Isle of Islay

2010/7/6(tue)~7/9(fri)

2度目のKilmartinから2度目8年ぶりのIslay島への移動になります。朝5時くらいに隣の部屋の人が出発するためにガタガタしたので目が覚めました。その内に、何と非常ベルまで鳴り出しました。火災報知器ですが、隣の人がそんなに慌てていないので、そのまま避難もせずじまいでした。朝食時に宿の人が教えてくれました。”今朝は最悪だった。早朝出発の客が、トーストを焦がしてベルを鳴らした”とのこと。迷惑な宿泊客でした。そんなこともあったのか、問題を起こさない私には親切にしてくれました。
KilmartinからLochgilphead、更にKennacraigまでバスを乗り継いで移動し、Islay島(Port Askaig)までのフェリーに乗り込みました。KennacraigはIslay島のみしかないので、切符を買う時は行き先は不要で、片道か往復、往復ならば戻る日(曜日)を言えば良いだけです。それにクレジットでも処理が早いので、列は直ぐになくなっていました。係は先ず往路の切符を、次に復路の切符とクレジットカードを分けて渡してくれます。受け取った時、間違えようがありません。そして乗船です。このフェリーは大きいはずなのに、タラップは使わず車と同じ所から入っていきました。この時もまだ、フェリーの運行がおかしくなっていることに気付きませんでした。2度目でお天気も良くなかったので、甲板からの眺めは程々にして船室に籠もっていました。早朝のトラブルのおかげで眠くもあったのです。到着したPort Askaigは普通にタラップを降り、運良く雨も上がっていました。

Keills

当初の計画ではColonsay島を訪れるつもりでしたが、島での宿泊がままならないようだったので、日帰りできるPort Askaigに泊まるつもりでした。しかし、Port Askaigにはホテルしかなく、問い合わせたところ、空室は2日目しかないとのこと。1日目はホテルの個人の部屋に泊めることが出来ると。そうしてもらおうと連絡を取ったつもりでしたが、うまくいっていなかったのです。そんな不安を抱えたまま出発。確認のメールは出発後に届いていました。返事が出来なかったので、私の予約は確定していませんでした。結局、ホテルの人が電話をして近くの村に宿を確保してくれました。その時に、Port Askaigに宿泊する理由を聞かれました。Colonsay島の返事に、数日前からPort Askaigからは行けないと。フェリーのトラブルで、この島に行くためにはObanに回らなければならないとのこと。私って、Obanから来たのよね。また戻るなんてことは出来ませんし、2日しか予定は空いていません。そして、Port Askaigに泊まる理由もなくなり、バスのルート上であれば何処でも良く、出来ればBowmoreにと、あちこち電話してくれることになったのです。Bowmoreは空きが無くて、宿の方が気を利かして、隣村にある案内もなければ、宿のリストにも載っていないB&Bを確保してくれました。この時点で既にバスはなくて宿の方が車で送ってくれました。途中、Port Askaig周辺の道路が整備され、大きくなってしまったと余り歓迎されていないような口調でした。確かに新しい道が出来ていて、車は通りやすくなっていると思いました。その分、崖などが削られて、景観を損なった雰囲気になっていました。8年も経てば、こんな所も変わるのですね。
村には雑貨屋すらなくて、夕食をするなら宿の人が車で送ってくれるとのことでしたが、1日目はフェリーの船内で買っていたので不要でした。2日目も、Bowmoreに行った時に買っていたので結局お手間はかけていません。ただ、Colonsayの予定がぽっかりと空いたので、どうするかを悩みました。ホテルでもらった資料と地図を合わせると何とか出来ると。事前にバスの時刻表も手に入れていたので、それを合わせれば無事に過ごせることが分かりました。この宿はバス・ルームは共用ですが、泊まり客は私だけだったので、結構自由に使っていました。部屋も当日飛び込みにしては十分でした。昔からやっているようで、コンセントの数が少なく、またPC用のプラグが入らないので苦労しました(デジカメの充電池用に持っていた変換プラグはOKでした)。窓の外は庭と野原(または放牧場)だけで家は見あたりません。従って夜は真っ暗でした。とっても静かな村でした。

Keills
