Congratulations!
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 定時のチャイムがなる。

 一人ひとりと人が帰っていく。
「お疲れさん」
「お先に」
 そんな普段のあいさつの中に今日は違う声が混ざる。
「じゃあな。がんばれよ」
「元気でな」
 そんな声が自分に向けられる度に、有栖川有栖は片付ける手を止めてあいさつを返す。
「お世話になりました」

 去りゆく日。
 皆は一応に優しい。
「あの、有栖川さん。これ私達から」
 渡されたのし袋には美しい文字で『退職祝い』と書かれている。
「あ‥。ありがとう」
 がんばって下さいね、と言う声を残して彼女達は部屋を出ていく。アフター5に心弾む足取り。 おそらく、もう会うことのない後輩たちだ。
 例え形式上のことであろうとも、自分を前向きに送り出してくれるその気持ちが今の自分には有り難い。
 この2ヵ月、嫌という程色々な言葉が耳に入ってきていたから。
『それは危ない話だぞ』
『もう少し、実績を挙げてからでもいいんじゃないか』
『ちょっと、賞をとったぐらいで作家になるなんて、何を夢みたいな事いってるんだか‥』
『世間知らずだよな』
 本気で心配してくれた言葉も、陰でささやかれる言葉も、山ほど聞いた。
 当然だ。自分でもそう思っている。
 不安でたまらない。
 本当に自分が作家として生きていくことなど出来るのか。
 社会的な安定を自ら捨てて、後悔しないのか。 何度も自分に問いかけ続けた。

 でも、もう引き返す道もない。
 自分はここを辞めるのだ。
 五年間。まがりなりにも人並みに勤めてきたこの会社にもう明日からは有栖川有栖の席はない。

 少しずつ、片付けていたつもりでも最後となるとたくさんの事が残っていたようで、結局はいつもより遅い時間になってしまった。
「では、これで失礼します。本当にありがとうございました」
 いつも厳しかった上司に最後の謝辞。
 その厳しさも右も左もわからずに飛び込んできた自分を一人前に育てるため。上に立つ者なればこそだったのだと、仕事を辞める今になって理解出来る。
 意外な事に彼は有栖の退職に対してかなり真剣に考えてくれた。よく失敗をしていた鈍くさい部下だったのに。
 今日も無言で、みんなが帰った後も身辺整理を行なっていた自分を待って残ってくれていたのだろう。
 手にしていた書類から目をあげると一言。
「これからが大変だろうが、がんばりなさい」
 一見、ありきたりの餞別の言葉に有栖は五年分の感謝を込めて、深々と頭を下げた。

 扉を出る瞬間。
 ふと目に入った自分の机。
 雑然とした部屋の中、そこだけが異空間のように‥何もない。
 後ろ手にドアを閉める。
 バタンという音が今までの自分を閉じこめた。
 もう、本当にこれで終わりなんだと思うと自分でもわからない寂寥感におそわれてしまう。
 といっても、まだ実感などない。
 週があけて、当たり前になっていた日常から遠ざかって初めて『辞めた』ってことが肌でわかるのだろうか。
 その感情が、寂しさなのか、喜びなのかすら、今の有栖には予測出来なかった。


          ∞∞∞


 十時過ぎ。
 こうしてサラリーマン姿で家に帰るのも最後なんだなぁとすっかり感傷的になりながら、四天王寺前駅に降り立つ。ふとみると、定期の期日はあと一週間。それまでに、どこか今まで通るだけだった駅の辺りでも探索してみようか、などと余裕のある事を考えている自分に気づき少し気持ちが軽くなる。

