ダダダダッ
せわしなく階段を駆け上る音。
「ごめん、遅なった!」
 扉を開けると同時に叫びながら飛び込んでくる人影。
 ミャアァゥ
 競争相手ができたとばかりに一緒に駆け上がってきたらしい猫達の声も重なって途端に賑やかになる部屋。

「んー、何だよ・・」
 ぶつぶつ言いながら目を開けると、少し息があがったままのアリスが覗き込んでいる。
「なんや、寝とったんか」 
「らしいな。あまりに誰かさんが遅いんで、本でも読もうかと思ったんだけど寝ちまったみたいだ」
 そう。原因はアリスの方だ。
 絶対に4時には着くとか何とか豪語していたというのに、最後に見た時間は既にそれを半時間はすぎていた。以降、何分たったかは不明だが。
 いずれにせよ、待たせたのはアリスなのだから責められるのは割に合わない。
 だから、殊更に意地悪い口調になる。
「大体、一時間過ぎても連絡一つないから今日は来ないと思ったからなぁ・・ふぁーぁぁ」
 伸びと同時に手探りで探すキャメルの箱。
「はい」 
 先に見つけたアリスが一本差し出しながら、すまなさそうな顔を見せる。
 無言のまま唇でそれを受けるとさっとライターが点された。
 滅多にしないことを…少しは悪いと思っているのか。
 ちらりと、冷たい視線を送る。
「ごめんって。バス、乗れなくって・・」
「だからって一台や二台遅れても、ここまで遅くはならねぇだろう」
「確かに・・そうやねんけど・・」
 ゴニョゴニョ・・と消える言葉。
 カチッカチッとライターをいじっている姿をみると、まるでこっちに非があるみたいだ と腹ただしくなってきた。
「何だよ。理由があるならはっきり言えばいいだ ろ」
 不機嫌極まりないといった俺の声に逃げ出したのは、アリスではなく猫達だ。来た時と同じく突然、部屋を出ていってしまった。
 喧騒が消えた部屋の、冷たい空気に首をすくめてアリスは一言。
「だって・・そういわれたらたいした理由はないし」
「はぁ?じゃ、何か。理由も無いのにこーんなに長い間、俺は待ちぼうけをくらったって事か?」
「いや、っていうか、バスに乗れんかったっんやけど、別に乗り損ねた訳でもないし、だから、つまり・・」
 てんで要領を得ないその言葉にカチンと来て、思わず身を起こした。
「あのなアリス。わざわざ地元に住む俺を花見に誘ったのはお前だぞ」

×××

『もう桜も散ったなぁ…』とぼやいていたアリスに『下宿の近くでは今、遅咲き桜が見頃だぞ』と答えたのが昼の出来事だ。
 午前2コマの講義を終えて帰る間際の俺と午後の講義の為に出てきたアリスの、ほんの短い図書館前での会話。
「行かないって言ったのを聞きもしないで4時には下宿に行くから案内しろってさっさと講義に行っちまったくせに。遅れてきて理由はないって、そんな言い分通ると思ってるのか」
「いや…そうやねんけど…」
 強い口調にもなお頑ななアリスにカチンと来て、そっぽをむいたまま煙草を蒸かす。
「とにかく花見に出かける気はないからな」
「えぇっ・・! だってまだ今からでも夜桜やったら見えるやん」
 自分が遅れたのを棚の最上段に上げてのその言い分。
 なんて奴!、と思うより前に、心底残念そうな横顔を見ると少し心が揺れるあたり…。
 惚れた弱みだと思う。
「連れてってや、お願い。火村」
 そんな俺のゆらぎを感じたのか駄目押しとばかりに拝まれた。
 かといって、ここで甘い顔を見せるわけにはいかない。
 いつもいつもいつもいつも。全て何でも許されるだなんて、そんな事あるわけがない。
 でも…。
「今年最後のチャンスかもしれんやんかー」
 全く、なんて甘え上手…。
 その縋るような目は止めろって・・。
 絶対こいつはわかっていない。
 俺にだって我慢の限界ってものはあるのだという事を。
 こんなに善人でいてやろうとしているのに・・。
 知らねぇぞ。
「その後、どうするつもりだ?」
「え?」
「夜桜を見て、それから…泊まって行く気か?」
 ふいに手首を捕まれて、一瞬アリスはビクッとした。それは言葉の裏の意味を理解している故の動揺だろう。
 かっての自分達なら相手の部屋に泊まる事など当たり前の事だったのに。
 今の二人にはそこに恋人同士の行為が伴う可能性を含んでいるのだ…。そして、アリスはまだその行為に慣れないでいる。いや、気持ちはあっても身体がついて来ないとでもいったところか。
 それを責めるつもりは毛頭ない。同じ性を持つ者として、受け身の立場を取ることへのためらいは当然の事と推測出来る。いや、推測どころか…実際に身体を繋いだ後のアリスのダメージは相当なもの。初めての時は、ぐったりとひれ伏した姿を目にして『殺したか』と思ったほどだ。
 だから、弱々しく「泊めてくれるん?」と尋ね たアリスに 「無理するな」と告げて腕を放した。
 それでもなお、困った様な視線をアリスは向けていた。