フェリーが到着するPort Askaigの隣の村です。約1.8km離れていますが、Port Askaigからの急な坂があるため、歩くと30分はかかると思われます。
村の名前は村の北側へ向かう墓地にあるSt Columbaの教会Cill Chaluim Chilleから取られています。その廃墟となった教会と14-15世紀のIonaスタイルの彫刻がある十字架の軸は勢力があった中世の教会の共同体の時代にも生き残っていました。その共同体の土地にはCnoc ClÈirich(Knocklearach農場)が含まれています。Keills Playing Fieldにある十字架軸は村の中を通ってFinlagganに続く古い道の側に建っています。
現在の村は1820年頃に麻の織機工場を建てるために作られました。麻は周辺で育てられ、織り職人はGlasgowから織物を盛んにするためにやって来て、彼等の小屋の中に建造された織機で織りました。その小屋の産業は短くてKeillsは、新しい学校を建ててその後建てられた評議会の建物が計画された1959年までに少しずつ代わっていきました。
このKeillsの十字架はKildalton CrossとKilnave Cross(Kilnaveは島の北海岸の近くLoch Gruinartの西海岸にある村)と共にIslay島の重要なケルト・クロスとされています。このことに気付いたのは後日訪れた、Kildalton Crossの説明でした。また、村を去る時にこの村の成り立ちもバス停近くの説明板で知りました。こんなことなら、もうちょっと注意深くこの村を見ておけば良かったと後悔しています。ただ、このKeillsの十字架は撮ってきた写真を注意深く見るとそれらしき物が写っていました。暗くて表面の彫刻は分かりませんが、ネットで確認した形は同じです。立っている位置もその辺りです。村から見えたJura島のPaps of Juraの雄大さを撮った時に写り込んでいたのです。これがせめてもの慰めになりました。
Finlaggan~Ancient Seat of The Lordship oth the Isles
Eilean Mor1329年から1493年まで、Argyll地方とHebrides諸島は島々の領主(Lords of the Isles)が統治していました。このScotland人統治者達はバイキングの圧政からWestern Islesを解放したとして有名なSomerledの末裔でした。島々の領主は西海岸の最も強力な支配者であった一族のClan Donaldとなりました。
ここFinlagganはHebrides諸島の領主の評議会が裁定を論議し新しい法律を通すために会合を行った所でした。Eilean Morの廃墟となった教会の近くで見つかった墓石はおそらく領主達の妻と子供達の物である墓からの物でしょう。支配者自身はMull島の少し南西にある統治の宗教的な中心地であるIonaに埋葬されています。
Finlagganトラストはこの場所の退廃を止めて、その保護を援助し、関連する研究を奨励するために1984年に設立されました。
The ChapelThe Chapel
廃墟となっている14世紀の教会は島々の領主のJohn1世によって建てられました。彫刻がある石の記念の十字架は教会の隣の墓地で発見されました。ここの墓石には鉄床(カナトコ、恐らく鍛冶屋の墓でしょう)、子供の石板、そして足元にギャリー船の絵があるHighlandの甲冑姿の立派な肖像の男性の絵が見られます。
この教会は聖Columbaも生きていた6世紀中にScotlandにやって来た修道僧、聖Findluganに献納されました。最近の発掘では墓地に埋葬されていた内のいくつかはこの教会よりも早い時期の物だということが分かりました。
Eilean na ComhairleThe Council Island
The Council Islandは島々の評議会のための会合場所で、石の道で繋がっています。最近の発掘ではこの島には鉄器時代の砦-要塞または円塔-の廃墟が合ったことが明らかになりました。その後、恐らく13世紀にその砦の廃墟の上に城が造られました。その城は取り壊され、1400年代に占めていた建物に取って代わりました。その建物は評議会の謁見室であったと考えられています。
評議会の会合のため、Finlagganは中世の時代の最も重要なこととして新しい領主を宣言することに使われていました。発掘では、この広い居住地が真に島々の領主の統治の中枢であったことが分かりました。
 