 マンションのエントランスへの角を曲がったあたりでクラクションの音が鳴った。
 まさか自分にではないだろう、と思い通り過ぎた有栖を追いかける声。
「有栖川先生」
 先生などと呼ばれる身分ではないが、声の主はすぐにわかった。
「‥火村?」
 街灯の薄灯りの中近付く人影は紛れもなく火村英生。大学時代からの友人で同窓の彼は今もまだ母校のある京都に住んでいる。というより、この春からは助手として母校で教える側に回るはず。 春休みに入ってからも自分以上に多忙な日々を過ごしているはずの彼である。それが…。
「どうしたん? こんな時間に」
 尋ねた有栖に笑顔が答える。
「最後のお勤めご苦労さん」
「えっ? 何で」
 知ってるんや、と続けようとした有栖の前に差し出されたのは色鮮やかな花束。
「な…何やこれ? 」
「見てわかるだろう。花だ。っていっても何の花かは、俺も花の名前は専門外だが、雑学博士の有栖川先生は知ってるんじゃないのか」
「知らん…そんなん…聞いてへん」
 花束を見つめる有栖の戸惑いを感じとった火村は有栖の抱えていた鞄をさり気なく奪って足元におくと、今度はしっかりと有栖の前に立つ。
「祝いだ」
「退職の…か? 」
「いや、有栖川有栖先生の第一歩に」
「あ…」
「受け取れよ、アリス」
 押しつけられた花束。
「おめでとう」
 その祝福が心に沁みる。
 ゴールデンアローの佳作をもらった時もそうだった。火村のたった一言で幸せな気分になれた。 今、こうして社会的な肩書きを失って、不安な思いを山ほど抱えた自分にとって、それは何よりも心強いエール。
「‥あり‥がと‥」
 笑顔と涙が入り交じった表情で花束を抱えるとむせるような花の匂いに顔を埋めて、有栖は言葉を失ってしまった。
「泣くほどのことか‥」
「‥泣いて‥へんわ‥」
「お前の目は水道か? 」
 すぐに皮肉屋の口調を取り戻してつぶやきながらも、火村は静かに有栖を見つめてる。キャメルの煙を燻らしながら‥。


 カツカツ‥
 二人を現実に引き戻したのは足早に近付くハイヒールの音。
 若いOLがちらっと二人を見ながら同じマンションへと入っていく。有栖には見知らぬ顔だった。
都会の盲点と言うか‥番地まで同じ所に住んでいても知らぬ人の方が多い世の中だ。珍しい事ではない。むしろ大阪・京都と離れていても自分たちの距離のなんと短いこと‥。
 どんなに感謝しても足りないかもしれない。
 大切な友人に有栖は心から告げる。
「ほんまに、ありがとう。火村」
 何でもないとでも言いたげに火村は肩をすくめた。本当は有栖の今日一番の笑顔を見て息を飲んでいたのだが、顔には出さない。
 突然、焦ったように鞄を持ち上げて有栖が言う。
「すまん、火村。部屋行こう。君、ずっと待っててくれたんやろ」
「ほぅ、ようやく気づいたか」
「ごめん」
「‥別に、アリスの大ぼけは今に始まったことじゃないからな」
 自分よりも先に歩きだした火村の背中に有栖は一言呟いた。
「‥前言撤回」

 部屋に入って、遅い夕食をとった。
 といっても、虚しくカップ麺だったりする。意外な事に料理に堪能な火村も、冷蔵庫をのぞいてギブアップしてしまった。
「花より食料の方が良かったかな」
 猫舌の火村はようやく適温になった麺をすすりながら面白くなさそうな顔をしている。
「ごめん。ここんとこあんまり家で食べへんかったから」
「送別会か。つきあいの良い奴は大変だな 」
 と、自嘲気味に火村は言う。彼は日頃から有栖以外には友人と呼ぶような奴がいない、と公言している。が、その言い分が有栖には不思議でならない。
 大学の教授会なんてものすごい派閥争いをしているような場所。その院でもそこそこ認められ、その後母校に残るよう奨められるなんて。余程覚えがいい奴ぐらいしかありえない。自分よりも火村の方がよっぽど世渡り上手で、人当たりもいいじゃないか‥と言うのが有栖の意見。
 いつだったかそれを口に出すと『上手さと深さは違うさ』と一笑されたが。
「そんなんちゃうわ。俺を飲み会の口実にしてるだけや。でも、仕事の上の浅いつきあいでも、五年分って結構あったんやなぁって思ったな」
「今日は良かったのか? 」
「もう、打ち止め。それにもうすぐ年度末やん。みんな飛び回ってるし。俺もホンマはギリギリまで行こう思とったけど、丁度キリ良く引継ぎ終わっ
たしな。ま、有休なんか滅多に使ってへんから最後に豪快に使ったわ。さてと、ごちそうさん。火村、何か飲む? 」
「コーヒー」
「わかった。ちょっと待っててな」

