Night&Day@



「はい、もしもし。有栖川で‥あぁ火村。今どこなん? えっ? 仙台。うん。大丈夫やで。 うん、じゃあ、8時な」

  
♪♪♪     

 メインストリートから外れ三筋ほど入った普通のビルの地下への急な階段を降りたところにその店はあった。
『ちょっと、奥まってわかりにくい所らしいんだけどな。まぁ阿倍野だから、お前は地元みたいなもんだし、大丈夫だろう』
 そんな言葉に乗せられて、地図も持たずに気楽な気分で家を出たのが運のつき。結果的には、結構近くで行ったり来たり…を繰り返していたようで無駄な時間を過ごしてしまった。
「地下なんて言わへんかったやんなぁ。全く。わっ、半時間遅れかぁ」
 ぶつぶつ言いつつ確かめる。飾り気のない木の扉にかかる地味なプレートに流れるような『奏』の一文字。
「ここやな『カナデ』。店の名前より、場所をもっとちゃんと聞くべきやったわ」
 ようやく辿り着いた安堵感に一息ついてから、扉を開けた。
 カランカラン‥と鳴る音に、一瞬、店内の注目が全て新参者に向けられる。そんな気がして、思わず立ち止まる。しかし、店内に人影はまばらで、ちらっと振り向いた人もすぐに自分たちの会話に戻った。
『いい店を教えてもらったんだけど、出れるか』
 火村の誘い言葉を思い出す。
 ちょっと一杯‥の雑然さ、とはかけ離れた、落ち着きのある店のようだ。BGMはジャズ。ブルーノートの調べがよく似合っている。
「誰に聞いたんやろ…火村の趣味ってわけないなぁ」
 そんな事を思いながら視線をめぐらす。いつもの居酒屋と違って、半分は女性客。結構若い子もいる。
 そんな中。一番奥にあるカウンターの一番奥まった所で、手があがっていた。ほの暗く一番遠い場所でもすぐにわかってしまうシルエット。
(なんだって、ああも決まるんかなぁ)
 心の呟きが苦笑に変わる。
 煙草の匂いと、ざわめきを載せて届くピアノの音色の中、アリスは火村へと近付いていった。

「よう。遅かったな」
「そうかぁ。出掛けに電話があったから」
 あいさつ代わりにグラスをあげる火村に、迷ったと言わないアリスの強がり。
「ふーん」
「なに?」 
「いや」
 ま、そう言うことにしておこう…そんな言葉と共に飲み干すオン・ザ・ロックは、既に四杯目。
 一杯毎に電話を入れたなんて事は決して口には出さない。
「なんやニヤニヤして。変な奴」 
 答えない火村にタイミングを計ったように、カウンターから声がかかった。
「いらっしゃいませ。何かお作りしましょうか」
 バーテンダーの穏やかな声がこの店によく似合う。
「あ、そうやなぁ…」
 アリスを待たずに横合いから火村が口を挟む。
「任せますよ。どうせよくわかんないだから。適当に軽いのを作ってやって下さい。ついでに俺にも、もう一杯」
「かしこまりました。君は火村君の言う通りでいいのかな?」
「えっ」
 気さくに問われて、もちろんというように首肯く火村と、目の前で静かに笑みを浮かべる顔を見比べる。
「知り合い?」
「あれ? お前、知らなかったか? 東堂さん」
 どちらに言うともなく零れた言葉を火村が拾った。
「東堂?」 
 記憶を辿る。
 火村と共通の知り合い。       
 ここ何年か、火村の助手として色々な事件に顔を出した事もあってそういう存在も増えた。でも、警察の関係者とは思えない。その他の関係者となると関わった人間全てを覚えてはいられないが、目の前の人物なら簡単に忘れない。それ程に整った顔立ちをしている。、どこか異国の血が入っているような容貌だ。察するに北欧のどこかだと思う。
 年齢不詳。でも、火村を『くん』づけで呼ぶのだから自分達よりは少しは年上なのだろう。そうは見えないけれど。
「わからへんなぁ…」
 出版社、仕事…学生時代。遡る記憶のどこにも思い当る姿がない。優しい目に謝罪する。
「すいません」
「いえいえ。私も考えてみましたけれど、火村君の思い違いでしょう。はい、どうぞ」
 琥珀色のグラスが差し出される。
「そうだったかなぁ」
 答えたのは火村。
「えぇ。あの頃、君達はまだ知り合いじゃなかったですよ」
 二人を見比べクスッと笑う。
「あぁ。そうか。アリスが来る頃には、もういなかったんだ」
「なんやねん。意味不明な事ばっかり言うて」
 一人納得している火村にアリスは口を尖らせる。
「悪い悪い。じゃ、改めて紹介しよう。こちら東堂さん。英都の先輩で下宿仲間だったんだよ」
「下宿って篠宮さんとこ」
「そうです。初めまして。東堂です」
「あ、有栖川です」 
「いつも楽しませてもらってますよ。ご活躍何よりです」
「はい?」
 とっさに意味が理解出来ないアリスに火村の解説が入る。
「東堂さんな。有栖川先生のファンなんだってさ。奇特な人ですねぇ。相変わらず…」
「そんなことない。読み易くて好きですよ。有栖川さんの文章。そうだ。あとで、サイン頂けますか」
「はい。喜んで。いやぁ、なんか感激です」
「それは私の台詞ですよ。作家さんと知り合えるなんて滅多にない事なんですから」
 軽い握手をして、静かな微笑みを交わす二人を見ていた火村が何かを呟いた。
「なんやねん」
「いや、別に」
 はっきりと聞き取れなかったその断片がアリスの中で妙にひっかかった。

