魚町(Uomachi)
小倉は、北九州五市の都心地区に相当する。これは、小倉が、城下町で、江戸時代から町だったのに対し、
他の4市は、明治になってから興った工業や港湾の町なので、政治や商業の歴史が浅い事が一因ではないかと思われる。
魚町周辺は、小倉で最も賑やかな場所、つまりは北九州五市で、最も賑やかな場所である。
1959-4-13〜1964-4-20の間、通勤の帰途は、この停留所を利用した。

魚町:井筒屋百貨店屋上から砂津方向を見たもの。
左:1959-8- 2 電車が並んでいる所が魚町停留所。停留所の向う側の左右に、魚町銀天街が分岐している。
          この辺りの電車通りは、北九州五市の都心部だが、高いビルは無く、都市的景観という点では、福岡市に劣る。
          電車のこちら側が魚町交差点で、ここから右に行くと、北方線/魚町停留所がある。
中:1978-9- 1 1959年に比べると、ビルが多くなっている。軌道は両方向通行、自動車は西行き(こちら向き)一方通行、という、変則的な交通区分になってる。(1971年実施)
右:1996-9-26 軌道は無くなったが、両方向交通に戻った自動車交通は、相変わらず、混雑している。
室町:大門方向―1962-11-11
左に小倉市役所の敷地がある。
その向こうに、小倉警察署(3階建)、続いて、玉屋百貨店(7階建)がある。
前方、バスが右折して行く道の先には、旧小倉駅があった。
室町―1959-10-4
玉屋百貨店の屋上から魚町方向を見たもの。
手前下は、小倉警察署である。右には、小倉市役所がある。
線路が右に曲がった所に、勝山橋がある。
右手、向こうのビル(7階建)は井筒屋百貨店である。

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大門(Daimon)
大門は、東の砂津に始まる小倉市の中心部の、西の端に当たる。
大門では、戸畑線が分岐する。

大門:室町方向―1961-7-2
手前の軌道は戸畑線である。北九州線は右に曲がっている。中央のビル(5階建は、店舗付住宅である。
その向こうに玉屋百貨店(7階建)がある。
大門:田町裏・日明方向―1959-10-4
左の路面軌道は北九州線で、左に曲り、田町裏へ進む。
右の専用軌道は戸畑線である。「大門」の停留所標識の向こうに、戸畑行きの乗り場がある。
戸畑線は、ここから坂を登り、国鉄/日豊本線を跨ぎ越す。
(後に、戸畑線用の乗り場は廃止され、北九州線の乗り場に統合された。)
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今は無き西日本鉄道/北九州諸線の軌道風景(1959〜1962年)
(Past sceneries along Kitakyushu Lines of Nishi-Nippon Railroad Co.)
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魚町:小倉駅前方向―1959-8-21
手前は、門司方面行きの、乗車専用安全地帯である。
頭上に、乗り場区分を示す、札がある。
手前は、「延命寺 門司方面行のりば」、向こうは「砂津方面行のりば」、
と表示されている。
画面外だが、左には、「玄海寿司」がある。
婦人3人でやっている店で、会社の帰途、しばしば飲みに立ち寄った。
会社の寮生のたまり場だった。

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軌道廃止後
魚町:小倉駅前方向―1994-7-5
ビルが並んでいる。1959年当時の建物は、残っていない。

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魚町:室町前方向―1959-8-21
安全地帯の頭上に、乗り場区分を示す札がある。
手前は、「八幡 折尾 筑豊中間方面行のりば」、向こうは「戸畑 枝光方面行のりば」、
と表示されている。
安全地帯のこちら側に魚町銀天街の入口がある。
この交差点は、人通りが大変多いにもかかわらず、交通信号機は無い。
しかし、不思議にも交通事故が起こった事は、無かった。
(1963年始め頃に信号機が設置された。)
突き当たりの大きなビル(7階建)は、 井筒屋百貨店である。
撮影当時は、エスカレーターが無かったが、1961年に、エスカレーターが設置された。
また、後に8階部分が増築された。
魚町:室町方向―1994-7-5
ビルが並んでいる。1959年当時のままの建物は、残っていない。
井筒屋百貨店は8階建である。

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魚町付近の商店街
左:魚町銀天街―1959-8-2
中:京町商店街―1959-7-30 (後の1959-10-21に、銀天街になった。)
右:中央銀座商店街―1959-7-30

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軌道廃止後

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軌道廃止後

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魚町〜室町間―1959-9-6
ここは、紫川に架かる勝山橋である。紫川は、小倉市街を南北に貫く川である。
左手、向こうに復元工事中の小倉城天守閣が見える。(この直後の1959-10-1 完成)
1602年、細川忠興が小倉城主となった。熊本の加藤氏が改易になった後、細川氏は熊本に移封され、
そのあとに、播磨・明石城主の小笠原氏(譜代)が入国、子孫相継いで、明治維新に至った。
礼儀作法に「小笠原流」というのがあるが、これは小倉の小笠原氏が作りあげたものである。
小倉城は、1866年に長州藩の攻撃を受け、焼失した。尚、小倉城の別名を勝山城という。
向こうのビル(3階建)は小倉市役所(1954年完成)である。

室町(Muromachi)
1958-2-28までは、ここが、小倉駅最寄りの停留所だった。
停留所の近くには、小倉市役所、中央公園(勝山城址)、八坂神社がある。
八坂神社の祭礼は、「小倉祇園祭」で、祇園太鼓が有名である。
「関の先帝、小倉の祇園、雨が降らなきゃ、金が降る」という賑わいを見せる。(注:関の先帝=下関の先帝祭)
1959-4-13〜1964-4-20の間、通勤の往途に、この停留所を利用した。

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室町:魚町方向―1962-11-11
頭上の札は、「砂津ゆきのりば」と「S」(停止標)である。
左に煉瓦造りの西日本相互銀行がある。
右には小倉市役所の敷地がある。
室町:魚町方向―1994-7-5
西日本相互銀行は、西日本銀行となり、新しいビルになっている。
その向こうには日本火災海上がある。
右には小倉北区役所の敷地がある。

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軌道廃止後

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軌道廃止後
室町:大門方向―1994-7-5
左に小倉北区役所の敷地がある。右にはビルが並ぶようになっている。
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