Keillsでは丸1日空いてしまったので、その日をどうするか考えました。絵地図を眺めていると近くに面白そうな所がありました。廃墟のお城と墓石の絵です。遺跡は湖の側らしいことは分かりましたが、そこまでの道のりが不明でした。湖を回り込まないといけないかもとは思いましたが、そんなに遠くもないと感じていました。朝出がけに宿の人から行き先を聞かれたので、答えると12マイルあると。いくら何でもそんな距離ではないと思いましたが、暫く歩いて途中でバスを拾うと言ったら納得してくれました。”そこには日本人のスタッフがいる”とも。おかしい…どうやらどこかの蒸留所のことらしいのです。私の発音が悪かったので間違えたらしいのです。Islay島を訪れる日本人が殆ど蒸留所見学をするので私もそうと思いこんでいたらしいのです。そんなことを思いつつ、Bowmore方面の道を歩いていました。先にちょっとした森が見えたので、そこまで歩いて、もし可能ならこの遺跡までの道を尋ねようと思っていました。ところが、その森の手前にFinlagganへの案内が出ていました。1マイル先とのこと。そちらへ入り、更に分かれ道に付いた時も案内があり、迷うことは全くありませんでした。途中で湖が見え、更にその中の島に遺跡も見えました。
遺跡の手前にはセンターがあり、先ずその中の展示室を見学しました。島の歴史から、この遺跡の発掘状況などです。窓からは遺跡を眺めることが出来ますが、その手前に小学生が作ったジオラマがありました。このセンターにはちょっとした売店はありますが、食事となる物は置いてありません。スナック程度はあります。そして、遺跡へ。ここは湖の中の島になっていますが、木製の橋が架けられているので、楽に歩くことが出来ます。橋の手前には料金箱がありました。センターを通らずにここへ来た人に料金を払って貰えるように置いてありました。私はセンターで料金を払っているのでそのまま進みました。センターの閉館時間以外に訪れる非知子の遺跡を見学できるようになっているのです。
遺跡には色々説明板があるのでよく分かるようになっています。見た目よりも広く思えました。建物は教会(写真の左側)と16/17世紀の住居(写真の右側)くらいいしか残っていませんが、大ホールの後はその敷地がはっきり分かる程でした。基礎も若干残っていました。また、島のその向こうにも小さい島がありました。これがThe Council Islandで、嘗て廃止で道が作られていましたが、現在は水没していました。湖が干上がるとその道が現れると思います。他にも船着き場や湖の岸辺からの道(こちらも水没)もあったようです。
歴史的にも重要なこの遺跡は一見の価値がある所です。お天気に左右されるかも知れませんが、見学には申し分がありません。
Bowmore蒸留所見学
Port AskaigホテルやKeillsの宿の方がしつこく蒸留所見学?と訪ねてくるので、それならばと予約不要のBowmore蒸留所見学をすることにしました。Finlagganの遺跡見学が午後1時までに終わったので、その後の時間をどう過ごすか、バスの時刻表を眺めながら考えました。バスはBowmore方面は1日3本、最終が午後3時半頃なのに、BowmoreからPort Askaig方面は1日6本、最終が午後6時過ぎです。どうしてこんなアンバランスな運行になっているのか分かりませんが、Bowmoreへ行ってKeillsに戻るには都合は良かったのです。BowmoreはIslay島最大の町なので、銀行やCo-opがあり、何かと便利だったのです。
銀行やツーリスト・インフォメーションを回っていた時、バス停の前である女性に声をかけられました。どこから?との質問にいつものように”大阪近く”との返事をしたところ、”それなら関西ね”と。この時点でこの方はただ者ではないとは思ったのですが、その後に続いた言葉が”じゃ、阪神タイガースのファン? 私ファンなのよ”。その言葉に少々驚きました。”それって、野球じゃないの”と言いたかったのですが、ただ”No”との返事をしただけです。Scotlandに何回も来ていると言ったら、”それなら結婚してこちらに住んだらいいのに。相手は沢山いるわよ。”と言われて返す言葉がありませんでした。その後、この方は”『あるある』に出た”と。その番組は知っていましたが、余り見ていません。ただ、この時の放送は見ていた記憶はあります。それで野球を知ったらしいのですが、でも何でファンにまでなったかは分かりません。最後に、”私、Co-opに買い物に来たんだわ”と言いながら去っていきました。この方のノリは関西のおばさん?
