『キスは好き』
 以前、そんな回文が面白いとアリスは笑った。
 そして『火村とのキスはもっと好き』と続いた言葉。何気なく零れただけの言葉なんだろうが。それでも今もこうして唐突に仕掛けられたキスに軽い抵抗をしただけでアリスは応えてくれる。
 でも、その先は…。

 抱き留めた腕が背筋を少し動くだけで、その身が固くなるのがわかるから。
「しないよ…」
 呟きながらそっと離した唇の間。繋がる銀の糸に動かしていた手を差し入れる。
 どちらかの、多分二人の…唾液で濡れる指。そんな俺の動きをじっと見ていたアリスはぼそっと一言呟いた。
「……ずるい」
「ん?」
「キスしたら誤魔化されるって思ってるやろ、火村」
 真っ赤な耳で抗議された。
「思ってないぞ」
「嘘や!」
「ほんと、ただ……いや、いい」
「何やねん。言いかけて止めんなや!」と、アリスは怒るけど、正直に『アリスがあまりに可愛かったから…』なんて言ったら余計に怒らせるに決まっているから。
「したかったからしただけさ、一々理由なんか言ってられるかよ」
 納得しかねるといった顔のアリスをかわして、窓に迎う。といっても狭い部屋だ、すぐに真新しいレースのカーテンの横で振り向いて手招きをする。
「それより、こっちに来てみろよ」
「イヤや。またキスで誤魔化すつもりやろ」
「違うって。言っておくが、俺はいつも真剣だからな。誤魔化しでキスなんかしないぞ」
「ほんま?」
「当たり前だろ…信じろって。ほら、ちゃんといいもの、見せてやるから」
「ほんまのほんまに?」
「あぁ」
 疑いの眼差しながらも来るあたりがアリス。
「何があるんや?」
「これさ」と、開けたカーテンの向こう。
「え? うわぁ…!」
 そこには大きな桜の木が今を盛りと咲き誇っている。
「すごい…」と、窓辺に張りつくアリスに『落ちるなよ』と釘をさし、窓を開けると目の前に手を延ばせば届きそうな隣家の庭の八重桜。
「美事なもんやなぁ…」
「言ったろ。下宿の近くで遅咲き桜が見頃だって。気が付かなかったのか、目の前を通って来たくせに」
「全然…」 
「まったく…。証拠だってあるぞ、ほら」
 そういって髪からすくい出した桜のひとひらを差し出された手にそっとおいてやる。
「ほんまや。遅れたって思って走ってたから気ぃつかへんかった」
 その花びらをアリスはそっと窓の外に出す。と、風に乗ってはらはらと舞い落ちる。
「花見なら、ここが特等席なんだぜ。わざわざ出掛ける必要もないさ」
「そうやなぁ…」
 呟いてアリスは外を見つめている。

 時は夕暮‥。
 微妙なグラデーションで空は色を変えていく。
「あきないのか?」
「一本の木やのに、一瞬毎に全くちがうもん」
 長い時間に交わした会話はただそれだけ。
 でも、確かに見飽きることはない…。
 アリスは桜を。俺はアリスを。
 見つめ続けて      
 どれだけそんな静かな時間が流れただろう。
 
 一瞬。すっと頬に冷たい風が流れ。
 とてつもなく恐くなって、その姿を後から抱き締めた。
「どうしたん?」
 呼び覚まされたように、アリスは呟く。
「お前がさらわれそうで…」
 本当にそう思った。暮れていく風景にアリスが引き込まれてしまいそうで。
「心配しいやな…火村‥桜に焼いてどうすんねん」
 クスっと笑ったアリスの唇が、ふりむきざま頬に触れた。
 ふいにまた思い出す。
「キスは好き」 
「え?」 
「今もそうか?」 
 唐突な質問に首を傾げながらも、アリスはうなづく。
「うん、火村のキス…好きやで」
 憶えているのか、いないのか…同じ答えを返してくる。
「…そんな事言っていいのか、アリス。こんな所にいるんだぜ」
 抱き締める腕に力を込める。でも、まだ逃れられるだけの加減をする余裕が残しておいたのに。
「だって…スキやもん」
 唖然としている隙に、触れていく唇。
「こんなんも。それから…こんなんも…」
 再びまた近付いたそれは強い意志で吸い付いてきた。
 驚きながらも、誘われて忍び込む舌。
 絡め合い、追いかけあう‥そんな大人の口付けを存分に堪能してからゆっくりと離れる。
「……わかった?」
 濡れたままの唇で囁かれて、うなづく。
「あぁ、キスはスキ…なんだよな。で、その先は?」
 さっき心で問い掛けた言葉を口にしてみる。
「えっ? あ‥」
 とたんに朱の走る頬。こんなキスを仕掛けておいて、そのギャップは何なんだ? と、突っ込みたくなるような恥じらいを見せられて。
 思わず強く抱き込んで、勢いに任せて畳の上に押し倒してしまった。
「やっ…! 何、ちょっ‥火村!」
 もつれながら困ったような、驚いたような声を聞く。
「わからないよ。アリス」
 埋めた髪に囁きを落とす。
「ひむ…ら…?」
 不思議そうな疑問符つきで呼ばれて、少し顔をあげると至近距離で俺を見上げているアリスの目と出会う。
 本当に…どうしてこいつと来たら、こんなに 俺の感情に波風立てる のが得意なんだろう。
「どうしたいんだ。お前?」
 大事にしたい、でも、壊したい。そんな思いがせめぎあう。
「火村…」
 一瞬、アリスは笑ったように思う。
 思う、としかいえないのは、あまりにも近すぎて見えなかったから。
 ぶつかるようなキスは、始まりと同じく唐突に離れる。
「好きやで、火村」
 真面目な目で呟いて、ふわっと包みこむように伸びてくるアリスの腕。
 『起こして』と、のぞまれるままに引き起こしてやる。
「恐いだけ」
 耳元で囁かれて、それが『さっき』の答えだと気付くまで数秒間。
「アリス?」 
「あん時、痛くって、じんじんして…、わけわかんなくなって‥でも、どっかで、安心してた」
 国語の問題でも答えているかのように文節を一つ一つ区切って囁かれる言葉。
「安心?」
「うん。男同士やん。こんなんあかん‥って思ってても、それでも好きで。俺らの気持ちの行き場所なんてないって思ってたから、こんなこと出来るんやって…安心して。これで火村と一緒に居れるんやってほっとして…。幸せで。でも恐かった」
「何が?」
「変わっていく自分が…。変えてしまう君が…」
 溜まっていたものを一気に吐き出して、ふぅっとアリスは息をつく。
「それでも好きなんやもん。どうしようもないくらい‥。だから、…今日は夜桜…見てくから」
 あっさりと‥。本当にあっさりと言われてうなづいた後で気付く。その言葉の重み。
「なんて言った、アリス?」
 掌に両頬を包む。
「もう、答えた」
 呟いて静かに閉じるまぶた。
「わかった。あとでゆっくり、見ような」 


 閉じられた窓の外、月に輝く桜は満開。

 でも、何よりも美しい花は
     俺の腕の中で、今、
       艶やかな花を咲かせようとしていた。

                                      

Moon Notes「花盗人」より再録。
といっても、もともとはチェシャ猫亭様のWebページに載せていただいたお話でした。
『花三題』話の第一作ってことで本にまとめたくって下ろして頂いたのでした。
そして、またWebにもどってきましたという…(笑)
ちなみにこの話は「春の宵」→「花盗人」と続きます。

                      

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