Night&DayA

♪♪♪
     

 夜の公園。
 もう既にアベックの影すらない時間。
 タクシーを降りた後、部屋に戻らずここに来て、もうかれこれ一時間ほどたったんだろうか。
「…さむ…」
 白い息が零れる。
 そういえば未明から雪と聞いた気がする…と思い出して、ベンチ代わりにブランコに座っていたアリスは凍り付く我が身を抱きしめる。 
 今、涙が出たらつららのように凍りつくかもしれない。それほど冷えている身体と心。
 なんでこんなことになったんやろう…。
 本当なら、今晩は火村の横でのんびりと過ごせる筈やったのに───── 。

 あの後、表通りに出た火村はタクシーを拾った。

 アリスが無口になっているのを完璧に回っているからと思っていたらしい。
「ほら、乗るぞ」
「…いやや…」
「ん? 何て?」
 ぼそっと呟いたアリスの声に耳をよせて火村が尋ねる。
「いらん、歩く…」
「バカ言うな。へろへろだぞ、お前」
 抱えられていた腕を振りほどき、思わずアリスは叫んでいた。
「歩くったら歩くんや! 乗りたかったら一人で乗れや!」
 その剣幕に初めて、火村はアリスの不機嫌に気づいたようだ。
「どうしたんだ、一体」
「いいから、ほっといてや! 帰りたかったら勝手に帰れ」
 支離滅裂なアリスに眉をひそめる火村。
 しばらくの睨み合いの後、火村はふっと視線をそらす。遠ざかる背中がタクシーに吸い込まれる。
 遅い時間とはいえ、繁華街だ。何が始まったのかと見てみぬフリで遠巻きでいた人々が動き始めた。
 アリスだけが動かない。
 何だか頭がまわらなくて、何が何だかわからなくて…。道のど真ん中で立ちつくしていたアリスに、ぶつかった酔っ払いが手を挙げて行きすぎる。
「おっと、兄ちゃん、ごめんよ〜」
 よろめいたアリスを支える腕。
「っと、大丈夫か」 
「…嫌やって」
 行ったはずの火村の声に驚きながらあらがうが、強い力に引きずられタクシーに押し込まれてしまう。
「わかったから、お前が乗れ。俺が勝手に帰る。出して下さい。お願い」  
 します、と繋がるはずの言葉はドアの閉まる音に消された。
 何を言う事もなく走ること数分。
 あらかじめ火村が手配していたようで、マンションの前で降ろされた。しっかりつり銭まで渡されて。
 ただ、部屋に戻る気になれなくて、足のむくままふらふらと…気が付けば公園まで来ていたのだ。

「…なんなん、一体…あの人…」
 すっかり酔いも覚めた頭が今日のあれこれを再生している。
 ズキズキ、ズキズキ 再び疼き始める心。 
 火村と会うのは、三週間ぶりだった。
 取材に行っていた自分と学会前の火村のスケジュールが微妙にズレて会えずにいたから。その間、一・二度電話をしあっただけ。
 それでも全くどうってことはなかった。
 別に四六時中、共にいたいわけではないから。そんな時期はもう過ぎた。つかず離れずのこの距離感が、自分たちには丁度いい…そう思っていた。
 でも、今は…。売り言葉に背を向けたその後ろ姿がとても遠い。
 ふいに、わかった。
 この痛みの正体。
 これまでの火村との関係で、感じたことのない不安だ。
「…ひむ…ら…」
 
