All or Nothing
(1)


───なんだか場違いな所に来てもうたなぁ…。
 会場に一歩足を踏み入れての有栖川有栖の実感はそれだった。 
 こつこつと書いてきたものがようやく世間の目に触れるようになり、念願の単行本を送り出してもらったばかりの新米作家にしてみれば、出版社のパーティなど自分とはかけ離れた世界に見える。
 あちらに先生。こちらに先生。著者近影でお見掛けした顔が並ぶ。四方八方どこを見ても憧れの目を向けたい人たちばかり。
 とりあえず見知った顔…担当の片桐の顔を探そう、ときょろきょろしていた所、当の本人の声が聞こえた。
「有栖川さーん」
 みれば、寿司が山盛りの皿を手にしている。
「今晩和。お招き有難うございます」  
「いえいえ、とんでもない。わざわざ大阪から来ていただいて光栄です。えっとお皿…あ、ちょっと待って下さいね。これを先にマクレガー先生にお届けして来ます」
「マクレガーって『棘のない薔薇』の?」
「ええ。アメリカ・ミステリー界の新星って言われてる新進女流作家のマクレガーさんですよ。今、来日されてて。有栖川さん、先生と面識は?」
「とんでもない。本を拝読させて頂いてる一読者にすぎませんよ。もちろん翻訳で、やけど…」
「僕だってそうですよ。じゃあ、ご一緒に。案内しますよ。言葉はちゃんと通訳してもらえますから大丈夫です。それに滅多に出来ない目の保養が出来ますよ」
「はぁ?」
 最後の一文を小声で囁かれてぽかんとしたアリスを『行きますよ』と促がし片桐が歩きだす。他に当てもないし‥と後をついていくと、そこには人だかりが出来ていた。
「うわあー。さっきより混み合ってる」
「すごい人気やなぁ」
「はい。ま、わかりますけどね。『棘のない薔薇』をハリウッド映画にって話があるらしいんですが監督が是非本人をヒロインにって言ってるくらい…魅力的なんですよ。マクレガー先生って」
「へぇ。天も二物を与えたってこと」
「もっとかも。若くて賢くて美しくて家柄もよくって、父親は大学教授とかって聞きましたよ」
「ふーん。羨ましいことやなぁ」
 そんな会話をしながら人込みを擦り抜け、噂の本人が見える所までようやく着いた。
「ね。‥納得でしょ?」
 聞きしに勝る‥、本当に映画の中から出てきたように可憐な少女がそこにいた。首肯くアリスをひっぱりながら、片桐は少女に寿司の皿を差し出した。
「お待たせしました‥あれ? 通訳さんがいない、困ったなぁ」
 ニッコリと笑って、ワンダフルとかなんとか流暢な英語が流れ出ている。海老を手にして『これは何』と聞いているらしいが説明も出来ず困っている片桐。自分に向けられた救いの目に無理無理と手を振ったアリスの背後から、少女に負けず劣らず滑らかな英語が聞こえてきた。
──────! 
 瞬間、アリスは凍り付いた。まさかと思うその‘声’に。
「あ、よかった」
 片桐がほっとしたように零すのが遠くに聞こえる。
「すいません。何が好みか解らなかったので。とりあえず色々盛り合わせてもらいました。それから、紹介したい方がいるんですけど。こちら有栖川有栖さんです。ちょうどマクレガー先生の日本デビューと同じ日に処女作を出版されたミステリー界期待の新鋭なんですよ」
 にこやかに紹介している片桐から自分に向けられた少女の視線が、ふと驚いたように後ろの誰かに移った。
『…アリス、Mr.アリス・アリスガワ…』
 その人物が自分の名を告げる声に、確信してしまう。
 何故こんな所にいるのかと疑問はあっても、間違いようもない。他の誰とも違う『アリス』と告げる響き。
 振り向きたいけれど、でも怖い。
 そこに彼の姿を見て、平静でいられるのだろうか…。
 逡巡する想いに時の流れにとり残されてしまっていたようだ。片桐に揺さ振られ、はっとする。 
「有栖川さん? どうしました」
「Mr.ARISUGAWA?」 
 差し出された白魚の様な手は戸惑った美少女のもの。
「あ、すみません。あの…あまりの美しさに見惚れてました」 
 苦し紛れの言い逃れに起こる周囲からの失笑。そのまんまを訳したらしい男の声に少女もクスリと笑い、片言で『アリガト』と言いながらアリスにふわっと抱きついた。
 うわっと歓声が沸く。思わずよろめき一歩下がったアリスを支えた逞しい腕。アリスの頬に軽いあいさつのキスをして囁かれた言葉をその声が伝える。
「あなたもとてもキュートだと、彼女が言ってますよ。…有栖…川さん」
 ヒューヒューとはやしたてる周りの声に困って巡らした視線が、彼に行き当たってしまった。 
「…ひむ…」
 冷たい目。言いかけた言葉が凍り付く程。
 そんなアリスにかまわず、火村は淡々と続けた。
「同じ名前で光栄だ、と。彼女もアリスなんでね」 
「え? どういうこと」
 意味不明に戸惑うアリスをはさんだまま、素早いやりとりがあり、ようやく彼女がアリスから離れ自動的に火村の腕からアリスも抜け出せた。
「本人が説明しますよ」 
『マイ ネーム イズ アリスティア・マクレガー』
 中学生でも聞き取れる速さで、彼女はそう告げた。