Bowmore Distillery(Stills)そんなやりとりがあった後、直ぐ近くのBowmore蒸留所見学を申し込みました。最終回でした。その前の回も参加できたのですが、見学時刻が分からないままウロウロしていたために遅れました。見学時刻は門に書いてあったのに気付かなくて、資料などを探していたのです。
見学はまず、本館2階でビデオ上映を見ます。このビデオには日本語バージョンがあるようで、言語選択で切り替わるようです。それだけ日本人の見学も多いと分かります。そして、建物の外で説明を受けます。この時写真はフラッシュを焚かなければOKとのこと。私を含めて皆さん、バチバチやっていました。最初はピート(泥炭)の山積みから始まり、麦の発酵から、木桶が並んでいる部屋に入り、スティル(蒸留器)が並んでいる部屋(写真右)へ。見学集団の最後あたりにいたので説明が聞きづらく、また早口なので聞こえても余り理解できませんでした。ただ、以前に蒸留所見学をしたことがあるので、大凡は分かります。そして、建物を一旦出て再び中へ。ここが樽の倉庫で、ガラス越しに樽が並んでいる光景を見ることが出来ます。この倉庫は海抜より低くなっていて、Islay島にある他の蒸留所も同じだとのこと。ひんやりするのでしょうね。側にはElizabeth女王が買った樽が転がっていました。Bowmore Distillery Tour's Tastingこの時のウィスキーは本館2階の展示室に飾られていました。最後はこの展示室の隣に設けられている試飲コーナーです。人数分カウンターにカット・グラスにウィスキーが注がれて、賞品のミニ・リーフレットが置かれていました(写真左)。子供の見学者にはジュースが出されました。私も欲しかったのですが…ここで、ふと、飲むのは無理でも味見だけと用意されていたウィスキーをちょっとだけ口に含みました。まずくはないので、好きな人はきっと美味しく感じるのでしょうね。2~3口つけたところで、酔いそうになったので外に出ました。
蒸留所見学を行っている所はJura島を含めてIslay島には9箇所あります。Bowmoreのように飛び込みできる所は少なく、事前に予約が必要な所が殆どです。また見学できる曜日や時間も様々なので、全ての見学コースが載せられている資料もありますので、事前にチェックして下さい。また、Laphroaig蒸留所の前を通りがかった時に、その日はスタッフの訓練日で本日のツアーは中止という貼り紙がありましたので、事前チェックは必要でしょう。宿の人も手配などしてくれることがありますので、色んな方に聞いて下さい。飲めなくても見学内容はスタッフの生の声で行われるので、結構面白く、興味も湧いてきます。
Port Ellen
Port Ellen
ここは2回目の滞在なので、町の紹介は敢えていたしません。前回、この町には余り宿がないと聞いたので、事前に見つけたゲスト・ハウスを予約したのです。しかし、8年前よりは随分良くなったようで、他にもいくつかの宿がありました。港近くで探したのですが、最初に問い合わせた所は満室。次に近そうな所でOKだったのですが、バス・ルームは共用の割に高くて、部屋にはクローゼットが無く服はドアにつけられたフックに掛けるしかなかったのです。朝食も貧弱だったので、立地だけで稼いでいる感じでした。街中は前回あったインフォメーション・ルームが無くなっていましたが、ネットカフェは残っていました。その他は余り変わったとは思えませんでした。食料は雑貨店とCo-opがあるので、困ることはありません。
以下に、海岸縁にあった島の文化の紹介文を載せておきます。
Islay島の文化
12世紀中にArgyllと島々の人々はバイキングを彼等の本土へ追い払う戦いでSomerledに従いました。続く300年間、Somerledの子孫達はRi Innse Gallまたは”島々の領主”の名を取って、Hebridesの島々を支配していました。彼等の要塞はIslay島のFinlaggan湖にあり、またLagavulinのDunyvaig城を所有していました。
