1893- 5- 7 外側(=松山市)―平井河原(=平井)7.0km開業(762mm軌間、蒸気機関車使用)
1899-10- 4 平井河原―横河原6.2km開業
1931-10- 6 松山市―横河原13.2km改軌(1067mm)
1954- 2- 1 松山市―横河原13.2km内燃化(蒸気機関車牽引をディーゼル機関車牽引に変更)
1967-6-10 松山市―平井7.0km電化
1967-10-1 平井―横河原6.2km電化
1960〜1970年代の 伊予鉄道・郊外線
The sceneries along Matsuyama suburban lines
of Iyo Railway Co. mainly in 1960's and 1970's
横河原線 Yokogawara Line
久米 Kume
左:1976-1-5:久米駅/西向き(松山市方向)
半径230mの曲線部に、電車3両分の長さのプラットフォームがある。
手前に、客車列車時代の低床プラットフォームの一部が、残っている。
久米駅での行き違いは出来ない。
右:1978-11-25:久米駅/西向き(松山市方向)
プラットフォームが、こちら側(東側)に1両分、延伸されている。
(1978-6 横河原線は朝混雑時の4連運転開始)
その後の久米駅
左:1986-8-14:久米駅/西向き(松山市方向)
久米駅は、旧位置よりも172m松山市寄りに移設され、行き違い可能駅になっている。
これは、1981-8-10の高浜―横河原直通運転開始に際して、改造されたものである。
1番線に、高浜発横河原行き3連(モハ815+クハ855+モハ825)(冷房車)が停まっている。
これらは、京王帝都電鉄のデハ2018+サハ2524+デハ2074(1961〜1962年製造)で、1985年に伊予鉄道に入線した。
右:1977-9-7:京王帝都電鉄/京王八王子駅(地下駅になる前の風景)
右(2番線)に、新宿行き2000系6連が停まっている。
先頭車はデハ2019である。この車両は、1985年に伊予鉄道に入り、モハ816となった。
久米駅〜鷹ノ子駅間 between Kume Stn. and Takanoko Stn.
1976-1-5:久米駅〜鷹ノ子駅間/鷹ノ子温泉踏切から西向き(松山市方向)
西は17.2‰の下りである。坂下に浄土寺踏切がある。
その向こうに、横河原発松山市行き3連(モハ111+クハ411+モハ112)が見える。
電車の向こうは、久米駅である。
モハ112+クハ411+モハ111は、1928年、川崎造船所製造の、西武クモハ153+クハ1153+クモハ157で、
1966年に、西武所沢で改造の上、入線した。従来の塗色と異なり、クリーム色と橙色の塗り分けになった。(後の1994年に廃車)
平井 Hirai
1967-8-22:平井駅/西向き(松山市方向)
左(1番線)は、平井発横河原行きである。ディーゼル機関車DB8牽引+客車2両の編成。
客車は、4輪客車2両を接合して、ボギー客車としたものである。
右(2番線)は、平井発松山市行き電車(クハ411+モハ111)。クリーム色と橙色の塗り分けという新塗装である。
(1966年入線;後の1994年に廃車)
1967-6-10、松山市―平井が電化され、平井が、一時的に、電車と客車列車の乗り換え駅になった。(40分毎運転)
後の1967-10-1に、平井―横河原の電化が完成し、松山市―横河原全線が、電車運転になった。(30分毎運転)
横河原 Yokogawara
左:1967-8-22:横河原駅(温泉郡重信町) → 2004年 重信町は川内町と合併し、東温市になった。
電化工事中である。左に客車列車が見える。(ディーゼル機関車DB8牽引+500系客車2両)
駅の入口の表示: 「お知らせ ホーム改築工事のため仮ホームからご乗車下さい 横河原駅長」
右:1969-6-15:横河原駅(温泉郡重信町)
横河原までの電化は1967-10-1に完成した。
松山市行き2連(モハ113+クハ412)が停まっている。
