∞∞∞
電話の音に飛び起きる。ナイターを聞きながら、うたた寝をしていたらしい。
「もしもし!…あ…お世話になっています」
それは先日原稿を送った出版社から次回作の依頼という有難いベルだった。
専業作家になってから約一ヵ月。
仕事の電話はうれしい。
だけどつい、声に落胆の色が混ざるのはそれが待ち人からのものではなかったせい。
電話の声を遠くに聞きながら、有栖は心で別の人物に問いかける。
(何してるんや? 火村…)
連絡を入れると約束をしたきり、火村とは一度も会っていない。
それどころか…連絡すらないのだ。これまでだって一週間くらいは音沙汰なしってことはあった。
でも、不思議な事に、不在感を感じる前になんとなくどちらかから連絡はつけていた。
確かにあの日、『時間が出来たら』と自分は言った。でも、電話も出来ない程の忙しさなんて‥変だ。勤めていた時ならまだしも、会社を辞めてずっと家に居る自分につながらない‥なんて、それは絶対におかしい。留守電だってあるのだし…。
第一、火村自身が電話に出ない。夕方に、夜に、真夜中に、最後には早朝に‥鳴らしてみた呼び出しにも答える声はなく。ついには大学にまでかけてみると、講義中で手が放せない、と伝言が返ってくるだけ。
『よろしくお願いします』と電話を切るなり、短縮ボタンを押してみる。
いつもより多めに呼び出してみても応答なし。
「要するに、避けられてるってことやんな‥」
受話器を置いて有栖は呟く。
だとしたら、何故だろう‥?
気になり出してからもう何度も考えた。
糸口は見えている気もするけれど‥。中途半端に自分だけで悩んでみたって結論は出せない。
とにかく、この謎をなんとかしないと他の何も手につかなくなる。次回作のプロットなんて‥仕事すら出来ない。
「火村英生の謎、かぁ‥」
考え込んでいた有栖は、しばらくすると手帳を取り出し、もう一度受話器を握った。
『あら、有栖川さん。お元気でした? 』
ご無沙汰しています、とあいさつを返す相手は篠宮時恵さん。火村の下宿の大家さんだ。学生時代、火村の下宿を定宿にしていた有栖は、何度か彼女の手料理をご相伴させてもらった。恐縮する有栖に『火村さんの連れてきたたった一人のお友達ですもの。大事なお客さまですよ』と、優しい言葉をかけてくれた品の良いご婦人だ。ただ一人の店子の火村とは、親子か祖母と孫といった間柄に見える。両親のいない火村にとっては本当にそういう気持ちなのかもしれない。
彼女なら火村の様子もわかるし…と思い立つとすぐ、受話器を取ったのだ。十一時近い時間に失礼とは思いつつ。
「遅くにすみません」
『いいえ、さっきまで火村さんが来て食事してはったんよ』
それでさっきはおらんかったんやな。
「あ、そうなんですか‥迷惑かけてませんか、あいつ」
『いいえ。こちらからお誘いしたの。なんだか火村さん、最近部屋にこもってはって。電話鳴っても取りはらへんし…。もしかして、有栖川さん。火村さんと何かありました?』
「え?」
『ごめんなさい、堪忍ね。下世話な聞き方して。でも、火村さんとこの電話。有栖川さんからと違います?あちらに繋がらへんから、こんなおばあちゃんのこと思い出してくれはったんでしょう?』
さすがは火村を店子に置くだけのことはある。
「…お見通しですね」
『あら、作家先生にお褒めいただけて嬉しいわ』
クスッと笑った気配にも嫌味が全くない。
「でも、何かあったわけじゃないんです。というか、何もない。ただ一方的に、いや、徹底的に無視されてるみたいで…。段々腹立ってきて、そっちに押しかけようかと思ったんですけど、姿見たら寄りつかへんカモしれん…って思って‥」
『あらあら…深刻ですこと。で、私は何をすればいいかしら?