 盛り上がる人の輪を抜け出せたのは、それから小一時間もたった頃だろうか。
 アリスティアを中心に出来た人垣は明るく華やかで。火村も申し分のないエスコートぶりを見せていた。でも、アリスは苦しかった。通訳する火村を見つめる愛くるしい瞳に、優しい目で答えるその姿を目にする度に心が重くなっていくのがわかるから。それでもやはり火村を見てしまう自分が悲しい。
 このまま帰ってしまいたい気分だったが、明日は新人作家を特集した雑誌の座談会がある。相手のある事に不義理も出来ない。そのためにと用意してもらったホテル内の部屋に直行する気分にもなれず、ひとまず外へと向かった。
 少し秋めいた風が心地よい。
 洒落た感じの木立に置かれたベンチは恋人達のスポットなのだろう。邪魔にならないようにと歩いているうちに空いている場所を見付けて座り込む。
「何年ぶりになるんやろう…変わってへんやん。火村」
 最後の記憶は後ろ姿だ。
 嗄れた声で呼んでも振り替えることもなかった背中。それが答えだったから。
 社会に出て常識の中で泳ぎだして、自分達の関係に心が揺らいでいたあの頃。何を怯える、と力強く説得してくれた火村の強さに焦がれて止まなかったくせに。
 このままじゃいけないから、と告げた言葉は『友達にもどろう』。
 大学院を終え、ますます社会的なステータスを獲ていくはずの火村の為にそれが一番だと、そう告げたのは自分だ。対して、火村は言った。
『ALL OR NOTHING』
 全か無か、そのどちらかでいい。中途半端なものはいらない‥と。
 アリスの全てを得られないなら全て失った方がましだと。これまでの関係に何の不足がある?俺たちはうまくやってきたはずだろう。何を恥じることがある? 臆病な自分に何度も何度も根気強くそう言った火村。言葉で足りないならと、身体の隅々に言い聞かせた深い想い。
 でも、最後の夜は明けてしまった。
 熱い説得にも頑なだった弱い自分に背を向けて、無言のまま火村は部屋を出ていった。
 後悔…というには、あまりの喪失感に呆然と過ごして、自らの手放したものの大きさに耐えられず、結局その手に縋りつきにいった時には、遅かった。
 火村はもう、日本にはいなかった。
「それからでも…追いかけてたら、何か変わったんやろか…」
 今となっては、わからない。
 あれから…書くことしか残っていなかった自分はこうして作家になっている。
 火村は、もうすぐ助教授として母校へ戻ってくるらしい。その準備もかねて、向こうで世話になったマクレガー教授の一人娘の案内役を兼ねて一時帰国をしてきたというのがこの再会を引き起こしたようだ。先程までのアリスティアを介して交わした会話でわかった。
 結局の所。お互いに三十路を前にして、望んだ道を間違いなく歩いているのだから、歩んできた道は正しかったのだろう。
 それでも。
(ふぅ…)
 重い溜息が零しながらポケットを探る。
 つい買ってしまったキャメルに火をつけ、深く吸い込む。時折どうしても恋しくなる匂い。火村に包まれているような錯覚の中で平静を取り戻す自分がいる。
 ぼーっとふかし乍らたどる火村とのあれこれ。
 あの五年間。確かに自分は生きていた。火村と共に未来を見ていた。
「…珍しいな…それとも吸うようになったのか?」
 ふいにかかった声に咽せると、おいおいと背を擦ってくれる。
 少し落ち着いてきた時、アリスの手に残っていた煙草を横取りして火村が呟いた。
「おめでとう。有栖川有栖もついに作家なわけだな」
「…ひ…むら…」
 それきりどちらも何も言わずに、吐き出す煙を二人で見つめる。
 空間に漂う心地よさに酔い痴れる。あの頃にタイムスリップしたような安心感。
 言葉を出せば壊れてしまいそうで…。
 どのくらいそうしていたのか。
「…ご馳走さん」
 ふと、火村が立ち上がり、時間が動きだす。
 呼び止めようした視線の先に見事なブロンドが見える。
「あ…」 
 駆け寄ってきた花のような彼女が、火村の腕を取る。絵に描いたような美男美女の寄り添う姿はまるで映画のワンシーン。
「はぁ…当てられちゃいますねぇ」
 彼女と共に降りてきたらしい片桐がアリスの隣に来て呟いている。
「ただの通訳じゃなかったんですね。火村さん。大学の助教授様かぁ。確かに釣り合いますよね」
「え? 釣り合うって」
「気づきませんでしたか? 指輪。お揃いですよ、あれ。今だってダーリンが遅いから見に行くって…」
 二人がドアの向こうへと消えていく。
 その後、どうやって部屋に戻ったのか、アリスの記憶にはない。
 ちょっと一杯‥と誘われるままラウンジに行ってかなりのピッチで呑んだ様な気はするが。確かな事実は、ふと明け方に目覚めた自分の隣に片桐が居たことだけ。

