奇跡の1年



翔希が、中学校の部活(パソコン部)で作成した自画像です




神係な事だけが『奇跡』と思っていました。でも、『奇跡』は、自分の力で起こるものなんだなあと、息子を見てて思いました。翔希が、2年半の入院生活を経て2000年3月6日に退院してから、2001年6月3日に亡くなるまでの1年3ヶ月は、『奇跡』の日々でした。人が生きたい、家族と暮らしたい、友達と一緒に居たいと思う事がその力の源になるのですね。

翔希は、退院した時、「浜中学校に行ったら、健康な状態を保ち学習や思いやリを大事にしたい」と言っていました.本当にその言葉通り、体の調子を気にしながら、友達と出かけたり、勉強に精をだしたりしていました。時間を惜しむかのような1日1日でした。

「いってらっしゃい」、「おかえりなさい」、当たり前の言葉ですが、言うことができるということは、どれほど幸せな事でしょう。毎朝、元気に送り出せる事だし、無事に帰ってきた事なのだから。翔希の「ただいま」がもう聞けないつらさを毎日味わっています。

翔希とは、入院中も含め、よく映画を見に行ったり、ビデオを借りて見ていました。1作、1作ごとにかわした会話を思い出します。

翔希が見たかった映画のビデオを見かけると胸が一杯になって一緒に見ることができない現実に戻ってしまいます。

私たちは、大切な宝を失くしました。

亡くなる1週間前、「僕は、病気の事は受け入れてる」と言っていました。2年半入院しても治らなかった病気の事をどう受け入れていたのか考えると言葉がでてきませんでした。退院の時もまだ膝に残っていたのは知っていたのですから。体の自由が利かなくなってからでも「まだわからない。最後まで自分の力を試したい」、「もう1度自分の足で歩いて友達に会いたい」と言っていました。だから、もう1度歩く為に入院をしました。でも、病気は待ってはくれませんでした。酸素吸入を受けながら翔希は、泣いていました。最後の力を振り絞りながらがんばっていました。立派に生きていました。そして、B’Zの「金」のアルバムを聞きながら静かに息を引き取りました。坂本竜馬が好きで三国史が好きでB’Zが好きでポテトフライが好きで龍が好きで遊びたい事が沢山あって、・・・楽しそうな姿を見る事はもうできません。

月曜日に入院して日曜日に息を引き取りました。私は、今も日曜日は胸が苦しく何かをせずにはいられない気持ちになります。そして、B’Zの歌を、私は、聞く事が出来ません。辛い時も楽しい時も翔希が聞いていた姿を思い出すから。

翔希に言う事ができなかった言葉があります。「お母さんの子供に生まれてきてくれてありがとう。翔希を生んで幸せだったよ。」と・・・病気になってから何度も「何時、どうなってもおかしくない状態です。」「覚悟してください」と言われてきました。だから、馬鹿みたいですが、この言葉を言おうと思っていました。でも、翔希は、その都度、回復してきたので、今回も大丈夫だと自分に言い聞かせていました。 実際は、頭が空白でメロドラマを見ているかのように涙も言葉もでてきませんでした。

もう一度この手で抱きしめることができるのなら、どんな事も厭わないのに・・・・・・。

14年しか生きられなかったけれど、病気になってからの3年8ヶ月は、人の2倍も3倍も濃く生きていました。何が大事か知っていましたから・・・・・。20歳になったら一緒にビールかワインでカンパイしたかったけれど、それも出来なくなりました。
でも今、翔希の14年に、立派に生きた『奇跡』の1年に、心をこめて拍手!乾杯!!