聖ColumbaはIona島へ行く途中6世紀にIslay島に立ち寄りました。Iona修道院で訓練した石の彫刻師達はIslay島にその技術を持ち帰り、Kildaltonの十字架はBritain島で最も立派な宗教的な彫刻の1つとなっています。
歌、音楽、そしてストーリー・テリングが何百年物間Islay島の歴史での役割を果たしていました。ゲ-ル語文化の立派な貢献者達の多くは、”Gaelic Bards(ゲール語の吟遊詩人)”として知られていますが、この島で生まれ育っていました。最近のIleach Bards(Islay島の吟遊詩人)にはKilchomanのDuncanとCharles MacNivenと、その仕事が未だに今日のゲール語でも高い評価を受けているLagavulinのDuncan Johnstonです。
Islay島の最も有名なゲール語の吟遊詩人はJohn Francis Campbell (1821-85)で"Iain Og Ile(Og=young、Ile=Islay)"または "Young John of Islay"として知られています。彼はゲール語の民話の収集で最も記憶に残っていて、1860年と1862年の間に出版された”Popular Tales of the West Highlands(西ハイランド昔話集)”の4巻は最も有名です。
Dunyveg Castle
Dunyveg Castle表記はDunivaig Castle、 Dunyveg CastleまたはDun Naomhaig(ゲール語)です。Port Ellenから4km東のLagavulin湾の東海岸の岬の岩場に建っています。
'Dunyveg'の名前は’小さな船の要塞’という意味で、お城が海の玄関口、加えてI陸地の入口のDunyvaig城の築城がslay島の東海岸のLagavulin湾一帯を守っていました。近くにはLagavulinとLaphroaig蒸留所があります。
バイキングが1200年以前にこの場所を作ったと考えられています。現在の廃墟は元々島々の領主の砦でDunyvaigのMacDonald一族によって所有されていました。陸地の方の入口と同様に、このお城は海の玄関でもあり、小さな船がお城の庇護に入り込むことが出来たと言われています。
嘗ては島々の領主MacDonald一族の砦でしたが、このお城は1493年に一族の他の財産と共に没収されました。その後ArdnamurchanのMacIan一族の手に渡り、1519年にMacDonald一族に賃貸され、1543年にCampbell一族に与えられましたが、1545年に再び賃貸されました。17世紀にはこのお城はCawdorのCampbell一族の初代のAlasdair 'Old' Colkitto MacDonaldの先勝物となり、その後David Leslie(1601-82)配下の契約兵隊の物となりました。Leslieは包囲攻撃の末お城を手に入れ壁からMacDonaldを吊しました。その後CawdorのCampbell一族がSir Hugh Campbellがお城を取り壊し回りがもっと快適なIslay Houseに引っ越した1677年までお城を占有しました。
荒廃が進んだ13世紀のお城ですが、多くは16世紀の物と思われます。15世紀の天守閣と13世紀の中庭の痕跡があります。
前回の滞在時、Port Ellen近くのスタンディング・ストーンを見て歩き回った後にバスに乗るため向かったLagavulinの近くで、海岸にお城らしき廃墟を見ていました。後に地図などで確認したところ、このお城ということが判明しました。今回フェリーの出発とKildalton CrossのためにPort Ellenに滞在することにしたので、前回近くまで行けなかったこのお城に行ってみようとしたのです。半日で行くことが出来るので到着した日に歩いていって見ました。帰りは前回と同じようにバスです。この時にチャリを借りていれば、翌日ももうちょっとあちこち行けたので後悔しきりです。歩いて約1時間、Lagavulin蒸留所に着きましたが、このお城はその先から近づくことが出来るようでした。案内もなく、海が見える位置で下に降りる道を見つけて進んでみました。手前には民家が数軒あったのそれ用かと思ったのですが、道の終わりに広場があり駐車中の車もあったので、この道で間違いないと分かりました。広場からお城まで獣道がありました。説明板はありませんでした。手入れも殆どされていないようです。