 その日、もう火村の姿を見ることはなかった。



×××××

 昔、通い慣れていたはずの道添いに新しい店がぽつぽつある。そんな中で馴染みの店の扉を開け、アリスはほっと息をつく。ああみえて、結構味に厳しい火村が『ここのはイケル』と太鼓判を押した珈琲を口に含む。『よくそんな熱いまま飲むよなぁ』と恨めしそうに見つめる火村に『これを飲まな本物の味はわからん』なんて言って優越感に浸った事もあった。
 変わらない味を楽しみながら、変わっていく人を思う。
 大学時代、必要以上に人と馴染まず、自分の傍にいた火村が人の輪の中で堂々と立ち居振る舞う姿。ウソか真か、女は苦手だといった火村が彼女と腕を組んで歩いていく姿‥。たった数時間の再会が焼き付いて離れない。  あの日から何度も何度リプレイされる光景。
「4年もたったんや。当然‥なんやろうなぁ」
 空になったカップをじっと見つめた後、アリスは店を出た。駅へ、と歩きだして、2、3歩で立ち止まる。
「やっぱり…行こっかな…」
 振り向いて、目指したのは閑静な佇まいの続く北白川の町。
 そこにも一つ、変わらない風景がある。
 アメリカへの留学中もそこは火村の家だった。『倉庫にして悪いけど…』と、持っていけない蔵書などがそのまま置いてある。家賃や猫達の世話代にと通帳そのものをばあちゃんに預けていった、と留学した後から聞いた。
『来てもいいですか? 火村がいなくても。この子達とも会いたいし…』とためらいがちに尋ねたアリスに『もちろんですとも、猫だけじゃなくって私の茶飲み友達しにいらしてね』と言ってくれたばあちゃんに甘えて、足しげく通ったせいかこの5年間で2匹共すっかり懐いてくれた。昔は火村によると牽制するように唸っていたのに。
 今日も玄関を開けるなりミャウ…と飛びついてきたコウを抱き留める。
「うわっぁ出迎えありがとう。コウ。ばあちゃんは?」
 ミャァ〜、わかっているのかどうか奥を向いて走りだす。その後を追いながらもう無礼講になっている居間の襖をあけるとばあちゃんが振り向いた。
「あらあら…。ようお越しやす」
 普段から愛想のよい人だが、今日はいつもより嬉しそうでほっておいても笑みが零れてしまうかのようだ。
「…こんにちわ。ご無沙汰してました」
 何かいい事があったのかと尋ねるまでもなく。
「火村さんたら、やっぱり有栖川さんには報せてはったんねぇ」
「え?」
 一人納得したばあちゃんは話しを続ける。
「もう、知ってはるんやったら言うておいてくれたらええのに。有栖川さんも人が悪いわ。急に『ただいま』って入って来られたときには、心臓止まるかと思いましたよ」
 この家に『ただいま』を言う人間は唯一人しかない。
「‥上ですか?」
「えぇ、なんかまた本を抱えてはったけど。落ち着いたらお茶にしたいし。有栖川さん、きりのいい所で降りてくるよう言ってくれはる?」
 自分と火村の間に何があって、どんな別れ方をしたのかをばあちゃんは知らない。いや、知っていたとしても何年も知らない振りをしてくれているのだから、今更何も言うことはないだろう。
 わかりました、と2階に向かった。