この当時は、高浜線、郡中線が3連だったのに対し、横河原線は2連(30分毎運転)だった。
モハ113+クハ412は、1928年、川崎造船所製造の、西武クモハ154+クハ1154で、
1966年に、西武所沢で改造の上、入線した。(後の1994年に廃車)
駅前広場は、猶も、非舗装である。
左:1973-8-26:横河原駅/療養所北踏切から(温泉郡重信町)
松山市行き3連(モハ132+クハ431+モハ131)が停まっている。1972年頃に、横河原線も3連になった。
モハ132+モハ131は、1955年、東急車輌製造の、相模鉄道モハ2015+モハ2016、
クハ431は、1951年、浦田車輌製造の相模鉄道モハ2013で、いずれも1972年の入線である。
クハ431は、後の1978年に、制御装置が撤去され、サハ531となった。(1991年までに全部廃車)
右:1978-4-14:横河原駅/線路終端側から(温泉郡重信町)
1973年には、側線があったが、それが撤去されている。
この当時は、20分毎運転で牛渕団地前―横河原が一閉塞区間だった。
(後の1981年に、15分毎運転になり、見奈良―横河原が一閉塞区間になった。)
出発信号機の向こうは、13.2‰の下りにである。
左:1974-8-17:横河原駅プラットフォームからの眺め(温泉郡重信町)
愛媛大学医学部が建設中である。
愛媛大学医学部は、1973年に設置され、この当時は、暫定的に、松山市堀之内にあった
右:1978-4-14:横河原駅プラットフォームからの眺め(温泉郡重信町)
愛媛大学医学部は、1974年11月に当地に移転した。
1976年には附属病院が完成。1981年に、横河原線に「愛大医学部南口」駅が開設された。
森松線 Morimatsu Line
1896- 1-26 立花―森松4.4km開業(762mm軌間、蒸気機関車使用)
1931-10-12 立花―森松 改軌(1067mm)
1954- 2- 1 立花―森松 内燃化(蒸気機関車牽引をディーゼル機関車牽引に変更)
1965-12- 1 立花―森松4.4km廃止
立花―森松間は、国道33号線と完全に平行しており、頻発する自社バスに押されて、輸送人員が激減した事が、廃止の原因だった。
しかし、今日では、松山市の住宅地の拡大等により、国道33号線の渋滞が頻発している。
森松線があれば、伊予鉄道のドル箱になったかも知れず、あと智恵ながら、廃止が惜しまれる。
左:1965-1-2:森松の町並み(松山市)(撮影は、千代田光学Rokkor 135mm使用)
重信橋北詰から、北向きに国道33号線を見たもの。国道は、舗装2車線ながら、歩道は無く、狭い道である。
(自動車のすれ違い時に一時停車や徐行が不要という点で、当時としては、高規格だったが)
左に鮮魚村井、大衆食堂田中屋、右に一品料理小馬、浅木精肉店、セキネ自転車の看板が見える。
坂下、右に入った所に、森松駅がある。 この頃の森松線は、混雑時45分ごと、昼間1時間ごと、の運行だった。
松山市―森松5.8kmは、所要13分、列車はディーゼル機関車牽引+500系客車3両だった。
右:2005-4-26:森松の町並み(松山市)
重信橋北詰から、北向きに旧国道33号線(=県道191号線)を見たもの。
1965年に一品料理小馬や浅木精肉店だった家(右側)が、猶も残っている。
撮影者Shi-Mamutaさんによりますと、「旧森松駅舎は、森松線廃止と同時に伊予鉄道のバス営業所になり
「化粧直し」を受けて現在まで残っています… こちらに向かっている前から4台目の自動車の位置が旧森松駅前に当たります。」
郡中線 Gunchu Line
1896-7-4 南予鉄道/藤原―郡中10.7km開業(762mm軌間、蒸気機関車使用)
1900-5-1 伊予鉄道が南予鉄道を合併
1937-7-22 松山市―郡中 改軌(1067mm)
1939-5-10 郡中―郡中港0.6km開業
1950-5-10 松山市―郡中港11.3km電化
左:1962-12-30:郡中港駅前(伊予市)