お城は殆ど廃墟で、僅かに壁と窓が残っているだけです。大きくはなかったようで、これまで見てきたBrochよりも小さいと思われました。海側に僅かに部屋らしき所が残っているので、そこまで岩場の上のパスを通っていくことが出来ます。このパスが、途中狭い岩場の上を渡っていてかなり危険です。カメラ・バッグやリュックを背負ったままではバランスが取りにくいので、向こうに渡してから通りました。高さはそんなに無いのですが、下は岩場で打ち所が悪ければ重傷となるのでは?と思うくらいの状況でした。そうやって辿り着いた所が草ボウボウで、今にも崩れ落ちそうな壁があるだけです。ただ、周りの海の眺めは良かったです。
Kildalton Cross
Kildalton CrossKildalton CrossはBritain島で初期キリスト教の素晴らしい十字架の1つで、恐らくIonaからここへやって来た彫刻師によって8世紀後半に彫られたのでしょう。
このような上部に輪がある十字架の形は遙か南、たとえばDunfries近くのRuthwell等の近辺で見つかった大型の支柱無しで立っている十字架に感銘を受けて、Ionaに起源を発しています。上部庭がある十字架は特にIrelandで人気があり、そこでは遅くても12世紀にそれらが彫られました。しかしながら、Scotland西部での十字架の装飾はNorthumbriaのピクト的な要素と、昔からの芸術の(直接的な)要素を合体させています。1つの彫刻集団がこの地域で見つかった多くの集団に対して責任を負っていたと考えられています。
Irelandと区別されるこの地域の十字架の主な特徴は宗教的な広がりを見せる彫刻の形です。
西側には4匹の獅子があり、一方の東側には付き添いの天使を伴った聖母マリアとその子、ロバのあご骨と共にAbelを殺したCain、Isaac(イサク)の生け贄、そして獅子を殺しているDavid(ダビデ)の場面があります。’突起部分’はこの時期の金属細工からコピーされたと思われています。
Kildalton残れと同じような精巧な彫刻のある十字架は大抵は重要な教会がある場所で見つけられています。しかし、嘗て存在していた地域の伝説があるにもかかわらず、Kildaltonには初期の修道院の明らかなどんな痕跡もありません。
1882年にこの十字架は傾いて危険になったので、再セットのため、元々の差し込み石を新しい台座にはめ込みましたが、その場所は変わっていません。
Kildaltonの古い教区教会の名残は恐らく1200年頃までに遡り、その教会は17世紀の終わりまで使われていて残っていました。教会と墓地には多くの中世後期の墓石がありました。教会と墓地はHistoric Scotlandの管理下にはありません。
(参考)
Kilnave Cross
Loch Gruinart(Islay島北海岸近く)の西海岸のKilnaveには同じ彫刻グループによって作られた別の十字架があります。また彼等はIonaのいくつかの十字架とKnapdaleのKeillsの十字架も彫りました。Keillsの十字架は、ここKildaltonの十字架のように、Secretary of State for Scotlandの保護下にあり、Historic Scotlandに代わって管理されています。