 二人分のコーヒーをテーブルに運ぶ。
「はい、お待たせ。君の分、氷一ついれたからすぐ飲めるはずや」
「珍しく気が利くじゃないか」
 舌好調(誤字ではない、その字の通り舌が好調)
の火村。食後の一服で少し機嫌が直ったようだ。
聞き流して向かいに座る。
 腰を下ろすとようやく落ち着いた気分になった。
「なんか、すごい久しぶりな気がするわ。君とこうして話しすんの」
「そうだったかな」
 そう。この数か月。自分の事で精一杯になってて火村とゆっくり話す事もなかった。電話は時折したけれどお互い多忙だったのですぐに切った。それに電話では顔が見えるわけではない。
「君も忙しかったのに、相談ばっかりでほんまに悪かったな。でも、おかげで今日が来たわ」
「いや。結局決めたのはアリス自身だろう」
「そうやけど、火村に『自分のしたいようにしろ』って言ってもらってすっきりしてんで」
「そりゃ、どうも」
「持つべき者は友達や、ってホント思ったわ」
「トモダチ‥ね」
「そうや。君だけやった。こんなこと話せるの。なんでやろな」
 うれしそうに喋り続ける有栖に相づちをうちながら、火村の心は違うことを考えている。
 もし今、自分の本心をぶちまけてもお前はそうやって微笑んでいられるのか?
 もし、それだけじゃ駄目なんだと告白すればお前は答えてくれるのか?
 顔を見るだけで満足できた時間など通り過ぎてしまった。声を聞くだけで幸福だった頃がとても遠い。
 自分の気持ちの正体を疑わずには入られなかったから、忙しいと理由をつけて会わないでみた。 でも結局、想いは深まるだけで。

 目の前にお前が居る。それが嬉しくて、苦しい。
 零れそうになる。
 欲しいのは友情ではない。全部だと。
 友情では足りない。
 有栖川有栖の全てが欲しいのだと。
 もし今ここで告げたなら。
─────お前はどうする? アリス‥?

 日付が変わる頃。火村は帰ると言い出した。
 泊まっていくように勧めたが明朝から用事が詰まっている上に、車を返さねばならないという。『送別会でもあったら何時に戻るか予測がつかないから』という理由で先輩の車を無理を言って借りてきているからと。
 靴を履く火村に有栖は声をかける。
「悪かったな、無理させて」
「いや、俺が勝手に来ただけだ」
─────アリスに会いたかったから‥。
「時間出来たら教えてな。今度は火村の卒業や就職のお祝いしたいし」
「いらねーよ、そんなもん。助手になるったって今までとそう変わった生活とは思わないし。第一顔触れが同じだから変化も何もないさ」
─────お前以外何が変わったところで気にもならない。
「でも、今度は君が教えるんやろ」
「まぁな」
「じゃあ立派な就職やんか」
「‥‥そうだな。わかった。連絡するよ」
─────もう少しこの気持ちを落ち着けてから。
「うん」
「アリスこそがんばれよ、専業作家第一作」
「ありがとう。いつか本が出るようになったら絶対火村に献呈するわ」
「気長に待つことにしよう」
─────その日まで俺達は‥続いているのか?
     アリス!
 火村の心の叫びは有栖には届かない。

 下まで送ると言った有栖を制して車に駆け込むと火村は溜息をつく。
「泊まってなんかいけるもんか! 」
 暴走してしまう。自分を押さえられなくなる。
何度も夢に見たように、嫌がるアリスを押さえつけてでも自分の欲望を果たそうとするだろう。
 それは、おそらく容易いこと。
 でも、それは全てを失うこと。
 犯罪者の心理が手に取るようにわかる。
 アリスの目が自分を拒絶する瞬間など見たくない。いや、許せない。そうなればきっと、この手で殺めてしまうだろう‥。
 それほどに‥絶望的な程、自分はアリスを愛している。
 久々の再会はその事実を嫌という程わからしめ、火村の自覚を深めただけだった。


 一方、部屋に残った有栖は有栖で溜息をついていた。
 本当に長い一日だった。
 きっと一人でいたらこれからの事を考えて一人沈んでいたかもしれない。
 火村が来てくれてどれだけ嬉しかったか‥。
 火村と居る時間はいつもあっと言う間に過ぎる。
「でも‥、今日の火村は何か変やった‥」
 どこかうわの空で自分を見てみぬふりをしてた。
 そのくせ、向かい合っていない時には必ず自分を追ってきた視線…。
 ふと、灰皿に残った長めの吸い殻を手にすると、
火村をきどってくわえてみる。火村の目線で自分の行動を追ってみても何も見えはしない。
「何か言いたいことあったんちゃうんかな…」
 必要以上に何もかもを話す自分と自分の事はまるで語らない火村。それはいつもの事。もっと火村の事を知りたいと思う。でも、詮索はしない。いつかきっと火村自身が火村の言葉で話してくれる日が来ると思うから。
「ま、忙しいしな。あいつも。落ち着いたらゆっくり会えるし…。きっと何か言ってくれるやろ。さて‥寝る前に」
 無造作に手洗場に置いていた花束を花瓶代わりのコーヒーの空瓶に飾る。
「明日はちゃんとした花瓶を買ってこよ‥」

 有栖の部屋の灯りが消えてから、ようやく一台の車が真夜中の道へと走りだした。


後編に続く
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