「やっと呼んだな」
 微かな呟きが届いたかのように、火村の声がする。
 見渡すが姿はない。 
 幻聴まで聞こえるほど、冷えきってしまったのか。
 気まで変になりかけてるのかも…。
「遭難者やなぁ。登山もしてへんのに」
 クックッ…と笑いがこみあげてくる。
 でも、今の自分にはぴったりの言葉だ。
 火村への道で遭難しているから。
「おいおい、大丈夫か?」
 再び、火村の声。
「大丈夫やない。遭難中やねんって。火村って山で迷ったみたいや」
 幻になら何だって言える。
「今まで迷ったことなかったんやで。俺、単純やから前しか見てへんかったからなぁ。火村はずっと一緒におったし。過去なんて見ようとも思わんかったから…。だからなんか、今日はすごくショックやったんや」
「なんで?」
「だって、あんな顔したんやで…火村が。俺にしか見せた事ない顔で他の人を見てる」
「嫌だったのか」 
「当たり前やんか。それやのに、火村ときたら『ヤバイ』とか言うねん。自分で会わせといて。会わせてヤバイ相手やったら隠しときゃええやん。あんな素敵な人に比べられたら、俺なんてひとたまりもないもん」
 最初のひっかかり。握手していた二人を見ていて火村はそう呟いたのだ。
「なるほど‥とんでもない誤解をしてやがる」
 ふいに、ブランコが揺れる。背後から強く掴まれたせいだ。振り向こうとした頬に仄かなキャメルの匂いがしみついたコートが触れる。
「どうしてお前と東堂さんを比べたりするんだよ」
 溜息と共に降ってくる言葉。
「‥火‥村‥? ホンモノ?」
 夢から覚めたように呟くアリスを背後から包み込むのは幻なんかじゃない。
「何をバカな事言ってるんだか‥。お前、まだ酔ってるのか?」
「はじめから酔ってへんわ」
 酔っ払いはそう言うんだ、と思いながらも火村は逆らわない。さっきからの言葉でアリスの苛立ちの原因がわかりかけてきたから。
「そうか。じゃあ、ちゃんと話出来るよな」
 諭すように言われて、アリスはコクンと首肯く。
「最初に言っとくけど、俺は‥お前を誰とも比べたりなんかしないよ。いや、出来ないよ」
「火村」
「ヤバイって言ったのは、東堂さんがアリスをえらくお気に召した事に対してだな。俺の知る限り、あの人が自分から握手を求めるなんてなかったから。あぁ見えて結構きつい人でね。そういえば、昔からお前の事気に入ってたなって思い出して、つい口に出た」
「昔からって、俺を知ってたって事?」
「あぁ」
「どういうこと?」
 気忙しくカチッカチッとライターを付ける音。
「どこから話せばいいんだか…」
 考えるような口調にアリスが辛抱強く待っていると、深く吸い込んだ煙と共に火村が語りだした。 
「あの頃、もう下宿生は二人だけだったけど、お互い人に馴染もうとしない質だったから、最初はあいさつ位しかしない仲だった。変わったのは…秋頃。東堂さんが弟を亡くしてから」
「亡くした?」
「あぁ。突然、実家の火事で。葬式から戻ってきてから、東堂さんボロボロでね。大学も行かずに飲んだくれて、よく玄関先で倒れてた。でも、ばあちゃんも事情を知ってるだけになんとかしてやりたいって思ったのか『火村さんも力になってね』って。頼まれて部屋まで担ぎ挙げた事もあった。想像出来ないだろ、今日の姿からは」
 火村のあの懐かしそうな目はそんな遠い日の東堂と今の彼を見比べていたのだろうか。
「とにかく、そんな事がきっかけで一緒に飲んだりし始めて。あの頃、俺は酒はダメだったから誘導尋問で簡単に何でも喋ったらしい。ちゃっかり気になる奴の事も知られて。お前の事わざわざ図書館まで見に行ったらしい。『見てきたぞ、俺も気に入ったよ』なんて言われて焦ったな」
「ちょい待った、なんで俺が出てくるん?」
「だから、俺が気に入ってる奴って言ったろ」
「え、でも、俺等が初めて会ったんは五月やろ」
 思わず振り向くと『やっと見たな』と火村は微笑む。
「いくら俺でも初対面からあんなに図々しくはなれねぇよ。かなり考えたんだぜ、どうやったら不審がられず話せるかって。自然だったろ」
 尋ねられ思わず応えかけ、踏み止まる。
「‥‥東堂さんとは‥それだけやったんか‥」
「ん?」
「同じ所に住んでたわけやんか‥その‥」
 口篭もるアリスに、真面目な顔に戻った火村が助け船を出す。
「関係があったかって聞きたいわけか?」
「…わからへん…知りたい、けど、知りたくない」
 正直な思い。聞きたくはない。でも、知りたい。
 過去なんてどうでもないと笑い飛ばしたいけれど。今は自分の知らない火村が居る事の方が嫌で耐えられない。
 そんなアリスの揺れもお見通しのようで。
「答えはノー。あの頃からお前を見てたって言ってる相手になんでそんな事を考えつくんだか」
「だって、あの人、火村が夜中にうなされて起きる事知ってた!」
 呆れたように言われて、つい大声を出してしまった。
「それだな。俺がいない間にこそこそ言ってると思ったら、全く」
『人が悪いとこは変わってない』と、ここには居ない存在に毒突いている火村だが、一呼吸おいて、アリスには優しく尋ねる。
「一体、なんて言われたんだ?」
 多分、その言葉がアリスの不安をかきたてたのだとわかっているから。
「火村はもう、夢にうなされることないでしょうねって言われた…」
 宥めるように髪をすかれながら、アリスは早口で答える。言い切ってしまわないと泣きそうだったから。
「あぁ。そう言うことか…」
 それならば他意はないだろう。
「俺の何倍もうなされてたんだよ。東堂さんが‥。弟が縋りつく手に届かないって、自分の悲鳴で飛び起きてしまって。泥酔してた頃はひどかったよ。ほとんど毎晩、隣の部屋まで聞こえた程にな」
 思い出しても悲しい声だった。
 その後、涙が枯れるまで聞こえ続けた啜り泣きも憶えている。
 多分、東堂と弟の間にはただの兄弟だけではすまない何かがあったのだろう。尋ねた事はないが火村はそう思っている。
「いつだったか。一緒に飲んでて寝ちまって、逆に俺のせいで起こした事があったんだ。その時に言われた。『隣にいて安心出来る相手と出会える日がいつかくるよね、お互いに』って。自分に言い聞かせるように言ってた。『いつかそんな人と出会ったら、必ず相手を見せあおう』とも言われてた。でも、結局。お前が下宿に来るようになった頃には、もう東堂さんは出ていってたから、今までちゃんと紹介することは出来なかったけどな」
「‥でも、火村は、俺と会ってからだって…」
 何度か見た光景。苦しげな火村のうめき声に何も出来ずに、何も聞けずに、無力さを感じ続けた。それは今だって、完全に解消されてはいない。
「それでも目醒めた時、アリスが隣にいるだけで安心するんだよ」
 気づかぬフリで、見守ってくれているのがわかるから。その存在だけで救われている。
「東堂さんもようやく自分の相手を見付けたんだな。おととい空港で『必ず店に来てくれ』って言われた時にわかった」
「そんな人いてたか? 今日?」 
 自分達以外の相手とも対応していたけれど、別にその中の誰もが特別とは思えなかった。といっても、今日のアリスのフィルターは濁っていたからあてにはならない。
「あぁ。カウンターに交替で入った奴だろう」
「えっ、あの若い子? まさか」
「『かなで』って呼んでたろ。店の名前と同じ」
「えっ…ほんま? そっか。てっきりバイト君やと思ってた」
 はやりの茶髪にJリーガーのような出立ちで、なんとなく店の雰囲気とそぐわないと思った印象を憶えていた。
「なんか意外やな」

