1960〜1970年代の 伊予鉄道・郊外線
The sceneries along Matsuyama suburban lines
of Iyo Railway Co. mainly in 1960's and 1970's
左:1977-8-142:松山市駅/1番線
高浜行き3連(モハ106+クハ406+モハニ206)
モハ106は帝国車輌製造、1950年入線、クハ406はナニワ工機製造、1952年入線、モハニ206は日本車輌製造、1931年入線。
後の1984年に、3両とも廃車となった。
但し、モハ106は、1985年に銚子電鉄に譲渡され、同社デハ801になった。
右:1986-8-29:千葉県銚子駅:銚子電鉄外川行きデハ801単行 → 東京から茨城県鹿島郡波崎町に出張した際に、見かけた。
この電車の前身は、伊予鉄道のモハ106である。
連結面側が外川向きになっている。正面の右下に「伊予鉄道」の銘板が残っている。
銚子デハ801は2010年に廃車; 別途、伊予鉄道から800系2両が銚子電鉄に移った。(銚子では2000系)
左:1964-7-12:松山市駅/1番線
停車中の高浜行き2連(モハ602+モハ601(=写真))
モハ600形は、自社発注、1958年入線の全金属車である。塗色は焦茶色である。
高浜線のプラットフォームは低いので、扉の内側にステップがある。
この列車は、1971年に、長野電鉄から購入した車両をモハ603として組み入れ、3連となった。
(後の1995年に、自社発注610系の入線に伴い、廃車)
右:1967-8-22:松山市駅/2番線
2番線に進入する平井発松山市行き2連(クハ411+モハ111)
クハ411+モハ111は、1928年、川崎造船所製造の、西武クハ1153+クモハ157で、
1966年に、西武所沢で改造の上、入線した。
従来の塗色と異なり、クリーム色と橙色の塗り分けになっている。(後の1994年に廃車)
横河原線は、1893〜1953年の間は蒸気機関車牽引の列車、 1953年以降はディーゼル機関車牽引の列車が運行されていた。
1967-6-1に、松山市―平井7.0kmが電化された。
向こう側の高浜線 (1番線)との間に、中線が2本ある。これは、客車留置線や、機関車の機回り線として用いられていた。
左:1961-1-3:松山市駅
先代の駅舎は、1919-4-5の完成だったが、 1945-7-26の空襲で焼失した。
戦後、暫くの間、仮設駅舎だったが、 1950-5-5に、木造モルタル張り、2階建の、この駅舎が完成した。
時は変わって、
右は、2002-1-9: 21世紀の松山市駅である。
この間には、次のような変遷があった。
1971-7-15 5階建の駅舎が完成し、2階以上は「いよてつそごう」百貨店となった。
1982-8 増築が完成し、7階建になった。
2000-7-12 業務提携先の「そごう」が倒産
2001 百貨店は、「伊予鉄百貨店」と改称
2001 高島屋と業務提携
2001-10-10 東側(写真では向かって左側)に増築完成
この後の、
2002-3-1 百貨店は「いよてつ高島屋」と改称した。
松山市駅の通称は、「しえき」 である。
伊予鉄道の郊外線がここに集中しており、松山平野の交通の中心駅である。
また、中心街に近い事も相俟って、利用者数は、国鉄(現・JR四国)松山駅よりも、遙かに多い。
この駅は、1888-10-28、伊予鉄道・松山駅として開業した。
所が、省線の讃予線(後に予讃線と改称)の松山延長の際、鉄道省は、「松山」の駅名を譲るように、伊予鉄道に要求した。
伊予鉄道は、これを拒否すると共に、省線駅を "伊予松山"とするよう、逆提案したが、鉄道省は、これを拒否、という争いとなった。
最終的には、伊予鉄道が鉄道省に押し切られ、駅名改称となった。(1927-3 松山を松山市と改称)
時 | 高浜行き | 郡中港行き | 横河原行き | 森松行き |
5 | 0 30 | 0 30 | ― | ― |
6 | 0 30 (45) | 0 30 50 | 10 57 | 39 |
7 | 0 (15) 30 (45) | 10 28 (34松) 50 | 46 | 28 |
8 | 0 (5三) (15) 30 (45古) | 9 35 | 32 | 15 58 |
9 | 0 20 40 | 0 20 40 | 15 | 44 |
10―15 | 0 20 40 | 0 20 40 | 0 | 30 |
16 | 0 20 40 | 0 20 40 | 0 45 | 30 |
17 | 0 20 40 | 0 20 40 | 30 | 15 |
18 | 0 20 40 | 0 20 40 | 15 | 0 45 |