』
思わず愚痴をこぼした有栖を励ますように合いの手を入れてくれる。
「英都のGWってわかりますか? 」
『全学は知らないけど、火村さんなら明々後日からしばらくはどこも出ないって、さっき言ってましたよ。私が明後日から予定があったんで、留守番をお願いしていたの』
「そうですか…。その日、何時に出かけられますか?」
『特に決まってませんけど、娘が昼すぎに迎えに来てくれる事になってるんですよ』
ならば多分、火村とは入違いになる。
「…すいませんけど、不法侵入、認めていただけます?
」
面白そうなお話です事、と言ってくれた篠宮さんとの相談を終えて、有栖は電話を置いた。
ゴールデンウィーク。
その言葉に浮き立つ学生達を尻目に、重い足取りで火村は帰途に着く。
しばらくは誰とも出会わずにすむ。
ばあちゃんも出かけるし、本当に一人だ。
『積ん読』状態の本に埋もれて過ごそうか。
一番会いたくて会えない人影が心をよぎる。
四日前から電話もならなくなった。大学の方に何度か伝言が入っていたが無視してしまった。
一ヵ月近く連絡もしていない自分の事を心配して、いや怒っているだろうけれど、まだ会えない。いや、もう‥会えないカモしれない。
『何考えてんねん!』と普段なら押しかけて来る可能性もあるが、連休中に締切があると言っていたから、その姿を見ることもないだろう。
ドアを開ける。
誰もいないとわかっているから何も言わない。
連休中、その気になれば一言も喋らなくてもきっと生きていけるだろう。
ジャケットを無造作に放り投げ、近くの炊事場の水道で顔を洗う。
その背後から声がした。
「‥ただいまぐらい言うたらどうや。いくら一人や言うても‥」
驚いて振り向く火村の目に映ったのはタオルを差し出す有栖の姿。
「‥ア‥リス‥」
幻覚か? 押し殺していた恋心故の幻か?
いぶかしがる火村に、その姿はもう一歩近付いて火村の手にタオルを握らせる。暖かいその手は確かに実体。
「拭けや。ちゃんと。水もしたたるいい男ってのも悪くはないけどな」
火村の動揺と裏腹に、有栖は殊更明るく応じる。
「なんでだ? 」
その呟きを無視して、有栖は火村の濡れた顔を軽く拭いてやる。
「服が濡れるで」
「‥なんで来たんだ!」
段々とトーンが高くなる火村にあくまでも冷静な有栖。いつもとは全く逆の光景。
「お祝いするって言うたやろ。 君がいつまでも連絡して来ないから押しかけて来たわ。土産がブランデー一本で悪いけどな。でも奮発してんで」
見つめ合うこと、数秒。
苦しそうに目を閉じて火村はもう一度言い切る。
「‥帰れ」
「何でや? 」
「いいから、帰ってくれ!」
オレガオマエヲコワサナイウチニ‥
「頼む。アリス‥」
自らの手を固く握り締め、何かを耐えている火村を有栖はただ見つめている。
予測はしていた。
多分、火村はそういう反応をするだろうと有栖は覚悟をして来ていた。
そして、自分がどうするかも自分なりの結論を持ってきていた。
「わかった‥。でも、火村‥。一つだけ言っておきたい事があんねん」
答えは望まない。いつか火村も落ち着いたら答えをくれるだろう。例え、肯定でも否定でも。
だから今は、考えた上の自分の思いだけを伝えよう。
力を込めすぎて震える火村の手をそっと包み込んで有栖はささやくように告げた。
「俺な、火村のこと、好きやねん」
とたんにビクっとした火村の前で照れたように
うつむいて有栖は話し続ける。
「何年もつるんでて、今さら何やって笑われるかも知れへん。それに、別に俺ホモちゃうと思うけど、でも火村は特別で‥。とにかく火村がめっちゃ好きやねん」
だから、火村がどんなに驚いた目で自分を見ているのかを有栖は気づかない。
「火村が連絡して来ないのが腹たって、なんでやろうって思って、考えてて‥。俺が、負担かけすぎてたんかなぁとかも思った。でも、そんな風に俺が素直に怒ったり甘えたり出来るのって火村だけやなぁって、よくわかったし」
「アリス‥」
ようやく聞こえた火村の声をさえぎって、有栖の告白は続く。