「恋愛なんて人それぞれだろう。お互いがよければいいんだ。表面で選ぶわけじゃないさ」
 いつもならアリスが言うような正論を火村が言っている。
「…そうやなぁ」
「あの曲を歌ったのも彼が来たからさ。いつか大事な人の為に歌いたいって言ってた曲なんだよ。今は歌えないけれどって」 
 火村がまたあの懐かしい目を見せる。でも、もうその表情にも胸は痛まない。
「幸せになれたらいいな、東堂さんも」
 素直にそう言える。
「あぁ」
 ふと、あの歌声が蘇る。
 夜も昼も…愛する人と寄り添って生きる事が出来る。その自信が東堂を輝かせているのだろう。
「納得出来たならそろそろ帰らないか。俺達は俺達の形に戻ろう」
 差し出された手を今なら素直に取れる。
「うん」
 お互いに凍った手を握り合う。
「寒かったろ」
「火村も」
「全くだ。勝手に誤解して飛び出した責任とってくれるよな」
 口では責めながらもその目は優しい。
「…俺に出来る事やったらな」
 はにかんだように言うアリスを火村は強く抱きしめる。
「早く帰って暖めてくれ。お前の中で」
 耳元で囁かれて、アリスは小さくうなづきを返す。
「そんな事でいいん」
「充分だ」
「ん。帰ろ」
 歩き出そうとして、ふと、互いの足が止まる。
「火村」
「アリス」
 どちらからともなく、誘い合い。
 重なり合った唇がいつまでも、長い長い影をひいていた。


end


という事で、Night&Dayでした。オリキャラがでしゃばってて…って話だけど、東堂さんは実はお気に入りなので、もっとどこかで書いてみたい気もしてます。

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