 しばらくの沈黙の後、アリスの口からため息まじりに意外な言葉が零れ出た。
「だってなぁ‥帰られへんもん」
「はぁ?どういう事だ?」
「お金ないんやもん」
「何だって?」
 思わず身を乗り出す。
「だから、財布がなくって…」 
 その言い分を整理する為の時間に瞬きを数回…。
「つまり、何だ…お前。バスに乗り損ねたってのは、遅れたわけじゃなくって乗れなかったって事か…」
 こくん、と頷くアリス。
「連絡出来なかったのもそのせい」
 先に同じ。
「アーリースー・・」
 お手上げだ、と思わずふぬけた声が出た。
 こっちは、まじにお前への負担やら何やら考えて超真面目な恋愛を思い巡らしているというのに。
『財布を忘れて帰れない』とは・・どういう事だ!!
 悔しいやら、馬鹿らしいやらで、どうリアクションすればいいかすら浮かばないまま、深いため息をついた。
 そんな俺にアリスはむきになって言い返してくる。
「だから、たいした理由やないって言うたやんかぁ」
「じゃ、一体お前どうやって大学まで来たんだ」
「定期はジャケットに入ったままやったから持っててん。財布だけ・・なんかなくって。・・でも、落としたわけやないと思うねんで。多分‥家におきっぱなしやと思う‥テレビの前かな‥ベッドかも‥あれ? 風呂やろか、昨日一回帰った後、コンビニ行って…」
 自分の軌跡をたどるように考えながら、アリスはぼそぼそと呟いている。
 このままじゃらちがあかないので、方向転換を試みた。
「・・つまり、お前、歩いて来たのか?」
「え、うん」
「小銭くらい借りてくればいいだろう」
「いやぁ、そうやねんけど。バス停で財布ない事に気ぃついて、誰かに借りようかと思って大学に戻ってんけど、生憎なことに学食とか図書館とかに知った顔、一人もおらへんかったし。講義終わるの待ってたら遅なるし・・って。結局、人間には足があるって事で」
 あぁもうわかった、と遮って、灰皿においた煙草に手をのばす。
「そんな思いまでして来てんで、行こうや。今からでも」
 その手を掴んで訴えるアリス。
「やだよ」
「火村〜」
「行かない」
「じゃあ、一人で行ってくる!」
 だん、と立ち上がったその手を思わずひっぱった。
「まぁ、待てよ」
 場所もわかってないくせに。そう言えば引き止めるって思ってるのが丸分かり。
「何や? 行ってくれるんか?」
 わくわくと期待に満ちた目がとてつもなく可愛い‥。
「いいや」
 一言で一瞬にして、しゅんとするその姿も。
「それやったら離して、‥や‥ぁん‥───」
 だから、振りほどこうとする手を逆に引き寄せて腕に抱き取ると、その唇をふさいでしまった。


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