「今だけやから言わせてや。なんか‥おってくれるんが当然やから、気づかへんかったけど単純な事やん。火村と会わへんかったら寂しい。火村とおったらそれだけで落ち着く。何かあったら火村に会いたい。いい事でも悪い事でも他の誰でもない。火村に聞いて欲しい。なんでやろうって自分を問い詰めていっても、結局それは、俺が会いたいのが火村で、傍に居て欲しいのが火村で‥。考えれば考える程、理屈やないなぁって思えて。俺って火村英生が好きやねんなって。だから、とりあえず今日は酔った勢いででも、ちゃんと言って帰ろうって思って来たんや」
長い独白を終えてようやく顔をあげた有栖はそこで初めて火村の驚いた表情に気づく。
「なんやその困った顔。返事なんかいらんで。火村が俺を避けてるのはわかってるし」
─── 違う‥。困ってるんじゃない‥。
ただ迷っているだけ。アリスのスキと自分のスキが同意義かどうか。
「でも、ありがとうな、火村。全部聞いてくれて、そしたら今日は帰るわ」
包み込んでた手を離して弱々しく微笑むと有栖は背を向ける。
「帰るな!」
その声が耳に届くのと、
「え?」
振り向いたアリスをその腕が抱き留めるのとは多分同時。
「好きだ!アリス!」
力強い腕の中で有栖は火村の本心を聞いた。
「お前に惚れてるよ‥昨日今日の想いじゃない。いつからかなんてわからん。もしかしたら出会った時からかも知れないし、卒業してからも会いたいといったあの頃かもしれない。ただ恐い」
「こわい‥? 」
「あぁ‥恐いんだ」
「何が? 」
「俺自身が‥。好きだと気づいたら止らない。欲しくなる。殺してでも自分のものにしたいという犯罪者の心理そのものだ。お前が欲しくて、お前を壊してでも自分の、自分だけのものにしてしまいたいとお前を見る度に思う。こんな狂った奴が傍にいたらお前は傷つくだろう。いや、それよりも何よりも、傷つけたくないのに傷つけてしまう自分が恐い」
「大丈夫や…」
伸ばした両腕を火村の背中で合わせて有栖は力一杯火村を抱き返す。
「火村は自分で抱え込みすぎて混乱してるだけやねん。我慢しすぎて煮詰まってるだけやんか。俺が何にも気づいてやれんかったから、苦しかったんやろ」
「アリス」
「欲しい時は欲しいって言うたらいいねん。下手な我慢するから苦しなるんや。甘えていいねんで、火村」
「‥アリス」
赤ん坊をあやす母親のように火村の背をさすりながら、大丈夫、もういい、と有栖は何度も繰り返す。その優しさに火村は癒されていく。
「ホンマは俺に会いたかったんやろ」
「あぁ」
「声聞きたくなったやろ」
「もちろん」
「会わなくて寂しかったやろ」
「泣き寝入りした」
嘘つきやなぁ…と呟く声にクスクス笑いが混ざる。
「こうして近くに居てたら落ち着くやろ」
「いや、近すぎてドキドキする」
言いながら火村の手が少しずつ上へと上がっていく。
「…そうやな…。俺もやわ」
髪にたどり着いた手がためらうように有栖の耳を掠め、頬を横切り、軽く顎にかかる。
「もう、一人で煮詰まったらあかんで」
唇に触れた指に囁いて有栖は静かに目を閉じる。
「悪かった」
そのまぶたをかすめた唇が優しく降りてくる。 心地よさを惜しむように長い時間を共有した後、火村の指がためらいがちに有栖のシャツをたくしあげる。
「なぁ、火村」
「ん?」
「君が俺のこと壊しても、俺きっと壊れへんから。
もしそん時はだめになっても、とかげのしっぽみたいに又、元通りにするし…」
思わず手を止めた火村は、まじまじと有栖を見つめて、
「アリス。お前も作家のはしくれなら、もうちょっとこの場に合うようなましな例えはないのか?」
盛大に吹き出した。
興奮したらお腹が空いた、とこれまた色気のなさを暴露した有栖のために腕を奮って並べたディナーがテーブルを飾っている。
「ホントにブランデーだけだったわけだ。お前の手土産は」
「そうや。あ、火村。カードは見てくれたか?」
「カード? 」
言われて始めて火村はブランデーに添えてあったカードを開ける。
「Congratulations!
on our success.