Kildalton Chapel前回の滞在時、何となくこの十字架の存在は知ったものの、急遽Port Ellenに1泊してはいましたが、午後からののみだけだったので到底行き方などを調べても行けるような距離ではありませんでした。今回、ここを目的にPort Ellenに泊まりました。交通も調べ、チャリまたは午前中のバスで行けば十分に見ることが出来ることが分かっていました。しかし、当日午前中は嵐に近いお天気で、チャリは到底無理。おまけに朝のバスを逃してしまいました。午後から雨が上がったのですが、レンタ・サイクル屋が開いてなくて、窓に連絡先があったのですが携帯を持っていない私には無理でした。午後のバスでArdbegまで行ってその先は徒歩で往復すると最終バスには間に合いません。しかし、ここまで来て諦める訳にはいかず、取り敢えず行きはバスでArdbegまで行き、その後帰りは歩く覚悟を決めて出かけることにしました(日は長いので明るい内には戻ることが出来ます)。帰りのバスの時間を気にする必要がないので、現地では十分に見学できると軽い気分にもなりました。
雑貨屋の前のバス停で待っていると、目の前におじさんが車を止めました。バス停なのに…そのおじさんが用事が済んで車に乗る時にバスを待っているのか聞いてきました。行き先を聞かれたので、バスの終点であるArdbegと答えると、そこまで送っていくとのこと。少しでも時間を節約したかったので有り難く乗せて頂きました。このおじさん、Ardbegがついでではなくわざわざ私のために行ってくれたのです。いつも助手席を占領している子犬がが、後ろに追いやられて不満だったのか、盛んに前に来ようとしていました。犬に謝りましたが…いつも前にいて、フロント・ガラスを舐めているとか。その部分はよだれで汚れていました。10分ぐらいで到着。おじさんにお礼を言って、更にその先へと歩き出しました。
途中の景色を楽しみながら歩いていました。美しい海岸としんみりした森の中を進みます。道は他にないので迷いようがありません。1時間40分程で教会に到着しました。その手前で大きな道路を外れるのですが、ちゃんとKildalton Crossという案内が出ていたので迷いません。教会には車で来た人が数組いました。十字架は実に立派で、わざわざ訪れた甲斐がありました。十字架の前には”賽銭?”もありました。前と後ろ(どちらがどっち?)では彫刻が違うことがはっきり分かりました。わざわざ時間をかけてきたのだから、と墓地や教会の中も見て回りました。教会の外の壁には別のケルト・クロスがあったり、中には甲冑姿の彫刻がある墓石もありました。その後、近くの小高い岩場へ登ってみました。その途中にもケルト・クロスがありました。岩場の上で休憩。そこからは南側の海も見えました。近くには山がないので、360°のパノラマが楽しめました。
1時間程ここで過ごして引き上げることにしました。Kildalton-Ardbegが約7km、Ardbeg-Port Ellenが約5km、合計約12km(普通に歩いて所要時間が3時間です)を根性を決めて歩き出しました。歩き出して30分くらい経った時に赤いトラックが止まり、乗せてくれました。このトラックは行きに追い越し、Kildalton Crossの案内の側の家に止まっていたことに気付いていました。運転手も歩き続けている私に気付いていたのでしょう。何処までかとの問いに、”最終目的地はPort Ellen”と言ったらそこまで乗せてくれました。Port Ellenに入った時、何処で降りるか聞かれて、買い物をしたかったので”Co-opで”と言ったら、”俺も行くので丁度良い”と言っていました。”歩く時間を節約できたね”と言われながら、お礼を言って買い物に向かいました。帰り3時間の予定が、1時間程で済みました。往復車にお世話になり、現地の人達の心遣いを有り難く思った日でした。
Loch an t-Sailein, Ardbeg, Isle of IslayArdbegからKildaltonまで歩いていると、途中2箇所、海に開けた場所があります。その内の手前はLoch an t-Sàileinという入り江で、年配のご夫婦が海辺にいました。旦那様はずっと海を見て写真を撮っていました。Sealsその目先にいたのがアザラシ達でした。浅瀬の岩場の上に数匹が転がっていました(左のアザラシ達は右写真の右半分中央に見える岩礁の側にいました)。泳いでいる子もいました。私も暫く彼等を見て、この静かな入り江も眺めていました。この近くでは、フィオナさんという方がアザラシの保護活動をしていて、日本でも紹介されています。彼女がフィドル(バイオリン)を引くとアザラシ達が集まって来るという光景も見られるとのこと。そんなことを思い出しながら、先を急ぎました。