 どうみても年上に見えない東堂だが、実は三つも年上。火村と有栖が知合ったのは大学二回生の時だから、もう東堂は卒業した後だったのだろう。
「そう。篠宮さん所、結局もう火村君だけなんだ」
「こいつがのさばってるから他の奴が来ないんですよ」
「違うね。俺が入った時、『最後の下宿生』って決めてたんだってさ。ばあちゃんは」
「最初っから可愛がってたからね。火村君のこと」
「へぇ。そうなんですか」
 昔話に花を咲かせ、しばらくは二人の前にいた彼だったが、そのうち他の馴染み客に対応したり、注文に答えてカクテルを作ったりと忙しくなり始めた。
「悪いね。せっかく来てくれたのに」
「いえ、気にしないで下さい。商売繁盛で何よりですよ」
「おかげさまで。ようやく軌道にのってきたって所だよ。まぁ、ゆっくりしていって。有栖川さんも‥」
 柔らかい微笑みを残して、東堂はカウンターの中央へと戻っていく。

「なんていうんか、華のある人やなぁ」
 カウンターに若い女の子が並んでいる事に納得がいく。それほどにシェィカーを振る姿が芸術的。
「変わってないよ。全く。考えたら十五年ぶりだっていうのに、全然変わらないってのも恐いな」
 いつになく温和な火村の表情。それは確かにくつろいだ時の顔だけど‥。ふと、不安になる。
 ダッテソレハ…オレノマエダケノヒムラダカラ…
「‥なんでなん?」
「ん?」
「いや、こんな近くにいてるのに十五年も会ってないなんて、変な感じやと思って」
「確かにな。毎年ばあちゃんとこに年賀状来てたんだけど。住所は‥札幌だったかな。でも、ここ何年か音信不通でね。ばあちゃんも気にはしてた。まさか、戻ってきてたとはなぁ」
「知らんかったんか」
「連絡もないのにわかるもんか。おととい、空港で声かけられなかったら、今も知らないままだな」 
「……ふーん…」
「何だよ」
「別に…何も…。それより、仙台どうやった? 学会やったんやろ」
 急な話題転換に、少しの間をおいて火村が答え、いつものペースが戻ってくる。

 でも…。違う。
 小さな小さな棘がささったような痛み。
 その人を見つめる眼差しが、
 その人と話す口調が、
 その人へ見せる表情が…。
 アリスをたまらなく不安にさせている。 
『偶然なんか』
 飲み込んだのは、そんな一言だった。