私達の成功を祝って…」
「うん。君の花束にはユア サクセスって書いててんけどな。これからもずっと一緒におって、二人でこうやって祝いあえたらいいなと思った。君はこれから助教授とか教授って頑張っていくやろうし。俺は世間様に少しは知ってもらえる作家になるように努力していくやんか。挫けたりつまづいたりする事って絶対あるやろうけど、一人で息詰まってないで二人で乗り越えたいし」
「アリス…強いな、お前」
「そうかな‥。多分、甘えるのが上手なだけや。さ、乾杯しよ」
琥珀色のグラスを手渡す。
「火村の就職を祝って」
「アリスの第一作入稿を祝って」
お互いの前途を祝しながらの乾杯に、ブランデー
グラスの氷がカラカラと良い音を鳴らした。
∞∞∞
なんだか良い匂いが漂ってくる。
ふと、時計を見ると9時7分前。
「しまったなぁ‥」
絶対にそれまでには大丈夫‥と大見得を切ってしまった手前がある。
「うーん、あと一息やねんけどなぁ‥」
ワープロの前で思い切り伸びをする。
午前中に手渡すはずだった原稿のミスに気づいたのが今朝の事。慌てて担当の片桐さんへ連絡を入れると『明日までならギリギリ延ばせます』と言ってもらえて一安心したのだが、問題はもう一つの約束。
締め切り後に昼食と約束していた火村に大慌てで連絡を入れると間一髪間に合った。
「全く、そんなことだと思ってたよ。アリスが冴えてるのは有事の時だけだよな」等など、散々皮肉は言ったものの、また外で約束をすると不安だからと食材を買い込んで来てくれる優しい恋人である。
もしかすると、相変わらず甘え上手の有栖に上手く乗せられているだけかもしれないが‥。
約束の時間が過ぎる。
「終わったか」
ワープロを打つ手が止まっているのを見て火村がたずねる。
「あと少し‥30分延長って言ったら怒るか?」
「やっぱりな‥。仕方ないなぁ。後でたっぷり延長料金をもらうことにしよう。でも、ちょっとだけ、つまみぐい」
振り向きもせずに答える有栖をのぞき込んで、掠めるようなキスを奪う。
「火村! 」
怒るふりをしてみても本気ではない。こんなことは二人の間では日常茶飯事でしかないのだから。
「時間はいいから、きりのいいところまで来たら言えよ。料理、暖めるから」
「うん、ごめんな。英都大学の助教授様をこきつかって」
「いいさ。じゃ後でな」
互いの気持ちを認め合ってから5年。
火村は英都大学助教授になった。
有栖は単行本の出せる作家となり、大概の書店でその名を見かけるようになった。
つまらない事で大ゲンカをする事もあるが、その度に二人で乗り越えて来た。
二人の出来事に祝杯を重ねながら。
そして、今日もまた。
有栖がワープロを閉じた後、二人の時間が訪れる。
今日は何に乾杯しよう。
「アリスの新作誕生に」
「火村家の新しい同居人、いや同居猫の誕生に」
そして、最後は。
「俺達の夜に‥乾杯!」
Congratulations!
on our success.
初めてコミケでスペースが取れて参加が決まった時に、書いたお話でした。まぁ、いわば馴れ初め編なわけだけど…。今ならもっと濃厚にあれこれ書くかもしれないって思う今日この頃…いやぁ、あの頃は若かった…。っていつの話やねん?? |
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