向こうに見えるのは、国鉄/予讃本線/伊予市駅である。
1930-2-27、省線/讃予線松山〜南郡中が開業した。当時、この地は、伊予郡郡中町で、伊予鉄道「郡中」駅が既にあった(1896年開設)。
鉄道省は、「松山」駅の時のようには強く出ず、「南郡中」駅とした。
後に、伊予鉄道は、省線との対抗上、南郡中駅前まで線路を延長し、郡中港駅を開いた。
1955年に、郡中町は市制を施行して伊予市となり、1957-4-1、国鉄「南郡中」は「伊予市」と改称された。
伊予鉄道の方は、郡中、郡中港の駅名のままである。
右:1962-12-30:郡中港駅(伊予市)
看板は「郡中港驛」。古い字体(驛)のままである。
右に売店がある。左は駅務室部分で、そこに出札口がある。
駅前は、伊予鉄バスの停留所である。時刻表が掲出されている。
左:1973-8-26:郡中港(伊予市)
郡中港行き3連(モハ123+クハ413+モハ115)が到着する。
モハ123は、京浜急行デハ400の車体を流用して、1968年に西武所沢で製造、同年入線である。(後の1989年に廃車)
クハ413+モハ115は、1928年、川崎造船所製造の、西武クモハ151+クハ1152で、
1966年に、西武所沢で改造の上、入線した。(後の1994年に廃車)
右:1973-8-26:郡中港駅(伊予市)
駅の東面。松山市行き3連(モハ303+サハ502+モハ304)が停まっている。
モハ301、モハ303は、日立製、1950年の入線だが、車長14mという小型車だった。
1961年に、古町工場で車体延長工事が行われ、19m車に生まれ変わった。
1971年には、サハ502を中間車に組み入れ、3連となった。
サハ502は、上田交通サハ62の車体を流用して、1971年に西武所沢で製造された車両である。
(この編成は、2005年現在も残っている。→2008年に解体された)
1977-8-14:郡中港駅(伊予市)
郡中港駅北踏切から見たもので、駅舎は4年前と変わっていない。
その後の郡中港駅
1983-8-14:郡中港駅(伊予市)
駅舎は、従来の位置よりも約30m松山市寄りに、移転した。
郡中線は、長らく20分毎運転だった。
1990-11-21 JR予讃線/伊予北条―伊予市が電化され、伊予市にJR電車が来るようになった。
これに対抗して、伊予鉄道は、1991-3-12に、郡中線を、15分毎運転に変更した。
(閉塞区間が、松前―郡中港から、地蔵町―郡中港に変更)
かつての京王帝都電鉄
郡中港 Gunchu-ko
1981年発行の記念乗車券
(1981-8-10高浜―横河原直通運転開始)
横河原線、森松線の
ディーゼル機関車
鉄道線を走った蒸気機関車
初めての鉄道線電車
モハ101ほか
非電化線の車両(1966年現在)
ディーゼル機関車 DB2〜8
1953〜1954年 新三菱重工製造
全長5,812mm、自重10t
機関:日野DL 190PS
駆動:ロッド・機械式
客車
全長はすべて12,160mm
左:2003 -8-30 :横河原駅(温泉郡重信町)
撮影者Shi-Mamutaさんの説明を引用する。
郵便ポストの更新や自販機設置などの変化はあるものの、その佇まいは1967年当時から、ほとんど変化なし。
売店が閉鎖されてなお、「たばこ」の看板が撤去されずに残っている点も注目されます。
現在は、ここが東温市(注)の玄関駅です。 (注)去年(=2004年)9月21日、温泉郡重信町と川内町が合併・市制。
右:36年前の、1967-8-22の横河原駅(既出)
和久田康雄:私鉄車両巡り「67」 伊予鉄道[1]:鉄道ピクトリアル、
第16巻第7号、1966年7月、鉄道図書刊行会(東京)、p.63から引用
写真の説明は、次の通り。
「バス駅となった森松駅 '66-3-31 石本祐吉」
形式 | 両数 | 自重t | 製造 | |
ハ | 500 | 5 | 10 | 1954年自社 |
ハフ | 550 | 6 | 18 | 1954年自社 |
ハニフ | 570 | 6 | 10 | 1955年自社 |