♪♪♪
     

「なんか混んできたな」
 ふと、気が付くと店内の人数が増えている。
「仕事帰りなんだろ。金曜日だし」
「あぁ、そっか」
 自分にもこうして仕事の疲れを癒すために落ち着ける場所を求めていた時代はあった。思えば、一日を時間に束縛されない生活を送り出して久しい。
「一週間で一番ほっと出来る時間に来て貰えるような店って大したもんやな」
 いくつかの仕事の後、この店に落ち着いたのだと東堂は言っていた。だからこそ、雰囲気のある店を作れたのだろう。
「作家もそうだろう。人間をしばし現実から遠ざけると言う意味においては…。で、どうなんだ? 今度はうまく殺せたか」
「なんや、それ。人聞きが悪い言い方するなぁ」
「事実じゃねぇか。でもまぁ、何だな。年柄年中人殺しの事を考えてるなんて、推理小説家ってのはどっか変わってるよな」
「犯罪心理学を教えながらフィールドワークなんてしてる奴よりは、まだましやと思うけど」
「それをいうなら、犯罪をする人間が一番変なんだよ。俺じゃない…。いや、内在している可能性としては否めないけどな…」
 最後の言葉と共に、深く吸い込んだキャメルを燻らす火村から笑顔が消えてしまう。
『人を殺したいと思った事があるから』
 未だに触れられない火村の一面。
《沈黙は金》とことわざは言うけれど、果たしてそうなのだろうか。踏み込んでしまった方がいいのだろうか。
 とまどいで言葉をなくしたアリスをちらりと見て、火村はグラスを置いた。
「心配するな。今の所は超変人にはなりそうにないから。さて、そろそろ出ようか」
 立ち上がりながら、肩をたたかれる。
「…うん」
 そんな二人に気づいて、東堂が呼び止めた。 
「あれ、もう?」
「また来ますよ。東堂さんも京都ぐらい来て下さいよ。ばあちゃんにちゃんと報告しておきますから」
「そうだね。あ、でも…ちょっと待って。あと少しだけ。いいですか、有栖川さん?」 
 尋ねられたアリスがうなづくと、東堂は手を挙げフロアから人を呼び、カウンターから出てくる。
「…せっかくだから、本業の方も見ていって下さい」
「本業?」
 二人の声が揃って疑問を投げ掛ける。
「えぇ。私的には、マスターよりもバーテンダーよりも…」
 そう言って東堂が歩きだすと同時にBGMが止まった。ざわついていた声も止まって、みんなが彼の動きを追っている。
 扉の近くの飾り気のないイスにギターを持った東堂が腰をおろすと、パチパチと拍手が起こった。
 スポットライトなんてなくてもこの空間の誰もが知っている。そこが彼の舞台。
「…ありがとうございます。ちょっと時間外だけど一曲歌わせて下さい」
 そう言って弾き始めたのはどこかで聞いた事のあるメロディ。
「なんやったっけ‥この曲‥」
「ナイト&デイ」
 即答した火村の指先がリズムに合わせて動いている。
「知ってるん?」
「昔からあの人が気に入ってた曲だよ。本当に、夜も昼も‥よく聴いてたなぁ‥」
 懐かしそうに東堂を見つめる火村の横顔。
 気が付くと、胸を押さえている自分。
 チクチク、チクチク…。
 なんなんだろう。この痛みは─────。

「アリス、どうした?」
「え…」
 いつのまにか演奏は終わり、店内にはざわめきが戻っている。
「気分悪いのか?」
「ううん、大丈夫やで…。帰ろか」
 立とうとして、よろめいた。
「おっと危ねぇね。やっぱ、酔ってるだろう。お前にしてはハイペースだったからなぁ」
 とっさに支えた火村のバリトンが、耳元に聞こえて思わず震えがはしった。もちろん、それは身体の奥に火がつくような震え。
「平気やって」
 するりと抜け出してはみたものの、心は裏腹。
 すがりついていたい。
 抱きしめていて欲しい。
 何よりもそこが一番、落ち着けるから。
「無理するな。ちょっと座っとけ。勘定してくるよ」
 そんなアリスの強がりを見透かしたように、優しく諭すように告げて火村が席を離れる。テーブルを縫って歩く後ろ姿をぼうっと見ていたアリスに、戻ってきた東堂の声。
「お耳汚しでしたね」
「…いいえ、とんでもない。素敵な歌でした」
 切なくなるほどに…。
「ありがとうございます。バカの一つ覚えといいますか、昔から好きでしてね」
「火村がそう言ってました」
「そうですか…憶えてたんだ…」
 呟いて、ふっとほほえんだ東堂に火村と同じ表情を見た気がして…。
 見たくない…と思う。
 自分の知らない火村と東堂の時間。
 反面、気になって仕方がない。
 火村があんな穏やかな顔を見せる相手が目の前にいることが。
 言葉もないままのアリスに、東堂の言葉が続いた。
「いい男になりましたね。彼は…」
「火村が…ですか?」
 当たり前の事を聞き返している自分。
「ええ。落ち着いて…大きくなって。もう、夢にうなされる事もないんでしょうね」
 その瞬間、アリスの耳から店内の全ての音が遮断された。
 東堂の唇がまだ何か言葉を零しているけれど、それすら素通りしてしまう。 
 今、この人は何を言った?
 この人は…一体なんなんだろう?

「何をこそこそ言ってるんです?」 
 火村の声がした。
 たくさんの音が戻ってくる。
「別に何も…。そういえばサインを貰い損ねてましたねって言ってただけですよ…。本当にまた来て下さいね、有栖川さん」
「こいつだけですか?」
「有栖川さんを誘えば、火村君は勝手についてくるでしょう」
 でも、まだ目の前で交わされている会話の意味もわかっていなかった。


Aへ続く

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