallの援助を得て、全て島の物を使って建てました。屋根の梁はArgyllのArdfernのSimon Bevanが造り、藁葺きはDumfrieshireのDouglas城のJeremy Coxが行いました。ふきわらのいくつかがLismore島のBalnagowanからのもので、残りはPerthshireからのものです。
島で唯一観光ガイドにあったこのセンターへ。小さな島なので、道は単純です。途中には家が数軒あるだけでこんな中にセンターがあるとは思えない雰囲気でした。案内があるので見逃すこともなく、着きました。先に着いていた人達は皆カフェでお昼を取っていました。展示室を見学している人はいなかったのですが、入場券を買ったら、入口のロープを自分で開けて入るように言われました。中は撮影禁止なので、受付に荷物を預けて回りました。島の歴史とその間連場所など細かく説明してありました。遺跡はジオラマでミニライトを点灯して示してあります。キリスト教の歴史もあったので少し読んでいました。その後に島の教会に入った時、聖Columbaと聖Moluagが並んでいるステンドグラスを見ました。聖Columbaは以前から知っていますが、何故か聖Moluagのことも知っていたのです。どこかで読んだ?と思い返していたら、直前にこのセンターで読んでいたのです。その点ではこのセンターに寄ったことは良かったと思えました。展示室を見終わった後、係に促されて外へ。隣にある農家の中を見学します。再建されて、中の調度品は寄せ集め。実際にこんな暮らしだったか?という疑問がわいてしまい、長居もしませんでした。こんな農家は他でも見たので、余り参考にはなりませんでした。
その後、併設のカフェで昼食を取り、その後のことを考えました。フェリー乗り場に戻るには早いので、近くの遺跡を見に行こうと思いました。その後、時間を見て海側のBrochに行くかどうか決めることにしました。
Castle Coeffin
Castle CoeffinCastle Coeffinは13世紀にMacDougall一族が建てました。一族はまたLismoreの南の方にあるAchanduinも建てました。
城の歴史やCampbell一族が城主となる前まではStewart一族との結婚を通じて手にした占有者達は少し知られています。
この辺り一帯は長く占拠されていて、近くには鉄器時代の要塞があります。
地元の言い伝えはいつもCaifeanという伝説のノルマン人と関係がありました。彼の姉妹のBeothailの幽霊は、彼が彼女の骨をNorwayに戻して恋人の横に埋めて彼女を自由にするまで、城に出没したと言われていました。
<ガレー船と魚の罠>
この湾は恐らく800年間西海岸の海の主な交通機関だったガレー船の上陸に使われていました。
魚の罠は、恐らく中世時代の物で、干潮時に湾に見られたと思われます。これは狭い隙間の両側に2つの低い石の堤防を作っていた物です。これらの遺跡はもろくて、もしかすると危険でもあります。安全と保護のためその上には登らないで下さい。
先のセンターから北へ進みました。近くに塚があると地図にあったので行ってみることにしたのです。やがて近くになると案内がありました。それは塚でなく、お城になっていました。取り敢えずそちらへ。塚は案の定分かりませんでしたが、先へ進むと10人くらいのグループがいました。その先にお城があるようで、彼等が進んでいったので着いていく形になりました。やがて、坂の上からこのお城が見えました。センターで場所を見た時は南の方にあると思い諦めていたのです。私が覚えていたのはもう1つの方で、こんな所で見ることが出来るとは思っていなく、喜んで近づいていきました。先に進んでいたグループの1人が声をかけてきて、話しながら近づいていきました。グループの数人が軽々と城の上に登っていました。私は苦労するのだろうな…と思っていたのですが、実は土の階段があるので楽に登ることが出来たのです。取り敢えず、説明板を読んで撮影しました。その私を見て、良い方法だと。それから上に登り、嘗てはホールだったと思われる所から下や海を眺めていました。彼等は話をしていたのですが、それがお城のことでなく、前日のWimbledon。こんなところでする話か!?その後降りて城を一回り。そしてLoch Linnheの北側を眺めて休憩しました。彼等が去った後、私も城を去りました。着いていったわけでなく、時間的に丁度そんなことになったのです。
Tirfuir Broch
Tirfuir BrochこのBrochは約2000年前の鉄器時代に作られました。Lismoreの重要な先史時代の共同体が高度なものだった時代です。
Brochは、基礎の上部に3mを越える厚さの壁で高さは15mもあり、回りの海路を支配していました。中央部は自分たちの生活エリアで、外側の壁の間の特有な通路は今でもそのまま残っています。
TirfuirはBritainのローマ支配中に建てられ、ローマ調のエナメル・ブローチが土台の層で見つかっています。それは建て始められた時に故意に置かれ、’奉納の手付け金’または神への贈り物だったと考えられます。
Brochはしばしば長い間占拠されていて、このことはTirfuirでは考古学的な発掘物が証拠になっています。発掘物には8世紀の高度な飾りのピン、ノルマン型に近い長方形の建物、そして11世紀または12世紀までに占拠されていたことを示すノルマン人のピンと船のリベットが含まれています。
その後は権力が島の西側にあるClan MacDougall城に移り、Brochは廃墟となりました。
この廃墟はもろくてかなり危険です。安全と保護のために上には登らないで下さい。
島の東側にあり、道もハッキリしていませんでした。ここから港までパスがあるように書かれてはいるのですが、例のごとく途中で消えているのでは?と思って行くかどうしようか迷っていました。Castle Coeffinまで歩いた道路を引き返せば間違いなく港に着きますが、こちらは遠回りでフェリーには到底間に合いません。そんなことを悩みながらお城から道路に出ると、先のグループがそこにいました。そして別の男性が、一緒に行かないかと誘ってくれました。ルートを聞いたら、このBrochを回ってパスを歩いて港に行くとのこと。フェリーも同じです。それならばと一緒行くことにしました。そのままBrochへ向かうのかと思ったら、直ぐ近くの教会で止まっていました。中を結構ゆっくり見ていました。誘ってくれた人は教会の前からこのBrochが見えると教えてくれました。よく見えました。そして海側のパスに出る道を進みました。Brochの案内もありました。しかし、パスに出た所で、Brochは背後になっていました。えっ?と思っていたら、先の男性が呼び止めてもう1人の男性と3人だけで見学することに。時間が余り無いと言われ、慌てて見て写真をさっと撮って、他の皆さんの後を追いました。既に姿は見えませんが、道は分かっていました。パスはハッキリはしていませんが、迷う程ではありません。それに同行者がいたので安心して歩きました。グループに追いついたのはMonumentの所でした。そこで止まっていたのです。何故我々が遅れたかを聞いた女性が、私も呼び止めて欲しかったと文句を言っていました。Monumentはそこで溺れた息子さんを偲んでお父さんが立てた物だとのことでした。その後みんなで港まで。フェリーの時間までは30分はあったと思います。そんなことならBrochをもう少し良く見たのに…一人でいたらもっといたかも知れませんが、グループの皆さんのおかげでこのルートを取ることができたと感謝しています。

  1. West Coast Motors(英語):West Coast Motorsのオフィシャル・ページです。
  2. Dunstaffnage Castle(英語):Undiscover ScotlandのDunstaffnage城のページです。
  3. the Isle of Lismore Community Website(英語):Lismore島のオフィシャル・ページです。
  4. Comann Eachdraidh Lios Mòr(Lismore Historical Society)(英語):Lismore Historical Societyのオフィシャル・サイトです。