19 | 0 20 40 | 0 20 40 | 0 | 30 |
20 | 0 20 40 | 0 20 40 | 0 | 30 |
21 | 0 13古 30 | 0 30 | 0 | 30 |
22 | 0 30 56古 | 0 | 0 | 15 |
23 | 35古 | ― | ― | ― |
注 | ( ):休日運休 三:三津行き 古:古町行き |
( ):休日運休 松:松前行き |
― | ― |
松山市駅 発車時刻表(1964-7-12筆写)*
*:1964-7-18 ダイヤ改正の予定
(衣山―三津複線復活により、高浜線が15分毎になる予定)
松山市駅 高浜行き発車時刻表(1964-8-14筆写)
時 | 高浜行き |
5―6 | 0 30 |
7 | 0 (8三) 20 (28三) 40 (48三) |
8 | 0 (8三) 20 (28古) 40 |
9―18 | 0 15 30 45 |
19―20 | 0 20 40 |
21 | 0 12古 30 |
22 | 0 30 52古 |
23 | 22古 |
注 | ( ):休日運休 三:三津行き 古:古町行き |
伊豫鐵道唱歌 | 1908年披露 | ||
作詞・大和田建樹 | 作曲・田村虎蔵 | ||
1 | 名も常盤なる松山の | 市街を中に取巻きて | |
葛の如く從横に | つるさし延ばす伊豫鐵道 | ||
2 | 先ず乘り出す高濱の | 港の海の朝げしき | |
櫓を押し連れて出でて行く | 船は落葉か笹の葉か | ||
3 | 波なき水に影ひたす | 伊豫の小富士の興居島は | |
桃の産地の名も高く | こなたにあるは四十島 | ||
4 | 夏は賑はふ汐あみの | 客もて埋む梅津寺 | |
過ぐればここで朝毎に | 魚市開く三津が濱 | ||
5 | 濱の松原はや跡に | なりて迎ふる古町驛 | |
まぢかく仰ぐ勝山の | 城に昔ぞ忍ばるる | ||
6 | 伊豫鐵道の本社ある | 松山驛の近くには | |
役所兵營女學校 | 出で入る列車の數繁し | ||
7 | 間もなく渡たる石手川 | 左右の廣き堤には | |
枝さしかはす木々高く | さながら自然の公園地 | ||
8 | 立花出でて久米の驛 | 名高き神社佛閣は | |
日尾の八幡三藏院 | 四國靈場西林寺 | ||
9 | 送り迎ふる程もなく | 平井田窪打ち過ぎて | |
片手の藥師浮島の | 社も後になりにけり | ||
1 | 0 | 津吉上村松茸の | 産地とかねて音に聞く |
處はあれぞあの山ぞ | 秋は來てみん打ち連れて | ||
1 | 1 | 終點驛の横河原 | おりて進めば讃岐道 |
夏白絲を繰り出だす | 白猪唐岬瀧近し | ||
1 | 2 | 立花驛に立ち戻り | 森松線に乗り換へて |
南に向へば星の岡 | 勤王義士の古戰場 | ||
1 | 3 | 椿の森に神さびて | 祭られ給ふ伊豫豆比古 |
立つや石井の石鳥居 | 居ながらそれと拝み行く | ||
1 | 4 | 森松下るれば土佐街道 | 伊豫名産の一つなる |
雲より白き砥部燒の | 山地南に約一里 | ||
1 | 5 | 郡中線は松山を | 出でて餘戸驛出合驛 |
餘戸には履脱天神と | 日招八幡名も高し | ||
1 | 6 | 出合は石手重信の | 二流出で合ふ處にて |
河原は白く水清く | 青きは岸の松林 | ||
1 | 7 | 夏は涼みに秋は月 | 柳の花の散る頃は |
鮎釣る人の影見えて | 景色ぞあかぬ四つの時 | ||
1 | 8 | 松前の港賑ひて | 妻も乙女も朝毎に |
いただき出づる御用櫃 | 賣り行く魚は何魚ぞ | ||
1 | 9 | 松前の城は田の中に | 埋れて跡は知らねども |
しるきは義農作兵衛の | 譽れを殘す墓所 | ||
2 | 0 | 砂糖の出づる地藏町 | 過ぎて下車する郡中の |
濱は五色の名も高く | 一望はてなきわたの原 | ||
2 | 1 | 名殘りは殘れど松山に | 歸りて城の西北を |
古町木屋町打ち過ぎて | 行けば道後の温泉場 | ||
2 | 2 | 代々の帝の大行幸 | ありし歴史をいただきて |
浴室清く町廣く | 天下に知らるる湯の驗 | ||
2 | 3 | 浴後に散歩試むる | 道後公園あたたかに |
春風木々を吹く時は | 滿山さくら滿地雪 | ||
2 | 4 | 花の木の間に見渡せば | たゞ一幅の圖となりて |
ながめやらるる松山市 | あれ見よ三津も興居島も | ||
2 | 5 | 湯の神社にも詣でたり | いざまた汽車に打ち乘りて |
一番町に疾く行かん | 約せし友も待つべきに |
伊予鉄道には、鉄道唱歌がある。地方私鉄で鉄道唱歌を持っているのは、珍しいと思う。