2つ目の場所はLoch a' Chnuicという湾です。大きくはありませんが、美しい所でした。側にはKildalton Houseがあるそうで、西側(手前)の森はその敷地のようです。この辺りには家が所々あるのですが、屋敷という感じの豪華さがありました。
確かに車は速いですが、歩きやチャリではこんな光景も楽しむことが出来ます。
Carraig Fhada Lighthouse(再訪)
Carraig FhadaIslay島の南海岸のCarraig Fhada岬にある劇的な灯台、Port Ellen灯台(Carraig Fhada灯台としても知られています)はPort Ellenの対岸にあり、西側から港へ向かう目印になっています。灯台は変わった四角形の石造りの塔で構成されていて、高さは17m(57フィート)あります。灯室はありません;灯りよりむしろずんぐりした柱がそびえ立つ塔が表に出てしまっています。灯台は1832年にIslay島の大地主Walter Frederick Campbell (1798 - 1855)によって、彼の最初の奥さんEleanor Charteris夫人の記念として建てられました。彼女はその年の9月にたった36歳で亡くなっています。灯台は2003-4年に一新されペンキを塗り替えられました。一方で以前の灯台守のコテージは現在個人の住居になっています。
Kildaltonからおかげで早く戻ることが出来、その余った時間をこの灯台へ再び行くことに使いました。対岸に見えているので、そんなに遠くないと思ったのですが、湾を回らなければならないので、かなり時間がかかりました。前回、帰る時に近道があると思われ、途中で、海に出るパスに入ってみたのですが、結局そんな道がないと分かりました。墓地を回って進まなければならなかったのです。その手前に砂浜に出る所はあったのですが、その先には飛んで越えることが出来ない幅の小川がありました。そして、前回車で降ろしてもらった駐車場あたりまで着きました。ここが大きく変わっていました。回りは住宅が数軒建ち、セルフ・ケイタリングの宿も出来ていました。ここまで結構かかったのですが、その先もかなり歩くことになりました。前回は車で途中まで乗せてもらったので距離感が完全に狂っていました。ここまで来て後戻りは出来ないと、灯台まで。途中の寄り道を差し引いても、Port EllenからLagavulinくらいの時間がかかっていました。確かに地図でもそんな距離です。対岸なので近くに感じてしまっていました。
灯台は相変わらず何となく引きつけられる感じです。前回はこの姿だけで詳しいことは分からなかったのですが、ネットで調べたら説明がありました。ペンキが塗り替えられたとのことで、訪れた時にまだ綺麗な白だったことに納得しました。
その後前回訪れた近くのSinging Sandsに行こうかとも思ってはみていたのですが、歩き疲れ、またこの時は満潮に近かったので止めました。また、午前中の大雨で砂が乾いていないので”鳴き砂”ではなくなっていると思ったからでした。翌日フェリーからこの砂浜を見ましたが、この時も満潮近くで砂浜は細くなっていました。

  1. the Ultimate Online Guide to the Isle of Islay(英語):Islay島の案内ページです。
  2. Finlaggan(英語):Finlaggan Trustのオフィシャル・ページです。
  3. Caledonian MacBrayne (英語、ゲール語):Caledonian MacBrayneのオフィシャル・ページです。
  4. Bowmore(英語):Bowmore蒸留所のオフィシャル・サイトです。