 戸を開けると見慣れた風景が拡がる。
 その中心に火村が居る。何をしているわけでもない。ネクタイを緩めて寝転がっているだけ。なのに、その姿を見るだけで胸が熱くなる。火村の居ない間、何度となく上がり込んだ主人の気配がないこの部屋は1ピース欠けたジグソーのようだった。在るべき場所にその人が存在するだけで、こんなにも景色は色付くものなのか。
 全てが色鮮やかによみがえる。記憶もそう。
 恋心を自覚したのも、初めてのキスもこの部屋だった。
 本もレポートもセックスも、何もかもごちゃごちゃに気の向くままに過ごしたあの頃から変わらない畳の匂い。
 足音を忍ばせて、近付いていく。
 穏やかな寝息。安心しきった表情は、この部屋にいる時の火村のもの。この部屋を火村は『素直になれる場所』と言っていた。『色んな町で過ごしたけれどここが一番好きだな。しっくりくるんだ。ようやく自分の場所を見付けた気がする』と。
『ばあちゃんもいるし、コウやウリもいるし‥何よりアリスがいるからな』と照れたような笑顔で続けられて、真っ赤になった事もある。
「おかえり…」
 あのパーティでは言い損ねていた言葉を呟いてみる。
 身じろぎもしない火村のホンの傍で覗き込む。
 また少し白髪が増えたかもしれない。心なしか日焼けした気もする。
「…でも…火村や。…おれの…」
 その髪も眉も目も、鼻も頬も唇も。
 触れようと伸ばしかけた指を握り締める。火村の目が開くと同時に、この昔通りの空間は消えてしまうから。決して触れてはいけない。
 しばらくして、見つめる姿が歪んだのはいつのまにか流れた涙のせい。それが火村に零れ落ちないように拭うけれど、すぐにまた見えなくなる。
 どのくらいそうしていただろうか。切なさを超えて落ち着く気持ち。火村の傍だからこその充足感。見るだけでは足りない溢れそうな想い。
────これほどまでに自分は火村に飢えている。
 堪えきれずに唇を寄せようとした時、火村がアリスとは逆の向きに軽く寝返りを打った。それまでわからなかった頭の下で組んでいた手が見えてしまう。
「あっ…」
 素早く身を起こしたアリスの目に、以前の火村では想像できないキラリと輝くリングが映る。
 とたんに片桐の声が蘇る。『気づきませんでしたか?指輪。お揃いですよ、あれ』
 そして、その腕で目覚めた自分自身まで。
「…アリス…」
 背中越しに聞こえた自分の名。でも、それはきっと自分ではないもう一人のアリスだ。誰からも祝福される火村にふさわしいアリスだ。
 ガタッ、ガタン!
 今までの慎重さなど無意味なほどの音で戸を開閉しアリスは部屋を飛び出てしまった。
 階段を駆け降りる。
「戻れる…けなんか…ないやん…」
 息苦しい。
 締め付けられるような痛みは心の軋み。悲鳴をあげて、のたうち回って、壊れてしまいたい。
 トタトタと寄ってきたウリやコウの後から、優しい声がかかる。
「…どうかしました?」
「いえ。ちょっと用事思い出して。あっ、火村、疲れてるみたいで、もうしばらく寝てるみたいです」
 近付いてくる気配に『また、来ますから』と声だけを残したアリスの後ろ姿を唖然と見送ったばあちゃんは、困った顔をして階上を見上げる。
「全く…二人とも意地っ張りだこと。なぁ。ウリちゃん、コウちゃん。あんたたちみたいに無邪気にじゃれあえたら済むことやのに…」
「…そう簡単にいかないから人間なんだよ」
 隙間の開いた戸の向こうでは、煙と共に吐き出された言葉があった。しばし厳しい顔で天上を見つめていた声の主には、眠っていた様子など全く見られなかった。


   
   
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